プロローグ
大した期待をして生きてるわけじゃねえ。
でも、せめて不幸ではいたくないなんて、誰でもそうだろ。
「お前みたいな娘がいるから」
貧しい生活の中でオレに吐かれたのは、不条理を煮詰めたみたいな最悪な言葉だった。気持ちは分かる。誰だって追い詰められたら八つ当たりをしたくなるさ。厳しい状況の中で、手を差し伸べるふりをする人間は大勢いるのに、本当に助けてくれる人間なんてのは、ひと握りだ。
そんな幸運に与れる人間は、まあいない。オレだってそう思うよ。
「出ていきなさい。あんたの顔なんか見たくもない」
最後に聞いた母親と交わした言葉は、それだった。別に何も感じなかった。ああそう、って。親父の面影がオレに残ってたからってのは分かってる。クソ親父は酒を片手にふらふらと消えちまった。憎しみを抱かないわけがない。
きっとオレの顔を見るたびにチラついて、どうしようもなく腹が立ったんだ。だから許してやった。もう会うこともないと思ってたし。
でも、ほら。人間ってどうにかして生きていかなくちゃいけないだろ。でもオレはまだ十歳の子供だったから、何をどうしていいか分からなくて、泥水を飲んで、カビたパンだの、誰かが残した芋の食べくずだの、そんなもので命を繋いできた。幸せとは程遠い、生き地獄を味わった。
だけど、それがいつでも続いたわけじゃない。ひょろひょろで頼りない体でもやれることを探したとき、オレにはひとつだけ希望があった。
『有事につき傭兵求む』
たまさか風で飛んできた紙切れは、北西部に位置する大きな森に出現したちょっと強い魔物を狩るって話だった。そのために兵隊が必要だと。
どうせ断られるかもしれないとは覚悟してた。細っちょろい体に、ましてや戦場は女が出向くところじゃないって、社会全体がそういう認識だったから。
でも実際は、驚くほどあっさり認められた。騎士団の屯所で張り紙を見たと言ってぐしゃぐしゃに握りしめたせいで破れた紙を渡すと、あいつらはさも善人のようなツラをして「それはよかった、ひとりでも多く仲間が欲しかったんだ」と言った。仲間なんて言葉、今なら反吐がでると唾を吐いてるかもしれねえ。
おかげでオレは、死にかけてる。そう、独りぼっちで。騎士団の連中は傭兵を全員、見捨てやがった。いざというときの保険に使ったんだ。国の命令で出征したものの、人数に不足を感じた奴らが、オレたちを肉の盾に使いやがった。
広い森の中を、巨体が木々の隙間を滑らかな動きで抜けて動く様は不気味で、自分が現実に生きてるのかを惑わせた。仲間の死体が積み上がり、土が濡れているのが昨日の雨のせいなのか、それとも大量の血に濡れたせいなのかも分からない。まったくもって話と違う。
倒せるならそれが一番だったんだと思う。騎士の連中も。だけど、魔物が強すぎた。事前の情報では蛇のような魔物と聞いてたが、誰もがその姿に圧倒された。なにしろデカいんだ。人間なんざ、何人でも丸のみにしてやるって感じで。
オレたちは時間を稼いだが、時間が経つにつれてどんどん数を減らした。叩きつけられて死んだ奴もいる。本当に丸のみにされた奴もいれば、大木の枝みたいに太くて鋭い牙で貫かれた奴もいる。惨劇と呼ぶに十分すぎる光景だった。
吐きそう。正直に言う、逃げたい。でも逃げられないのが分かってたから、皆で必死に戦ったんだ。そりゃ結局、叶うわけがない。でかい尻尾で叩かれて、オレの身体は木の間を抜けて転がった。傍には死んだ連中の身体が転がってる。ああ、死ぬんだなって感覚が、猛烈な痛みと消えていく意識に溺れていく。
たかが十六年の人生。やっと風向きが変わったなんて信じたオレが馬鹿だった。騎士の連中は助けを呼ぶなんていって、とっくの昔に撤退してんだ。オレたちだって、必死になって逃げてりゃ何人かは生き残れたかもしれないのに、馬鹿正直に命懸けで何やってんだか。
「団長ォ、仕事が早いっすよ」
声が聞こえる。視界はまっくらで、身体はぴくりとも動かない。
「魔物の後始末は後で撤退した連中にでもさせろ。先に負傷者の救護だ。生き残りがいないか探せ。いなければ、そのまま帰還する」
誰か来たのかな。救助かな。誰か助かるといいな。オレはもう、起き上がる気力もないから。誰かが俺の代わりに助かってくれたら、せめて不幸でなかったらいいな。どうせ死ぬなら、それくらい優しい気持ちで死のう。
「おい、君。大丈夫か?」
頬を叩かれる感覚が鈍い。オレはどうなるんだろうか。
別に、どうだっていい。走馬灯を見るほど良い人生じゃなかった。
「アウディオ、こっちへ来てくれ。まだ息がある」
「本当っすか? うわ、マジだ。息があるぞ。怪我は……してるっすね」
「運が良い。軽く叩かれた程度で済んだようだ」
何を話しているのかがよく聞こえない。返事をしたいが、それどころじゃない。肋骨がやられたんじゃないかってくらい痛い。手足も感覚がない。
「にしても吹っ飛んで、この怪我ってのは状況が整ってても……」
「ひとまず連れて帰ろう。生存者は彼女だけか?」
「おそらくはそうっすね。傭兵っつっても、寄せ集めみたいですから」
何を喋ってるんだ。気になるけど、耳もよく聞こえない。
意識が、ほんの少しずつ遠のいていく。
「君は助かる、心配しなくていい」
優しい誰かの声が、低く響く。ズキズキする頭の中に透き通って入ってくる。オレは助かるのか。ただの気休めか。どっちでもいい。優しくされたのなんて、久しぶりだ。これならもう死んだって、悔いも残らなさそうだった。
元々、期待してたわけじゃねえんだ。
ただあの地獄にはいたくなかった。それだけだ。
きっと誰にも、あの惨めな気持ちは分からない。
ただでさえ賑やかな帝都の大通りが、皇太子の生誕祭で美味そうな匂いをさせる屋台がいくつも賑わってるのを指を咥えて眺めてたとき、自分とそう変わらない歳の子供が両親と手を繋いで歩いてるのを見て、どれだけ羨ましかったか。
オレだって輝いた人生を歩みたかった。朝起きたら、トーストに目玉焼きがついてて、牛乳をコップに注いでゆったりした時間を過ごす。それって、そんなに贅沢なことか? 些細な幸せを願ったら駄目なのか?
その結末がコレだってのか。本当に、最悪。
「団長、俺が背負いましょうか?」
「必要ない。私が連れていこう」
優しい誰か。声が低くて力強い誰か。
オレは決して良い人間じゃない。
生きるために盗みを働いた。汚い言葉で罵った。
でも、今くらいは贅沢を言ってもいいよな。助けてくれって。
「……助、けて」
必死になって出した掠れた声。見たこともない誰かに背負われて、やっとの思いで掛けられた言葉は感謝じゃなかった。ただ救ってほしかった。
さんざん悪いことしてきて、親なんか馬鹿にできないくらい身勝手だ。なのにあんたは、なんでそんなにも大事そうにオレを背負うんだろう。
「その細い体でよく生きてきたな。怖がらなくていい、助けてやるさ」
疲れたな。あぁ、すごく疲れた。たくさん歩いたからかな。たくさん戦ったからかな。痛めつけられたからかな。たくさん生きてきたからかな。
なんでもいいや。慰めでもなんでもいい。助けてくれるって言った誰かの声が、オレには心地良い。ありがとう。こんな人生でも、誰かが褒めてくれたなら悪い気はしない。ああ、でもやっぱ死にたくねえなぁ。
「あり、がとう……オレを……」
「どういたしまして。さあ、もう眠るといい。起きた頃には元気だろう」
ありがとうって言いたい。助けてくれて。オレが生きてる意味はあるんだって思わせてくれる、それだけで良かった。




