第一話
書庫から出た俺は、屋敷の奥にある作業室へと向かった。
分厚い扉を開けると、金属の匂いと油の匂いが鼻を突く。机の上には、自作の石炭エンジンの試作機――石炭を燃やした熱で羽根車を回す装置――が置かれていた。
かつて俺は魔力を熱源とする実験機を作り上げていた。確かに動いたが、あれはあくまで「個人の魔力」に依存する装置であり、大規模な産業を動かす力にはならなかった。
――俺一人が疲弊すれば止まってしまう機械など、世界を変えることはできない。
だが、石炭なら違う。山からいくらでも掘り出せる黒い塊。誰の魔力にも頼らず、燃やせば燃やすほど熱を生み出す。これこそ帝国の未来を押し開く鍵だ。
ギィ……ゴウン……。
俺が石炭に火をつけると、羽根がゆっくりと、そして次第に滑らかに回転し始める。
「ふふ……やっと形になったな」
胸の奥から湧き上がるのは、長い試行錯誤がようやく報われたという手応えだった。
だが、これだけでは何も始まらない。
必要なのは、資金。会社を設立し、このエンジンを基盤とした産業を立ち上げる金だ。
「さて……まずは会社の設立資金だな」
俺は部屋を見渡し、苦笑する。屋敷の財産――つまり、先代が死守してきた美術品の数々。それを売り払うしかない。
廊下に出て、近くにいた使用人を呼び止めた。
「おい、そこの使用人!」
「はい、なんでしょうか? お坊ちゃま」
「今から屋敷にある値打ち物をすべて、貴族のオークションに出す。すぐに用意しろ」
使用人の顔がみるみる蒼白になった。
「な、なにをおっしゃるのです!? これらは先代が長年かけて収集した由緒ある品々……!」
「俺は美術品なんて興味ない。売って会社を作る。それが帝国の未来につながるんだ」
「しかし……!」
「しかしも何もない。命令だ。やれ」
「……承知しました」
やがて、馬車には絵画、陶器、彫像、宝飾品といった品々が積み込まれていく。廊下に残る空の額縁や埃の積もった台座は、屋敷の栄華が去る瞬間を象徴しているようだった。
「よし、積み込みは終わったな」
俺は地図を広げ、目的地を指差す。
「では出発だ。帝都ウィーンへ!」
――石畳を揺らしながら、馬車は屋敷を後にした。
馬車の中、俺は荷台に積まれた先代の遺産を眺める。どれも職人の手による逸品ばかりだ。だが、俺にとっては埃をかぶった宝物よりも、一つの歯車の方が未来を示していた。
「ふふ、これで会社の設立資金は十分だな」
◆
オークション会場に着くと、すでに多くの貴族が集まっていた。豪奢なドレスや燕尾服に身を包み、誰もが鼻を高くして品物を値踏みしている。
俺は胸を張り、堂々と並べた。
「おお……これは!」
「どれも一級品だ……」
ざわめきが広がる中、ひときわ視線を集める人物がいた。
――低い体躯、だが隙のない衣装と、ぎらりと光る眼差し。
ドワーフの血を引くと噂される帝国宰相、メッテルニヒ本人だった。
「なっ……まさか、あの宰相閣下が!?」
周囲のざわめきは一層高まる。
その時、彼の手がすっと上がった。
競り人が声を張り上げる。
「――閣下、落札!」
俺は思わず息をのむ。狙っていたわけではない。だが、この場で宰相に買われたとなれば、すでに賭けは半ば成功したようなものだ。
◆
後日。落札品の引き渡しのため、俺は宰相の屋敷を訪れた。
重厚な扉が開き、威厳に満ちた男が姿を現す。
「君か。若いな」
「メッテルニヒ宰相閣下」
応接室に通されると、彼は落札した絵画を眺めながら口を開いた。
「君はなぜ、これほどの逸品を売り払ったのかね?」
俺は姿勢を正し、はっきりと答えた。
「帝国のためです」
「ほう……美術品を失うことが、どう帝国のためになるのか?」
「売って得た資金で会社を設立します。そして――産業革命を起こすのです」
「産業革命?」
「歴史の転換点です。資源も商品も爆発的に動き出し、人々の暮らしが変わる。帝国が世界に先駆けてその波に乗れば、百年の繁栄を得られるでしょう」
メッテルニヒの目が細められる。
「で? 君の会社が、その扉を開くと?」
「はい。輸送を変革します――鉄道です」
「鉄道……」
俺は熱を込めて語る。
「都市や港、鉱山を結ぶ線路を敷き、高速で大量の輸送を可能にします。資源は一気に工場へ、商品は都市や港へ流れ込む。それが帝国を変えるんです!」
「ふむ……」
宰相はしばし黙し、やがて低く笑った。
「面白い。では、その輸送手段とやらを見せてもらおうか」
「資金さえあればすぐにでも。動力源――エンジンは完成しています」
「なるほど。できたら私に知らせなさい。本当に帝国の役に立つのなら……金を貸してやろう」
「はっ、ありがとうございます!」
胸が高鳴る。ついに、俺の夢が動き出す。
「ただ……まずは試作工場と住まいが必要でして」
「何を望む?」
「帝都に家を一つ。汚しても構わない場所を。実家はトランシルヴァニアにあって、遠すぎますので」
「ふむ……それくらいならよかろう」
「助かります」
俺は深く頭を下げた。
――こうして、帝都での挑戦が始まる。