第九話 ケアンズ
「ゴールドリーフワイン、いかがですか」
「シドニー・ハンターバレーの老舗ワイナリー、Tyrrell’s社製。金箔入りのワインです」
「お土産にどうぞ」
「白とロゼ、2種類ありますよ」
ひとりひとりの客に合わせて、挨拶の言葉を変えてみたり、声のトーンを意識してみたり――
工夫はした。努力もした。
でも、売上はなかなか伸びず、
そのたびに、熱帯の陽射しとは裏腹に、心はひどく冷えていった。
そんなケアンズでの数少ない“楽しみ”は、
仕事終わりに通うようになった、ある一軒の食堂だった。
きっかけは、免税店で出会った日本人ガイドの紹介だった。
彼は自らを「ボウズ」と名乗った。
実際、坊主頭で、見た目そのまんまだった。
その“ボウズ”に連れて行ってもらった店が、
**CHA-CHA**という、どこか陽気な名前の店だった。
免税店と同じビルにあるはずなのに、入口がまったく逆にある。
初めての時は、ほんの数メートル違うだけで、気づかずに通り過ぎた。
けれど、その隠れ家のような店に、一歩足を踏み入れた時、
私はやっとこの街で、自分の居場所を一つ、見つけた気がした。
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この「CHA-CHA」という店は、
ケアンズ在住の日本人たちにとって、いわば溜まり場のような場所だった。
訪れるたびに、数人の日本人客が、
どこか所在なげに、無言で箸を進めている姿を見かけた。
決して高級なレストランでも、
外国人向けに気取った装飾のある洒落た店でもない。
ただ、南の果てのこの街で、日本の味に飢えた在留邦人たちが、
ほっと一息つける、手頃な和食を求めて集まってくる――
そんな店だった。
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私がよく選んだのは、
生姜焼き定食や焼き魚定食といった、
日本でも定食屋に入れば、つい注文してしまうような“定番”のメニューだった。
CHA-CHAでは、そんな家庭の味を、庶民的な価格で提供してくれていた。
湯気の立つ温かな味噌汁に、
ふっくらと炊き立ての白いご飯。
それをひと口、口に運ぶたび、
身体の芯まで、じんわりと何かが沁みていくのを感じた。
ああ、味噌汁って、こんなにも人の心を癒してくれるものだったのか――
異国の地にいるからこそ気づいた、その“当たり前の味”に、
私は、少しだけ感動していた。