子供じゃ無い。
呼び出されたのは、エフレムと初めて会った二階建ての酒場だった。
年季だけは立派な店の屋号は、わからない。
看板らしき板は入り口近くにぶら下がっているものの、風雨にさらされすぎて何一つ読み取れる情報がないからだ。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
ドアベルが頭の上で揺れる。
人混みの中から出てきた黒服の店員に、ニールは軽く手を振って案内を断ると、立ち飲み形式のフロアをぐるりと見回した。
「こっちだ、ニール」
少し擦れた声に呼ばれ、ニールは酒気に重く濁った空気を吐き出した。
「てめぇ、何時から飲んだくれているんだよ。約束よりも、だいぶ早い時間だ」
片手を軽く振って来るようにと促すエフレムの手元には、様々な形をしたグラスが転がっている。
「休暇を謳歌している誰かさんと違って、毎日仕事に明け暮れているからな。酒でも飲まないと、疲れが抜けないんだよ」
「はっ、飲んだくれがどれほどの仕事をしてくれるんだかなぁ」
エフレムと向かい合うようにして立つと、ニールを出迎えた店員が注文を取りにやってきた。
つまみの類いは、頼む必要はなさそうだ。
それに、取引のために出向いているだけであって、にやにやと意地の悪い笑みを絶やさない男と談笑するつもりなどさらさらない。
渡されたメニュー表を見て、ニールは眉間に皺を寄せた。
古ぼけた店だが、意外にも様々な銘柄の酒を取り扱っているようだ。
「……麦酒で。あとは、いらねぇ」
ちら、とエフレムをみやる。
掌に納まるような、小さなグラス。
中に満たされているものは、無色透明。まるで水のような――酒を飲んでいる。アルコールの類いはあまり強くないニールでは、エフレムが飲んでいる酒の銘柄はおろか、種類すらも見当つかなかった。
「ここに来て、わざわざ麦酒を注文するとはなぁ」
店員が人混みの中に消えてから、エフレムが言葉尻に嘲笑を混ぜてニールをからかってきた。
「……あ? 別に、酒は酒だろうが」
「まあ、たしかにそうだろうが。俺たち軍人にとっちゃ、麦酒なんて水の代わりだろう? 戦地に行けば、飽きるほど飲まされる。内地でわざわざ飲みたがるような代物じゃあないね」
唇を湿らすようグラスを傾けるエフレムに、ニールはイライラと肘をテーブルに載せた。
「そっちこそ、苦手なら無理して飲まなくたっていいんじゃねぇか? さっきから、全然減ってないようにみえるけどなぁ」
中身が減らないグラスを視線で指すと、エフレムは厚い唇をにやりとつり上げる。
「その酒、その酒に合う飲みかたってのが有るんだよ……坊や」
ごまかし笑いではない、あきらかにニールを嘲笑している。
馬鹿にされる理由に見当が、まるでつかない。粗相をする子供を苦笑いで眺めるような、憐れみすら感じ取れる視線に、食いつこうとしたところで注文した麦酒が運ばれてきた。
浮かしたこぶしを僅かにさまよせながら、ニールは店員から麦酒を受け取った。
「大人しくしていないと、追い出されるぞ。……交渉が決裂して困るのは、俺じゃなくテメェだろ? ほら、乾杯」
ちん。と、薄いグラスと分厚いジョッキが触れあう。
「……なんだ、飲まないのか?」
「うるせえ、いちいち指図するんじゃねぇよ」
ジョッキの表面に水滴を滲ませる、冷えた麦酒。
視線を向けてくるエフレムに中指を立て、ニールはジョッキをテーブルに置いたまま、顔を近づけてずるずると泡を啜った。
(……苦い)
飲んだ感想としては、苦いの一言しか浮かばなかった。元来、アルコールの類いは苦手だった。
ジョッキから唇を離し、ニールは唇に移った泡を舌で舐め取る。ぴりぴりとした炭酸の感触とひたすら喉を刺激する苦みに、眉間の緊張は緩まない。
「なるほど、ガキってわけだ。無理して見栄をはらないで、ミルクでも注文しておけばよかったんじゃないのか?」
「はぁ? うっせぇんだよ、オレはガキじゃねぇ。前線で大勢の敵を凪いできた。階級こそテメェより下だが、貰った勲章の数は上だ」
「自慢するなら、もっと嬉しそうにいってみせろ」
エフレムはわざとらしく肩をすくめ、白い皿に盛られたナッツを手に取り、口に放り込んだ。
「なるほど、味覚がガキのままなら、キスの技量もガキのままってわけだ」
がりがりとナッツをかみ砕くエフレムの視線が、アルコールに濡れるニールの唇を撫でるように動く。
「この……エロ親父が……っ」
唇に残る苦みを手の甲で拭う振りをして、ニールはエフレムの視線から逃げる。消極的な抵抗は不本意だが、あまり声を荒げて注目を集めたくはなかった。
「悔しいなら、キス一つで俺をその気にさせてみせろ」
「なんで、テメェを喜ばせなけりゃなんねぇんだよ。だいたい、その気になれねぇのは、テメェが枯れてるってだけなんじゃないか?」
ぱちぱちと爆ぜるように、炭酸の泡が揺らぐ黄金色の液体。ニールはジョッキを両手で持ち上げた。
「女の股をひらかせるぐらいのキスは、俺にだってできんだよ」
「女は、演技がうまいからな。とくに美女は男をその気にさせる術にたけている。騙されて喜んでいるうちは、まだまだ子供だ」
言葉をたたみかけてくるエフレムを睨み、ニールはジョッキに唇を押しつける。そのまま、見せつけるように勢いよく黄金色の液体を胃へと流し込んだ。
「うるせぇ、ガキじゃねぇ」
空きっ腹を一気に満たしたアルコールに若干ふらつきながら、ニールは空にしたジョッキをエフレムに突き出す。
「……おい、注文だ! もう一杯」
「麦酒じゃなく、俺と同じものを」
ニールの手からジョッキを取り上げ、店員へ渡したエフレムが勝手に注文をすげ替える。
「これが飲めたら、タダで情報をくれてやる。いい年齢の大人、なんだろう?」
笑うエフレムの手には、小さなグラス。向こう側が見えるほど透明で、飲んでいるエフレムも表情や肌の色はいつもと同じだ。
「……馬鹿にすんな。飲めるにきまってんだろ、そんな水みてぇな酒」
挑戦的なエフレムの視線に、ニールもまた眼光を強める。
「へぇ、どんな飲みっぷりを見せてくれるんだかな」
すぐに運ばれてきた小さなグラスを取り上げたニールは、にやにやと様子を窺うエフレムを睨んでやってから、一気に中身を仰いだ。
「――ぶっ!」
ぐっと押し寄せてくる、濃厚なアルコールの香り。
焼けるような熱に耐えきれず、ニールは飲み込んだ時の勢い全てを押し返すようにして吐き出していた。
「なるほどなぁ。実に派手な飲みっぷりだなぁ、ニール」
腹が立つほどのいつもの余裕が霧散した、エフレムの声。
灼かれた喉に咳き込みながら見てみれば、グラスを片手に持ったまま、ずぶ濡れで笑うエフレムがいた。