第一話 湯気の向こう側
まだ空は群青色のまま、朝と夜のあいだをゆらゆらと揺れている。
商店街のアーケードは静まり返り、シャッターの隙間から入り込む風が、かすかに金属を鳴らしている。春先特有の、冷たいけれどどこか柔らかい空気。遠くで新聞配達のバイクが一台、低く唸った。
その一角にある、小さな食堂――
「まゆ食堂」の灯りだけが、ぽつりと点いている。
高梨真由は、まだ誰もいない厨房で、両手を水に浸していた。
冷たい。
指先がじんとする。
透明な水の中で、白い米粒が静かに踊っている。
しゃり、しゃり、と控えめな音。
真由は三度目の水を替えながら、小さく息を吐いた。
「……今日も、やりますか」
独り言は、換気扇の低い音に吸い込まれる。
炊飯釜の蓋を開けると、ふわり、と湯気が立ちのぼる。
米の甘い香り。
湯気の向こうで、世界が少しだけ白くぼやける。
その瞬間、いつも思い出す。
――あの、しょっぱいおにぎり。
幼い頃の記憶は、いつも匂いから蘇る。
団地の狭い台所。
母は夜遅くまで働き、疲れ切った背中でコンロの前に立っていた。
小さなおにぎり。
具はない。
塩だけ。
それでも、母は言った。
「たくさん食べなさい。体が資本だから」
けれど、本当に「たくさん」ではなかった。
子ども心に、それは分かっていた。
ある日、隣の部屋に住んでいたおばあさんが、真由の頭をくしゃりと撫でて言った。
「痩せてるねぇ。ほら、これ」
渡されたのは、両手で包まないと持てないくらい大きなおにぎりだった。
不格好で、ところどころ塩が固まっていた。
ひと口かじると、右側だけやけにしょっぱい。
「うわ、しょっぱい!」
思わず顔をしかめたら、おばあさんが笑った。
「生きるってのはね、ちょっとしょっぱいもんさ」
その言葉の意味は、当時は分からなかった。
でも、あのときの満腹感。
胃がぽかぽかして、胸まで温かくなった感覚。
あれが、真由の中に残った。
湯気が消える。
現実に戻る。
真由はしゃもじで米をほぐす。
粒が立っている。
今日はうまく炊けた。
ラップを広げる。
ご飯を盛る。
どん、と。
ためらいなく盛る。
茶碗二杯分。いや、それ以上。
「うちのおにぎりは、大盛りが基本」
常連は笑う。
観光客は驚く。
でも、真由は減らさない。
両手で包む。
手のひらの温度が、米に移る。
ふわり、と形を整え、
真ん中に鮭をたっぷり入れる。
隠さない。
けちけちしない。
「足りない思いは、させない」
それは誰に向けた言葉か。
客か。
それとも、過去の自分か。
握り終えたおにぎりは、まるで小さな山のようだった。
真由は、それを一つ、自分のために皿にのせる。
店を開ける前の、五分間。
誰にも見せない時間。
かじる。
湯気が、唇をくすぐる。
塩気が、舌に広がる。
あの、子どものおにぎりも思い出す。
離婚した直後の、あの夜。
財布の中身は軽く、心はもっと軽かった。
いや、空っぽだった。
布団の上で動けずにいると、小さな足音が近づいてきた。
「お母さん、疲れてるでしょ」
まだ小さな息子が、台所でごそごそしていた。
ぎこちない音。
ラップの音。
米が床に落ちる音。
「できた!」
差し出されたのは、子どもの手には明らかに不釣り合いな巨大なおにぎりだった。
形はいびつ。
片側だけ、やたらと塩が固まっていた。
かじった瞬間――
「……しょっぱ」
涙が出た。
塩のせいか。
それとも、別の理由か。
息子は心配そうに覗き込んだ。
「まずい?」
「ううん」
真由は首を振った。
「世界一、おいしい」
そのとき初めて思った。
ああ、私はまだ終わっていない。
この子がいる限り、倒れていられない。
今、真由が握る大盛りのおにぎりは、
あの夜の続きだ。
店の戸を開ける。
春の空気が流れ込む。
商店街に朝日が差し始める。
ガラガラとシャッターが上がる音。
遠くで学生の笑い声。
一日の始まり。
真由はカウンター越しに、並べたおにぎりを見る。
どれも、堂々としている。
「よし」
小さく頷く。
今日もきっと、
疲れた誰かが来る。
上司に怒られたサラリーマンかもしれない。
眠れなかった母親かもしれない。
進路に悩む学生かもしれない。
でも、その人がもし、
「足りない」と感じているなら。
ここに来ればいい。
大盛りで、迎えるから。
真由はエプロンの紐を結び直した。
湯気の向こうで、
一日が始まった。




