火色
そう謝った稲瀬佐紀の瞳もまた、何かを決意したようにゆるぎなかった。
ああ。
そんなにまっすぐな目で、あたしの受け入れたくない現実を突きつけるんだ――。
*
目の前に冬が迫っていた。
朝の空気は森林奥深くのように冴えわたっていて、目や鼻がしみるほどにキンと冷えている。やっと寒さが和らぐ昼下がりになれば、(満を持してというべきか)綿雪によく似た羽虫が、空からふんわりと降りてくるのだ。
これを見かけた数日後に雪が降る、というのが、この北の大地では一般常識。
そんなふうに、手宮町にも冬が迫っていた。
「あだっ」
「ちょっと、つかさ、大丈夫?」
いつもなら遠くで大笑いをするはずのアイが、ワックスのかかった床をキュッと鳴らして駆け寄ってきた。
短く、鋭く鳴った笛の音はずいぶん遠くで聞こえるのに、床を踏む音や振動は、背中や脳へダイレクトに伝わってくる。
つかさの顔面にヒットしたバスケットボールは、軽快に弾みながらあらぬ方へと逃げていった……。
「んぐ……へーき、平気……」
体育館の床にひっくり返るつかさを、仲良しグループのアイと親友の美羽がそっと引き起こす。
「げっ鼻血! ホントに大丈夫……?」
「あはは……よりによって元バスケ部が鼻血出すとか、カッコ悪いね」
「つかさ、保健室で休も?」
美羽の不安に下がった眉を見て、つかさはしぶしぶそれにうなずいた。
つかさがこうなった理由は、美羽だけが、知っている。
「稲瀬君とはあれからちゃんと、しゃべれてる?」
「……ふつうの会話は、前よりできてるよ。むしろ、ちゃんと会話になってるかな」
無理に口角を上げてみても、美羽の前ではただのから笑いにしか映らないだろう。
保健室のベッドの上で、鼻にティッシュを詰めたつかさはふっと天井を見た。
体育祭が終わったあの日、ありったけの勇気をふりしぼって、稲瀬佐紀に告白するつもりだった。
けれど、彼はつかさを前にして、それを許さなかった。
あれは、拒絶だった。
つかさはその理由さえ分からない。
でも、稲瀬佐紀のことを考えるたびに、胸がぐっと締めつけられるような息苦しさを感じる。
それは甘酸っぱくて胸が苦しい、なんて甘ったるい感情とは程遠い、鈍い痛みを伴う感情。
稲瀬はかたくなに他人を拒絶している。
小学五年生から――今も。
どうして?
つかさはそのループからずっと抜け出せずにいた。
なるべく考えないようにしていても、つい隣の席に目をやってしまうから、いつまで経っても胸は万力で挟まれたように、痛んだまま。
せめて、席替えしてくれたっていいのに。
稲瀬はどんな気持ちで、毎日あたしの隣にいるの?
「ねえ美羽」
「ん?」
「フラれるって、こんなにつらいんだね」
どれだけつらいかを経験したことがない美羽は、きっと返答に困るだろう。
けれど、それをすべて見通しているかのように、美羽はうん、と短く応える。
なにもかも受け止めてくれる親友が、心から愛おしい。
ベッド脇の椅子に腰かける美羽は、そっとつかさの手をにぎった。
三時限目の体育で退場となったつかさは、四時限目の数学も保健室のお世話になっていた。あいにく養護教員の真島先生は不在のため、誰もいない保健室はおどろくほど静かだ。
目を開けていても、天井もベッドを囲むカーテンもまっ白で、携帯電話も持ってきていないから、多少――いやかなり、ひじょうに、ものすごく、ひまを持て余していた。
目をつむれば、ため息が勝手にこぼれ出る。
「寝るか……」
「佐伯」
「ひゃっ!」
カーテンを勢いよく開けて現れたのは、クラスメイト兼、小学校時代からの腐れ縁の狩野良太郎だった。
「さ、最低! いきなり開けるなんて! いつ保健室入ってきたの!」
「なんだ、元気そうじゃん」
「これでもぶっ倒れたんだから!」
カッとなってベッドから上半身を起こした拍子に、再び鼻血がつうっと流れてきた。
「ちょっと、ティッシュ詰めるからあっち行ってよ」
「べつにおまえのつっぺなんて昔から見てるってーの」
狩野がケラケラ笑いながら断りもなくベッドに腰を下ろしてくる。
二人きりの保健室というシチュエーションではあるが、乙女ゲームなどでよくあるドキドキ展開などは、一切ない。おまけにつかさは鼻にティッシュペーパーを詰めた状態だから、なおさらだった。
「昔と今は違うでしょ」
「そーか?」
「で、何か用?」
「まあね……」
狩野が言葉を濁して沈黙を作る。わざわざ授業をさぼって来たくらいだ、皆がいる教室では言えないことなのだろう。
狩野がこっそり告る、なんて間違ってもないだろうけれど。
「……稲瀬がさ」
その固有名詞が飛び出したとたん、つかさの心臓がびくりと反応した。
「稲瀬が、へこんでる。佐伯、おまえあいつに何か言ったか?」
「え?」
狩野の話がよく理解できなかった。
目をパチパチさせてから、もう一度言葉を反芻する。
稲瀬が、へこんでる。
「どうして……?」
何か言ったか、と問われれば、言おうとしたと応えるべきか。いや、言おうとしたけれど、言えなかったという方が正しいかもしれない。
「たとえば、その……」
狩野は言うべきか言うまいか、めずらしく逡巡しているようだった。だがそれもつかのま。すぐにストレートな言葉が返ってくる。
「……あいつに、化け物、とか」
「はぁ?」
「……違うのか?」
「あたりまえじゃん、何でそんな……あたしは好きって言おうとしただ――」
そこまで言いかけて、はっと言葉を飲み込む。
しまった……!
「え、なに、告ったの?」
狩野の微妙に裏返った声で、久方ぶりにつかさの頬がカーッと熱くなった。
「やだ! 大声で言わないでよ! バカじゃない!」
「うわー、マジか。そっちか……」
狩野は組んだ両手を額にゴツンと押し当てて、なにやら肩をがっくりと落としている。なぜかはわからないが、つかさを茶化すどころではないらしい。
「ねえ、狩野」
「なに」
そのままの姿勢で固まった狩野の背中をつんと突っつく。黒い学生服の下にパーカーを着ているためか、指が肌にあたった感触はなかった。
「狩野は隠してるけど、稲瀬のこと、何か知ってるんでしょ……?」
無言。
狩野はただ沈黙を通した。それでも、つかさはめげずに食らいつく。
「稲瀬は、教えてくれなかった。知らないでほしいって、言われたの」
「……じゃあ、知らないほうがいい」
背を向けたまま、ただそれだけをぽつりと言う。
「でも、狩野は知ってるんでしょ?」
「……俺からは、言えない」
つかの間の沈黙を、つかさが短い返事で破った。
「そう」
「稲瀬のことは、あきらめろ……」
そんなふうに返ってきた言葉が、改めてつかさの胸の奥をえぐってゆく。
眼球がヒリヒリ痛み出して、熱を帯びる。
理由もわからないのに、あきらめられるはずがない。
唇が震えてしまわぬよう、ぐっと奥歯を噛めば、それ以上、言葉を継ぐことができなかった。それに気づいた狩野がふり返る気配を感じたけれど、少し曲げたひざを抱え込むように布団へ顔をうずめるつかさには、腐れ縁の友人がどんな表情をしているのかまでは、分からなかった。
「教室戻る時は、ティッシュ取ってこいよ」
にわかに保健室の扉からスーッと冷気が流れ込んできて、ちょっとだけそれがゆるやかになると、すぐにぴたりと流れが止まった。
翌日、朝から初雪がちらちらと降りてきて、青陵高校の校舎に続く坂はまばらに白くなっていた。
これはいよいよ冬将軍の到来だ。
「おはよ、稲瀬」
「おはよう」
マフラーを外しながら、いつもどおり隣の席に声を掛ける。
赤味がかった目がちらりと動いたけれど、つかさの姿を捉える前に手元の文庫本へ戻っていった。
「きょう初雪だね。おかげで手もひざも、まっ赤だよ」
「そういえば昨日、雪虫飛んでたね。女の子は足元もあたたかくしたほうがいいよ」
「そーだよねぇ、あたしジャージ履いて登校しよっかな」
「松田先生あたりに、怒られるんじゃない?」
「いえてる」
稲瀬佐紀に笑いかけて、つかさはストンと席に着いた。
クラスのみんなからすると、何の変哲もない朝の会話。
美羽や狩野からすると、あきらかに異常な会話に聞こえるだろう。
ただ言葉を連ねるだけの、ただ繕うだけの、あまりにもうつろな会話だった――。
「おーい、佐伯、鼻血はもう止まった?」
教室の入り口側、最前列から狩野良太郎が手を振る。
「いやぁ、オレもつかさチャンのつっぺ姿、拝みたかったなぁ!」
行儀悪く教卓に腰を下ろした岡野健があっはっはと高笑い――つかさに念じるだけで人を呪う能力があるなら、まっ先に岡野を呪うところだ。
「岡野、昨日のあたしと同じ鼻栓姿にしてあげようか?」
ここ一番の笑顔を岡野に向ければ、教卓の周りにいる“うるさいグループ”の男子たちが「コワーッ」とゲラゲラ笑いながら冷やかす始末。
なんて中学生レベルの男子たちだろう。ムカつく。それもかなりムカつく。
「つかさ、おはよ」
「美羽! おはよー」
「もう、平気?」
すさまじく可愛い上目づかいで見つめてくる美羽に、嘘偽りなくうなずいた。実際、鼻血はとうに止まっているし、倒れたにもかかわらずどこも負傷していないから、まったくの無事といえる。
「心配かけてごめんね?」
「ううん、みうはつかさの精神面が心配だよ……」
小声で言って、長いまつげを伏せる彼女は誰よりもつかさを心配してくれていた。
「……うん、次からちゃんと気をつけるから」
「うん」
誰よりつかさを応援してくれたのに。
そっと重なってきた美羽の手が、つかさの冷たい手をじんわり温めてくれた。
退屈な授業をこなしているうちに、朝に降った雪は、まばゆい太陽があっという間に溶かしてしまっていた。
昼休みに窓から外を覗けば、グラウンドはいつもどおりの土色だ。
ため息をついて、美羽、アイ、マリナ、リカがかたまる後ろ側の席に足を向ける。
つかさの席のまわりでお弁当を食べ終えた友人たちは、雑誌を広げてキャアキャア黄色い声をあげていた。
雑誌の特集は、今一番アツい若手俳優の“佐々部ユウマ”と見出しがあったことを思い出す。
黒髪がやけにセクシーな好青年。
セクシーかどうかは別として、同じ黒髪を思い浮かべて、つかさはふと自分の隣の席を見た。
昼休みになると、稲瀬佐紀はどこかへ姿を消してしまう。
あれから稲瀬佐紀は、一度もつかさと昼食をとらなくなっていた。
――避けてるんだ。
その事実がつかさの心臓を強い力で圧迫する原因だった。
「佐伯」
突然つかさを呼ぶ声は、このクラスの男子のものではない。
「あ、小池……」
そう、学祭前につかさがふった相手、小池裕人である。けれどそれで互いの関係がギクシャクすることもなく、今でもこんなふうにごく普通に会話をする仲だった。
「どうかした?」
「英語の辞書貸してくんない?」
「いいけど……ちょっと待ってて、取ってくるから」
いつもなら小池は仲の良い岡野か狩野に借りているというのに、なぜ今日に限って自分なのだろう、と考えながら、つかさはぶ厚い辞書を手に廊下に出た。その瞬間、手首をつかまれて、はす向かいの音楽室に引っ張られた。
「ちょっと、えっ? 小池?」
昼休みで誰もいない音楽室は、神聖ともいえる静けさで満ち満ちていた。
背後で、ゆっくり、それでいて重々しくドアが閉まる。重厚な響きは、この空間の荘厳さをいささかも壊すことはなかった。
くるりと振り向いた小池の目は、まっすぐつかさを見つめている。
ふだんの斜に構えた態度ではなく、あの日、つかさに想いを伝えた真摯な視線と、まったく同じだった。
「佐伯」
「いきなり、どうしたの……」
「俺はまだ佐伯のこと、あきらめてねーよ」
そのひと言に、つかさの心臓が、小さくふるえた。
「地味男……あいつと何があったのかわかんねーけど、なんとなく、佐伯見てたら分かるっつーか」
ああ。
小池には気づかれてるのか。
同じ立場だからだろうか。
それとも、あたしの周りのみんな、気づいていて知らないふりをしてくれているんだろうか。
「……辞書、使うでしょ?」
「俺じゃ、やっぱダメなの?」
辞書を受け取った小池が、訴えるように一歩、詰めた。
逃げ込める場所を与えてくれる小池の優しさに、ほんの少し、つかさの中の何かが揺らいだ。
体の中にどんどん増えてゆく重石を、ひとつ取り除いてくれたような。
つかさは長い沈黙のあと、
「小池なら、分かると思う」
無理に唇の端を持ち上げて、そう言った。
それが伝わったかどうかは分からなかったけれど、表情を少しも変えずに小池は一歩、足を引いた。
小池の優しさがどんなにうれしくても、つかさはそれに応えることができない。ましてや簡単に切り替えられることができたなら、こんなに苦しい思いはしていないのだから。
小池も分かっているはずだ。
小池なら分かってくれるはずだ。
「ごめんね」
「……まだ、ケリついてねーなら、途中で諦めんなよ。カッコ悪くたって、なんだって打てる手は打てよ」
それだけ言うと、小池は辞書を片手に音楽室からひとりで出て行った。
――ごめんね、小池。
「ありがと……」
ゆっくりと閉まるドアに向かって、ぽつりとつぶやいた。
「佐伯」
その日、狩野に声をかけられたのは、ホームルームが終わってすぐだった。
教壇のそばのドアの前で、狩野は口をパクパク動かして「こっちに来い」と手招きをした。
クラスは帰る準備や部活の移動の準備で騒々しくしている。
その中での呼び出しはさほど目立たないから、つかさはおとなしく手招きされるがまま、席を離れた。
ちらりと隣の席に視線を投げると、稲瀬佐紀は黙々と鞄に教科書をしまっているところだった。
三階建て校舎には、封鎖された屋上に続く階段がある。そこは人目につきにくくて、素行の悪い生徒がよく隠れてタバコを吸ったりしている場所だった。その証拠として、階段には所々、黒い焦げ跡が残っていた。
「こんなところに呼び出して、なに?」
「山田に稲瀬のこと、色々聞いたんだって?」
まるで責めるような言い方に、つかさは思わずむっとして眉根を寄せた。
「色々って、稲瀬が高校入る前の頃のこと、ちょっと聞いただけだし」
どうしても稲瀬佐紀の過去が知りたくて、その稲瀬佐紀と同じ出身校だった山田に、学祭がはじまる前、問い詰めたことをいっているらしい。
そもそもつかさ的には『色々』、というほど情報を得てはいない。
「……あんま、あいつのこと知らないほうがいい」
「またそれ?」
つい、声が荒くなる。けっして狩野に怒っているわけではないのに。
しかし対する狩野はいたって冷静だった。
「けど、佐伯に聞いておきたいことがひとつある」
「……なにを?」
「お前は佐紀のこと、どこまで知ってるんだ?」
それが、山田から聞いた過去についてというよりも、稲瀬佐紀そのものについてだと、つかさは直感した。
赤味がかった目。
狐の尻尾。
袴姿に日本刀。
二度、つかさを助けてくれた。
「……稲瀬が、ひとと少し、違うってことだけ、知ってる」
慎重に言葉を選んで、狩野良太郎の黒い目を見つめ返す。
子どものころからよく知る友人は、唇を少し湿らせて、「そうか」とだけつぶやいた。
「それでも、好きなの」
「……おすすめはしねぇな」
複雑な顔で、狩野にしてはめずらしく、苦い笑みを浮かべた。
きっと狩野は何もかも知っているんだ。
狩野は、稲瀬佐紀を『佐紀』と呼ぶ。けれど教室ではとくだん仲の良い様子なんて、今まで一度も見たことがない。
だからたぶん、ふたりはあえて学校の中では距離を取っているんだろう。
そしてあたしは何ひとつ知らない。
「狩野、お願い助けて……」
くい、と学ランの袖を引っ張った。
驚いて目を見開く狩野の瞳に、自分の切羽詰まった情けない姿が見えるような気がした。
それでも、かまうものか。
おそらく狩野に迷惑を掛けてしまうことも、困らせてしまうことも分かっている。それでも、今頼れるのはこの友人だけだ。
「あたし、どうしたらいいの?」
「どうもこうも、俺に聞かれたって……」
「こんなふうにあきらめなきゃいけないなんて、やだよ……!」
「俺が手を貸せることなんてなにも――」
「あたし、やっぱり好きなの……!」
その言葉を口にしてしまえば、いままで押さえていた感情を抑え続けることは、もはや不可能だった。目頭が熱くなって、ぶわっと視界が水の中に沈む。
とうとう堪えきれなくなった涙がボロボロとこぼれ、すぐ目の前にある狩野良太郎の胸にがばっと抱きついた。
「えぇっ?」
狩野の体はそのまま階段の壁にドンとぶつかる。
「ちょ、ま……佐伯っ、こんなとこ誰かに見られたら誤解されるって……!」
「好きなの!」
叫んで、まっすぐな感情をぶつけて、つかさはわんわんと泣いた。
「佐伯……! あっ、スイマセン、うるさくして……おい、マジで、佐伯っ!」
慌てふためく狩野をがっしり捕まえて、つかさはその場で泣きじゃくった。
上級生がざわめきはじめても、つかさの耳には届かない。
狩野の困り果てた声すらも、届かなかった。
やっと涙がおさまった頃にはすっかり陽が傾き、窓から射し込む光も茜色に染まりかけていた。
ふたりで屋上前の階段に腰を下ろして、狩野はただつかさが泣き止むのを待っていてくれたらしい。
つかさは狩野から渡されたポケットティッシュを二枚引っぱり出し、ブーンと鼻をかむ。ここが、つねに可愛らしさを失わない美羽との決定的な差だ。
「ごべんね……」
「おまえって他のクラスのやつらには、それなりに人気あるんだから、絶対そんなブサイクな顔でうろつくなよ」
「ブサイグじゃないぼん……」
真っ赤になった鼻をすする姿は、どんなにひいき目で見ても、周りが噂するような美人とはほど遠い。
「さてと、行くぞ」
「え、どこに?」
「体育館の裏庭」
「何でそんなとこ……? 寒いじゃん」
いいから、と言って、狩野はつかさの手首をつかんで歩き出した。
廊下は数名の生徒と、文科系の部活に属する生徒の穏やかに笑う声と、吹奏楽部の軽やかな旋律が聞こえる程度だった。
狩野とつかさは一度教室に戻って、上着や鞄をひっかけると、玄関ホールを抜けて校舎の外に出た。
本当に寒い夕暮れ時、校外に出るなんて一体何をするつもりだろうと、つかさは首をひねるだけ。
体育館の裏庭へと続くわき道は、黒々とした影が落ちてるせいもあって、思わず自分を抱きしめてしまうほどの冷気が、ふうっと漂っていた。
「ねえ、狩野、何なの?」
「今、佐紀を学校に呼び戻してっから、佐伯は隠れてろ」
「えっ?」
狩野から手で指示を受けて、つかさはわけもわからず用具倉庫のわきにしゃがみ込んだ。
ひとりだけ取り残されると、やはり心細さが先に立つ。
倉庫からそっと顔を出して様子をうかがえば、狩野は少し離れたところで仁王立ったまま、黙然と一点を注視している。
ややしばらくそうしていると、体育館側の裏門から暮色を背負った人影が現れた。
「いきなり何の用?」
「悪いな、呼び出して」
「むしろ、まだ学校に残ってたのか」
黒いジャケットにジーンズ、ハイカットのスニーカーという私服で現れた稲瀬佐紀が、あきれたように言う。
いつもどおり眼鏡を掛けてはいるけれど、稲瀬佐紀の制服姿しか見たことがないつかさは、あまりの新鮮さに、思わず胸がときめいた。
ああ、もう、いちいちドキドキするなんて……とっくにフラれてるのに。
そんな自分があんまりにも女々しくて、あきれちゃう。
「で?」
稲瀬佐紀はふだんどおりのそっけなさで、先を促した。
「学校に二度も良くねぇのが入ってきた」
「……おれが処理したから問題ない」
「そうだな。ずっと不思議に思ってたんだ、なんで二度もこの学校に入り込んできたのか、って」
少しピリッとした会話が、風に乗ってつかさの神経をなでてゆく。
一体何の話だろう。
あの体育祭のときと同じで、ふたりにしか分からない会話なのだと、つかさは妙な緊張の中で神経を研ぎ澄ませた。
「そういうのが俺に寄ってこないよう、学校に護摩をかけてるのに、あんなヤバイのが出てくるのは変だからな」
稲瀬佐紀からの返答はない。
狩野が続ける。
「きっと、一度目も二度目も、俺の力に寄せられて来たわけじゃない。佐紀、あれはお前に引き寄せられて、学校に入り込んだんだろ?」
「だから言っただろ、おれが処理した。だから問題ない」
それは狩野を突き放すような、あまりにも冷たい口調だった。それでも狩野は淡々と言葉を継ぐ。
「たしかに、たいした事故にならなかったけど、ケガ人も出たんだぞ」
「……わかってる」
「護摩を破って入り込めるほどのものだった」
狩野は一度言葉を切って、ふーっと大きく息をついた。それから唇をキュッと引き結んで、表情を改める。
「なあ、誰ともかかわらないようにしなきゃって気持ちも、考えも、分からなくはねーよ」
「だったらこんなくだらない話はもういいだろ?」
「くだらなくねぇよ。佐紀のぜんぶを受け入れたいって思う人間がいるんだ。俺だって、おまえが自分自身を偽って教室の隅っこにいるを見るのは、なんとなくやだなって思うよ」
その言葉に、稲瀬佐紀は狩野を刺すようにねめつけた。
「狩野には関係ないだろ。もうずっと前に、自分で決めたことだ」
「高校を卒業したら、稲瀬佐紀は『こちら側』を捨てなきゃいけないから?」
「狩野、なんで今さらこんな話……」
「だから親しい友人も作らず、誰ともかかわらないように?」
「おれを怒らせるためにわざわざ呼び出したのか?」
苛立ちと棘を含んだ言葉を浴びて、狩野がちょっと面食らったように目を丸めた。すぐに微苦笑を浮かべて、首をふる。
「いや、少しくらい楽しい高校生活送ればいいのに、って思ってさ」
「おれと狩野とじゃ、生き方が違う」
「そうかもな。でも、佐紀がいま『こちら側』にいる以上、必ず誰かとかかわっている。しかも自分の気持ちを偽っているせいで、相手を傷つけてる」
稲瀬佐紀は誰の話をしているのか、とっさに理解したようだった。
眉間に溝を刻み、奥歯を軽く噛んだその表情こそ、たぶん稲瀬佐紀が本来もちうるものなのだろう。
ビリビリとした静かな怒気が空気を伝わって、つかさの肌をなぞるように這ってゆく。
「狩野には関係ないだろ」
「関係ある。どっちも友達だからな」
対する狩野は、なんの含みもなく笑った。
「ったく、めんどくせーな、ふたりして。何で俺が協力してやってんだか……」
わざとらしく頭をがしがし掻いて、それからふっと目を細める。
「あいつは佐紀のこと、受け入れてくれるよ」
「佐伯さんだけは、これ以上巻き込みたくない」
「俺、佐伯なんてひと言もいってないけどな」
謀られた、とでも言いたげに、稲瀬佐紀は少し頬を赤らめ、ぐっと唇を噛んだ。
「まあ、女の子を泣かすなよ」
そういって狩野はひらひら手を振って、じゃーな、と背を向ける。
「あ。あとさ、ちゃんと自分の口から言えよ!」
「――っ! ちょっと待て、狩野!」
「また明日な」
「おい! ……良太郎!」
稲瀬佐紀をとことん無視して、狩野は一度もふり返ることなく用具倉庫に向かって歩いてきた。
倉庫を通り過ぎるとき、狩野はあえてつかさに視線を合わせずに、そのままの速度で体育館のわき道へ消えていった。
抱え込んだ膝に、つかさは顔をうずめた。
狩野と稲瀬佐紀の会話は半分以上理解できなかったものの、それでもつかさのために動いてくれた友の気持ちがとても、とてもうれしい。
今すぐ泣いてしまいたいくらいに――。
しばらくすると、ぼう然と立ち尽くしていた稲瀬佐紀が、ふらりと踵をまわし――裏門から出てゆく。
あとに残されたのは、つかさただひとりだった。
翌日の授業はほとんど頭に入らなかった。
和泉先生の授業ですら、だ。
ちゃんと伝えよう。
もう、雨が降りっぱなしなんて、いやだ。
放課後のざわめきはふだんとなんら変わりなかったけれど、つかさの決意は昨日までとはまったくちがうものだった。
岡野健がダッフルコートに袖を通す横で、狩野も帰宅の準備をしていた。それを見つけて、教卓近くの狩野の席に駆け寄った。
「りょーちゃん、ありがとね」
出し抜けにそうお礼を述べると、ネックウォーマーからずぼっと頭を出した狩野が目をぱちくりと丸める。
狩野の顔は超常現象を目の当たりにしたように、硬直したまま動かなかった。やや経って、「え?」とまぬけな声が返ってくる。
「あたし、稲瀬にちゃんと言う」
「あ、そお……てか、今、りょーちゃんて……」
「小学生の頃はそう呼んでたし、いいじゃん」
「いやいや、ふつうに恥ずかしいわ」
「もう、行くね」
「おー……、ま、応援してる。がんばれよ……つかさ」
懐かしい呼び方に頬を緩ませて、つかさはとっくに教室を出て行った稲瀬佐紀のあとを追う。
「がんばって、つかさ!」
背中にかかる美羽の声が、つかさの背中を押した。
「稲瀬! 待って!」
学校の急激な坂を下った先にある、ひどく古びた神社の前で、稲瀬佐紀の背中に声を投げた。
呼ばれて、稲瀬佐紀がゆっくりと振り向く。
どこかあきらめたような、困惑した視線がつかさに向いた。
「待って、どうしても、聞いてほしいの……!」
「……おれも、少しだけ佐伯さんに用がある」
そう言って、草がぼうぼうに生えた神社の敷地に稲瀬佐紀は足を踏み入れた。つかさもそれに続く。
ここは青陵高校のすぐ下にある、すいぶん前に朽ちた――と噂の神社。
入り口の石柱は崩れてしまっているし、社も手入れがされていないのか、かなりボロボロに見えた。
「こんなところに何かあるの?」
稲瀬佐紀は微かにうなずいて、「リンカ」と、ひと言。
その時、突如つかさの頬をかすめてなにか熱いものがヒュッと通り過ぎた。
稲瀬佐紀が社の方をちらと見やってから、ふいに踵を返すと、つかさの目の前で眼鏡を外した。
「眼鏡、持っててくれる?」
「え、う、ん」
やはり眼鏡のない稲瀬佐紀は整った顔立ちがはっきりとする。
赤味がかった目は、本当の赤、いや、火の色だ。それを見つめているだけで、頬が熱くなってゆくのがわかった。
「おれの前に絶対に出ないで」
背を向けた稲瀬佐紀の口調はあくまでもいつもどおり淡泊だったけれど、そこに有無を言わせぬ強さがひっそり隠れている。
「わかった……」
刹那、オレンジ色の火の玉らしき光が、ふうっと尾を引いて社の屋根に浮かんだ。
それをきょとんと見つめているうちに、屋根の上が蜃気楼のようにゆらゆらと揺らめきだして、実体のない大蛇のようなものに変わった。
「い、稲瀬……なに、あれ?」
屋根の上でとぐろを巻きはじめたそれは、赤く光る片目をつかさに向けた。
もちろん、大蛇の姿がはっきり見えるわけではない。だがたしかに、それは蜃気楼などという幻想的なものではなく、人知を超えたなにかだと、確信できた。
「だいじょうぶ……佐伯さんは、ここから動かないで」
背を向けたまま、首だけでふり向いた稲瀬佐紀に意識を戻したつかさは、はっと息をのむ。その姿はこれまで二度見たことのある、腰に刀を差した袴姿、そして、目線を少し下げると――ふわふわの、赤い狐の尻尾。
今度こそ見間違いようがない。
だって、こうして目の前に存在しているのだから。
ふいに、ふっと空気の動く気配を感じた。
屋根の上の大蛇がゆらりと鎌首をもたげ、一気に滑り降りるようにしてつかさへ――稲瀬佐紀へ迫った。
正面からのすさまじい熱風がつかさを襲う。息をすれば肺が焼け焦げてしまうのではないかと思うほどに、強烈な熱を全身に感じた。
「んん……っ!」
思わず目ををつむり、預かった眼鏡を守るようにその場にしゃがみ込む。
その時、金属がシャッとこすれる耳慣れない音を、聞いた。
次いで、ガスボンベが破裂するような、爆音が耳を劈く――いや、実際には衝撃だけを体に感じて、炸裂音は恐怖が作り出した幻にすぎなかった。
静寂に、バクバク打ち響く鼓動が、今にも漏れてしまいそうだった。
なにが起こったの……?
「もう目を開けてもだいじょうぶ。怖い思いをさせて、ごめん」
稲瀬佐紀のゆったりとした話し方に、つかさはそっとまぶたを持ち上げた。
つかさの目の前で屈んで手を差しのべる稲瀬佐紀は、やはり着物を着ている。片手には抜き身の日本刀。そして、視線を稲瀬佐紀の腰に……袴に向ける。そのうしろには、彼の目の色と同じ色の、狐の尻尾があった。
つかさは差しのべられた手をにぎらず、稲瀬佐紀の胸に抱きついた。
超常現象は受け入れよう。
稲瀬佐紀のすべてを受け入れよう。
「佐伯さん……あの、一応敷地には結界張ってあるから誰にも見えてないけど……恥ずかしいんだけど」
尻もちをついた稲瀬佐紀の困り切った声に、つかさは密着させた身体をゆっくり離した。それから稲瀬佐紀は気まずそうにもごもごとつけ加える。
「リンカには見られてるから……」
「リンカ?」
稲瀬佐紀がうなずく。それから刀を握っていない左手で、つかさの背後を指さした。
そこにはぼうっと火の玉が浮かんでいた。それも、つかさのすぐうしろで、だ。
「やだ! なにこれ! 本物……?」
慌てて稲瀬佐紀の背後に隠れると、くすっと笑う声が聞こえてきた。
「燐火と言って、つねにおれの側についていてくれる、お目付け役みたいなものなんだ」
「……狐火?」
「そう」
「これ……さっきの蛇みたいなものの目玉になってた、よね……?」
「そう、燐火に協力してもらったから。怖い思いをさせて、ごめん……でも、こうした方が分かりやすいかなって、おれなりに考えたんだけど……」
少し歯切れ悪く説明する稲瀬佐紀は、なんだか子どもの言い訳をしているようで、不覚にもつかさの頬は緩んでしまった。
稲瀬佐紀は立ち上がると、もう一度手を差しのべてきた。その手を、つかさは今度こそ握り返す。
ふいに火の玉――燐火が揺らめいたかと思うと、ろうそくの火が酸素を失ってふうっと消えてゆくように、姿を消してしまった。
つかさが目をしばたいていると、低く、少し緊張した声音が空気を震わせる。
「これでわかったと思う……おれは、ふつうの人間じゃない」
「……知ってるよ」
つかさと向き合った稲瀬佐紀が、表情ひとつ変えずに見下ろしてくる。
また、稲瀬に拒絶されるだろうか。
また、知らないでほしいと拒まれるだろうか。
けれどつかさは、それでも、と思う。
いまにもすくんでしまいそうな自分を叱咤する。
半ば落ちかけていた鉛のように重たいまぶたを、勇気でもって、ぐっと持ち上げた。
「あたしね」
燃える火色の目をまっすぐ見つめて告げる。
「あたしね、稲瀬のことが」
「ごめん、佐伯さん」
間髪入れず、そう謝った稲瀬佐紀の瞳もまた、何かを決意したようにゆるぎなかった。
――ああ。
――そんなにまっすぐな目で、あたしの受け入れたくない現実を突きつけるんだ。
「それは、言わないでほしい」
――そんな目で拒まれたら、もう、二度とあたしは言えなくなってしまう。
――せめて、ひと言だけでいいのに。
――せめて、ひと言だけでも伝えさせてくれたら……。
やはり稲瀬佐紀は孤独を選ぶのだ。
その現実をつかさは思い知る――。
「おれ、佐伯さんのことが好きなんだ」
その言葉が頭の芯まで届いて、染みこむまでに、ずいぶん時間がかかったように思える。
え、と言おうとして開けた口からは、実際なにも言葉が出なくて、そのままゆるゆる閉じてしまった。
「せめて、先に言わないと、と思って……」
かすかに頬を赤らめ、稲瀬佐紀がつかさをまっすぐ見つめる。
「上手く説明できないけど、おれは半分ひととは違う存在で、高校を卒業したら、もう『こちら側』――つまり、人の世界には住めない。こちら側とは別のところに行くんだ。小学生の頃はひとと違うことなんて、何とも思わなかった……けど、自分の正体を理解したとき、おれは独りを選ぶべきだと気づいた。いつかこの世界を捨てる時に、誰にも迷惑がかからないよう、誰ともかかわらないほうがいいって……」
稲瀬佐紀の独白は深くを伝えず、それでいてつかさが理解できるようにひどくかみ砕いたものに違いない。けれど、それらがすべて真摯な姿勢からくるものだと、つかさにはわかっていた。
――あたしをまっすぐ見てくれようとしてるんだ。
目を、伏せずに。
「だから佐伯さんの気持ちに気づいていても、知らないふりをしてようと思った」
だから、彼はずっと外さないようにしていたのだ。
無表情という名の、仮面を。
「でも、やっぱりダメだな……自分のことばっかり考えていた……しかも、良太郎に言われて気づくなんて」
ふっと自虐的に笑った顔が、ふだんの稲瀬佐紀にはないもので、つかさの心を遠慮なくくすぐっていった。
「結局のところ、自分がつらくならないように――傷つかないようにするための、ただの保身だったんだ」
そんなふうに言って苦笑する稲瀬佐紀は、どこにでもいる普通の男子高校生のように思える。
たとえ狐の尻尾が生えていても、つかさと同じ高校一年生なんだと気づかせてくれる笑い方だった。
緊張でカチカチになった感情が、ほぐれてゆく。
そうしてつかさはやっと口を開いた。
「この先……稲瀬がどこに行ったとしても、稲瀬があたしと同じ気持ちでいてくれるなら、なにも辛くないよ」
「……佐伯さんは強いね」
「……あたし、稲瀬のそばにいていい?」
その答えは、稲瀬佐紀のやわらかな笑顔だった。
すべての憂いを忘れさせてくれるような、あたたかな火色の目が、ふわりと細まる。
それを見つめるだけで、胸の奥からいままでに聴いたことのない、トクトクやさしい旋律が流れだした。
頬が火照って、熱したチョコレートみたいに、甘くトロリと溶け落ちてしまいそう。
頬だけじゃない。
目も、唇も、心臓も、ぜんぶ、ぜんぶ――。
そうなる前に。
「あたしね」
さっと吹きつけた夕暮れの風が、ふたりの頬をかすめていった。
身を切るような冬の冷たい風も、熱を帯びる肌には心地よい。
火色の尻尾がさわさわと揺れた。
そして佐伯つかさは、ずっとずっと伝えたかった言葉を――。
「稲瀬のことが、好き。
大好き」
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。
最後は王道ハッピーエンド。
狐火、驟雨につづき、火色で三部作完結です。
目を通して下さった皆々様へ、御礼申し上げます。