デッド・エンド
陽光が傾き、燃えるようなオレンジ色に街が包まれる中、俺はと言うとそんな光景にしみじみ浸っている余裕など皆無で、一路駅へと早足で向かっていた。
放課後、同級生の土田の家に行って遊んでいたのだが、今日が塾のある日だということに気付いて、慌てて飛び出してきたのだ。帰り際、その彼は親切にも、駅への近道を教えてくれた。
少しわかりづらいけど、住宅地の方を通っていけば、かなり早く着くよ。
その言葉通り、俺はいつも通っている大通りから逸れて、人通りの閑散とした、静かな住宅街に足を踏み入れたのである。
当然ながら、ここは大通りとはまるで様子が違う。
雑踏など皆無、それどころか歩行者の人影さえまばら。通りの車の音も子供の声も、全く耳には届かない。世界から人間がみな消えてしまったかの如くに、しんとした静寂が広がる。あまりに静かすぎて、何だか気味の悪いほどだった。
そのせいもあって、自然と歩くペースも早まる。
路地は入り組んでいて、さながら迷路のようだ。しかし、詳しい行き方は土田に教えてもらっていたから安心だ。
彼の指示通りに、右へ左へ十字路を折れて進む。
暫くそうしていたのだが、唐突に目の前で道が途切れた。俺の身長よりも高く、立ちはだかる壁。どこかに抜け穴のようなものもない。
完全に行き止まりだ。
道を間違えたのだろうか。
慌てて一つ前のT字路に戻ってきたのだが、土田は確かに五つ目を左にと言っていたはずだ。
首を捻りながら、辺りを見回した。しかしこの辺りの地理には全く疎い俺にとって、その行動が何かをもたらしてくれるわけはない。
聞き間違いかと考え直して、俺は今度は右の道に進んだ。
ポケットからスマホを取り出して、時刻を確認する。まだ僅かばかりに余裕はあるが、あまりぼやぼやしてはいられない。次第に歩幅も大きくなり、足を動かす速度も早まった。
少しばかり歩くと、また別の十字路に出た。鮮やかな赤い屋根の家が、角に建っている。土田の言っていた目印だ。彼曰く、ここが最後の十字路である。
俺はホッと一安心した。
やはり聞き間違いだったのだ。こっちが正解の道なのだ。
ここを右に折れれば、見慣れた駅前に出るはずだ。
俺は早歩きでずんずんと進んだ。もうすぐこの住宅街を抜けられるだろう。
脅かしやがって。何はともあれ、電車には間に合いそうで何よりだ。
それで強張っていた顔も、ふっと綻んでいた。
だが――、
行き着いた先は、またしても聳え立つ壁。行き場のない袋小路だった。
馬鹿な。確かに土田は次の十字路を、赤い屋根の家のあるところを右に曲がれと言っていた。
またしても聞き違いか?
いや、そんなはずはない。それが最後の指示だったのだ。よく覚えている。確実に右だと言っていた。間違いない。
ならば、どうして?
唸りながら訝しんでいると、別れ際の土田の顔が脳裏に浮かび上がってきた。
あの顔。今思い出してみると、口角が普段より上がっていたような気がする。目尻に皺が寄っていたような気も。どこか企みを含んだような、ほくそ笑んだ表情をしていたのかもしれない。
……そうか。
あの野郎、俺のことをからかって、わざと行き止まりのルートを教えたんだ。きっとそうに違いない。
俺は土田の掌の上で弄ばれているような気分になり、内心の怒りをなんとか抑えながら、道を引き返し始めた。しかし、無意識のうちに拳に力が入る。地面を蹴る勢いも強くなる。どしどしという音が、この静かな空間に響いて、周りの家々の中にまで伝わりそうだ。
そんな風に、いつの間にか隠そうとしていたはずの苛立ちを露わにしながら、赤い屋根のところまで戻ってきた。
ここを左に行けば出られるだろう。
再びスマホで時間を一瞥する。まだ大丈夫だ。
俺はこの十字路を、今度は左に曲がって、先を急いだ。
全く、こんなことなら、いつも通りの道を行けばよかった。
今頃、見事に引っかかった俺を嘲笑しているであろう土田の顔を想像して、余計に苛立ちが募る。
あいつめ、明日会ったらただじゃおかないからな。
などと、心の中で悪態を吐きながら歩き続けた。
――だが、
俺の足は、ぱったりと動きを止めた。一度歩みを止めざるを得なかったのだ。
眼前に現れた、その既視感のある光景を目にして。
壁。
コンクリートの、壁だ。俺はまたしても、行き場のない袋小路に入り込んでしまったのだ。
こっちでもなかった。
となれば、あの十字路はまっすぐ行くべきなのだ。
俺はまた時計を見た。もう時間がない。
必然的に駆け足になって、俺は十字路へ引き返し、今度は真っ直ぐの道に進んだ。
だが、またしてもすぐに行き止まりにぶち当たった。
俺は困惑した。
三方向、全ての道が封じられているのだ。これでは、どこにも行きようがない。
まさか、最初から既に道が間違っていたのか? しかし、いくらなんでも、あの土田がそこまで酷い悪戯をするだろうか?
ざわざわと不穏な風があたりにそよぐ。木々を揺らし、葉を擦らせるその音に、俺の胸までざわついた。
心臓が早鐘を打ち始め、掌にじっとりと汗が滲んできた。呼吸が無意識に早くなる。喉に唾液がこびりついて、軽い吐き気を覚えた。
それをごくりと飲み込み、俺は十字路からさらに道を引き返し始めた。
ちらちらと何度もポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。もう塾には間に合わない。だが、もうそれはいい。
とにかく今は、この忌々しい街路の迷路から、即刻抜け出したいのだ。
しかし――、
これまで何度も目の前に現れてきたデジャヴに、俺は愕然となった。
ば、馬鹿な……。
さっきまで道が開いていたはずのところに、壁が。冷徹なまでに高く聳え、矮小な俺を見下ろしている壁が、そこに。まるで、最初からそこにあったみたいに、道を塞いでいたのだ。
俺はついさっき、この先にあるT字路を右に曲がって、この道を通ってきたはずなのだ。
なのに、なのにどうして、この道が行き止まりになっているというのだ。
何かがおかしい。
本当にこれは土田の悪巧みなのか?
俺はキョロキョロと、もはや体裁などお構いなしに、首を振って周りを見回した。どうせ、人っ子一人いやしないのだ。不審者扱いされる心配もない。
だが、こんなところは普段なら通りもしない道だ。おまけに、殊更代わり映えのない一軒家の集合。どこがどこだか、全くわかりはしない。
俺はスマホを取り出して、また時間を調べようと思った――
その時だ。
俺の頭の中で、閃きが起こったのは。
地図アプリで道を検索すればいいのだ。現在地だってGPSですぐにわかる。
どうしてこんなことを、これまで思いつけなかったのだろう。
俺はすかさずアプリを起動させ、位置情報を取得しようとした。
……どうした?
いつまで経っても画面上でぐるぐる線が動いているだけだ。ずっとロード中のまま。遂には、通信エラーのポップアップまで現れた。
それもそのはずだった。
今やっとそれに気付いた。電波が、一本たりとも立っていない。
圏外だった。完全なスタンドアローンだ。これでは、位置情報を得るどころか、他人と連絡を取ることも、助けを呼ぶことも、何もできない。
待てよ……。
そこで、俺ははたと思い立った。
ここは住宅地のど真ん中だぞ。携帯が圏外なんてあり得るわけがない。
やはり、おかしい。何かが狂い始めている。そんな気がした。
ともかく、このままぼうっと突っ立っているわけにもいかない。
ここは恥を忍んで、近くの家に道を教えてもらおう。それしかない。
さて、と、俺はどこか入りやすそうな家がないか見回してみた。
だが、またそこで思いがけず、俺は奇妙な光景に気付いてしまったのである。
どの家も、門がこの道に面していないのだ。
ただただ塀が続くばかり。延々と。塀、塀、塀。
嫌な汗が頬を伝った。悪い予感が頭の中を過ぎり、いてもたってもいられず、歩きながら一つ一つ家を調べて行った。
しかし、壁は続いている。途切れることなく。どこまでも。
そこここに、手の届きそうなところに家があるのに、一軒もこちら側に門がない。こんなことがあるのだろうか。
俺は立ち止まって、中に声をかけてみた。
返事はない。
この家も、あの家も、あっちも、こっちも、どこもかしこも留守だ。人の気配さえない。
それでよくよく見てみれば、どの家にも人のいる様子がない。まるでゴーストタウンだ。
馬鹿な。平日の夕方とはいえ、住宅地に人が誰もいないなど、ありえない。馬鹿げている。
焦燥感。困惑。混乱。不安。
それら全てがごちゃごちゃになって、頭の中を掻き回してくる。はちきれそうに膨れ上がった感情で、今にも心が折れそうになっていた。
俺は歩き続けた。
もう一度、あの十字路に戻ってみよう。きっと、そこで勘違いして、変な道を選んでしまっていたのだ。
そうに違いない。そうでなければ、説明がつかない。
俺は、自分を安心させようと、過呼吸になっていた息を整えながら、先へと進む。
そう。思った通り、あの十字路で道を間違えていたのだ。わかってしまえば簡単なこと。真っ直ぐ進めば駅前に出るのだ。
俺が勝手に間違えていた。それだけだ。何も、変な超常現象など起こっていない。
ほら、見てみろ。携帯の電波も元通りだ。ネットに繋がる。
人の姿もある。人の声もする。車の走る音も、電車の音も。
何もかもいつも通りの日常が、そこに待っている。
俺はそんな想像で、自らの心を保ち続けた。そうしなければ、俺は今にも発狂しそうだった。
しかし――、
そんな幻想など、いともたやすく、まるで人間の足に下敷きにされた蟻の如く、脆くも潰えた。
そこはさっき通った、赤い屋根の家のある十字路のはずだった。だが、今俺の目の前にあるのは、壁。
コンクリートで塗り固められた、巨大な、巨大な壁だ。心なしか、これまで見た壁よりも、上背があるように感じる。
その向こうに、赤い屋根が見えた。何度も目の前を通って、すっかり見慣れた真紅の赤。
血の気が引いた。ぞわりと鳥肌が立つ。思考が停止して、脳がパニックを起こしていた。眼前の景色が揺らぐ。眩暈と浮遊感。
何かの間違いだ。こんなこと、普通に考えて、現実的ではない。
ぶるぶると身体を震わせるようにして、自らに言って聞かせるようにして首を振った。
だが、現に道がどんどん塞がっている。行き止まりが、迫ってきている。
もはや、ここは住宅地ではない。姿形を自由に変化させる、無機質の化け物。
今、俺はその化け物のテリトリーの中で逃げ場をなくし、ただ捕食される瞬間を、何もできずに待つしかなくなったのだ。
壁はじりじりと迫る。
はっとして後ろを見れば、さっきよりも壁が高くなって、こちらに近付いている。そんな気がするのだ。
もはや何が幻覚で、何が現実なのか、それさえも区別がつかない。
駄目だ。ここにいては。
いずれ俺はこの壁に飲み込まれてしまう。
平生の状況なら、どれほど馬鹿げた妄想だと思うことだろう。だが今の俺には、それが自然と頭の中に、現実味をもって現れてきていた。
塀を乗り越えよう。
もはや、俺に残された抵抗は、それしかなかった。
ほとんど垂直で、摑みどころなどない平らな塀に爪をかけ、登り始めた。
今にも背後から迫ってくる壁に押し潰されるのではないかという恐怖に、俺は焦り、滑った。
「痛っ」
生爪が剥がれた。脈打つたびにじくじくと指先が痛む。その上擦りむいて、手の甲から鮮血が滲み出ていた。鉄臭さが鼻腔を刺激する。だが、痛がっている暇はない。
俺は懲りずに、また塀に手をかけた。
なんとか足がうまいこと壁に引っかかって、摩擦が生まれた。手応えを感じ、そのまま一気に小さくジャンプするように、身体を塀の上に持ち上げる。
「うあっ」
今度は盛大に腹を擦った。見れば、白いワイシャツに、赤がじわりと広がり始めている。皮膚を液体が這う、こそばゆい感覚に襲われた。しかし、不思議と痛みはない。それどころではない、ということか。はたまた痛覚が麻痺しているのか。
とにかく、ここまでくれば、もう安心だ。
俺は塀から飛び降り、どこの誰とも知れない家の庭に着地した。その衝撃で、足首を挫いた。
すっかり満身創痍である。だが、命があればそれでいい。
とにかく、助かったのだ。
これでこの家の人間に助けを求められる。仮に誰もいなかったとしても、電話を借りればいい。それもダメなら、門の方から普通の道に出られるだろう。
何はともあれ、助かった。
俺は大きな大きな安堵の溜息を漏らしながら、足首を抑えつつ、顔を上げた。
そこで――、全身が硬直した。はっと息を飲んだ。
絶望。
その言葉が、ピタリと今の状況に当てはまった。
俺を押し潰さんばかりに、目の前に差し迫った巨大な壁。
人一人がギリギリ立てる程度の余裕のみを開けて、そこに圧倒的な質量で存在する壁。見回してみれば、いつの間にやら四方を壁に取り囲まれている。
行き止まりだ。八方塞がりだ。
壁は、もはや目に見えるスピードで、みるみるうちに迫り来る。
俺に最期の追い打ちをかけるように。息の根を止めるように。
壁に押されて、文字通り、肩身がどんどん狭くなる。肉が食い込む。精一杯腕を縮こませても、もう駄目だった。
――バキイッ。
鈍い音を立てて、肩の骨が折れた。立て続けに肋骨が折れた。骨が内臓に、皮膚に突き刺さる。血が体内に流れ出し、身体が火照った。満員電車の中のように圧迫され続けていることもあり、汗が止まらない。風がない。空気が滞留している。蒸し焼きにされているみたいだ。
暑い。暑い。暑い、暑い。
めりめりと音を立てて、肉が、骨が、悲鳴を上げ続けている。
暑い、暑い、あついあついあつい。
壁は、行き止まりは、眼前に覆いかぶさり、俺の視界はぺしゃりと潰された。