第三話 別れは唐突だった
しばらくすると、仲のいいメンバーというのが固定化されてくる。
私もその中の一つのグループと仲良くしていたのだけど、そのメンバーで、ブルーマウンテンまでの小旅行に行ったりもした。
その当時の写真には、日本人、台湾人、韓国人、タイ人などの多国籍チームが笑顔で収まっている。
そういえば、インサーチで一番最初に話しかけてくれた方は20代前半の日本人女性で、2週間ここで英語のトレーニングをした後に、カナダの日本人学校に赴任する予定ですと言っていた。
その方とは、初日のクラス分けとオリエンテーション後に学校で連れていってくれた半日の市内バス観光でずっと一緒にいてもらった。
お昼ごはんも何度かご一緒した記憶がある。
朝起きて、学校までの時間、朝ごはんの世話を焼いてくれたのは、中学2年のヒトミだった。
休みの日には、日本人3人で、一緒に日本食を作って食べたりと楽しい時間を共有したりもした。
関西人がカレーライスに生卵を混ぜて食べることも初めて知った。
「え、それってアリなの?」
「え? 関西ではフツーですよ?」
生まれてこの方見たことのなかった食べ方に、私は目を見張った。
――なるほど、日本の中にもまだまだ“異文化ショック”ってあるんだな。
異国に来て初めて、
日本という国の“広さ”を感じた瞬間だった。
しばらくして、私たちの“家”に新しい同居人が加わった。
インドネシア国籍の華僑の女の子で、クリスチャンだと自己紹介してくれた。
残念ながら、名前まではもう思い出せない。
けれど、夜遅くなると、最寄り駅まで何度となく迎えに行ったことは、今でも記憶に残っている。
ホームステイ先には、結局3か月ほど滞在した。
その後、私はシェアハウス(Share Accommodation)へと転居した。
ヒトミとは、引っ越し後も2度ほど泊まりに来てくれたりして、しばらく交流が続いていた。
けれど、時間が経つにつれて、自然と疎遠になっていった。
あの家で一緒に過ごした日々は、すっかり過去になりつつあった。
その頃には、英語学校も修了し、私はアルバイトを探し始めていた。
仕事探しの最初の拠点は、シドニー郊外のボンダイ駅近くにあった、
日本人向けの“ベイシック”という名前の情報提供施設だった。
求人情報を探す人、掲示板を見つめる人、待ち合わせをする人たちの姿。
日本で発行された雑誌や新聞を見ることもでき、不慣れな土地でも、こうした“日本語が飛び交う空間”があることで、心が少しだけほぐれた。
ちなみに、そのシェアハウスも、同じ施設の掲示板で見つけたものだった。
人生の中で「地元でもなく、外国でもない、不思議な“生活の地図”」が広がっていくのを、私は少しずつ実感していた。
英語学校が終わる数日前のことだった。
同じクラスのメンバーが、他のクラスの友人たちも誘って、バーでの飲み会を企画してくれた。
あの頃の私にとって、それはちょっとした“卒業式”のような時間だった。
その後、そこで知り合った日本人のひとり――テツと名乗った男性と、
以後、市立図書館で英語の勉強を一緒に続けるようになった。
アルバイトが見つかるまでの、ひと月近く。
ほぼ毎日、図書館に通った。
午後には、「身体も鍛えなきゃな」とジム通いも始めた。
もともとはNSW州警察の施設だったというジムは、一般開放されていて、驚くほど安く利用できた。
サンドバッグにパンチを繰り出し、ラケットボールで汗をかいた。
体を動かすことが、勉強でこわばった頭をやわらげてくれた。
テツは、口数の少ない、でも妙に落ち着いた男だった。
お互い多くを語るわけじゃないけれど、居心地は悪くなかった。
ある日、いつものように待ち合わせをしていたが、彼がなかなか来なかった。
15分、20分と時間が過ぎ、そろそろ帰ろうかと思った頃、
息を切らせながらテツが駆け込んできた。
「……これから、大阪帰らなあかんねん。
お母さん……死んでしもうた」
そう言ったきり、彼は足早に去っていった。
あまりにも突然のことで、私は何も言葉が出なかった。
慌てていた彼のこと。
そして、気づけば、連絡先すら交換していなかったこと。
あのときが、テツとの最後になった。
ほんの短い時間だったけれど、
確かに存在した“友情の断片”が、今も静かに心の奥に残っている。
その後にというわけでもないが、
図書館での勉強仲間・テツと別れてから、自然と一緒につるむようになったのが、**“タク”**という日本人の男だった。
年も近く、気取らない性格で、
なんとなく気が合って、気づけば一緒に飯を食い、出かけ、飲むようになっていた。
不思議なもので、彼とは今でも付き合いが続いている。
特に5年前のコロナ禍以降は、キャンプ仲間として週末を過ごすことも多くなった。
焚き火を囲んで、あの頃のシドニーの話をすることもある。
そう、ちょうどその頃には、アルバイト先も決まっていた。
シドニー中心部、ダーリングハーバー地区の入り口近くのオフィスビル――
その1階に入っていた日本食レストラン「明日香(ASKA)」で、私は数時間のシフトに入るようになっていた。
シドニーで過ごす時間に、
生活の“現実”としての労働が、確かに加わっていった。
旅は、いつか“暮らし”になる。
そして、そこにいた誰かは、
“記憶”にも、“今”にもなり得るんだ――そんなことを、タクといると、時々思い出す。
ワーキングホリデーVISAには、ひとつだけ大きな制限があった。
同一の雇用先では、2ヶ月以上連続して働くことができない――というルールだ。
つまり、どれだけ居心地がよくても、どれだけ仲間に恵まれていても、“卒業”の時は必ず来るということ。
「明日香(ASKA)」でのアルバイトも、例外ではなかった。
とはいえ、たった2ヶ月とは思えないほど、濃密な時間だった。
仕事帰りに誘われた何度かの飲み会。
誰かの提案で、レンタカーを借りての1泊旅行にも出かけた。
静岡を発つ前に、中部運転免許センターで取得していた国際免許証が、ここで役に立った。
もっとも、慣れない交通ルール、
しかも英語の道路標識に神経を尖らせっぱなしで、運転中は終始、緊張の連続だった。
今思い返しても、“楽しさ半分・冷や汗半分”の小旅行だったと思う。
けれど、
だからこそ、あのドライブと笑い声の記憶は、今でもくっきりと胸の奥に残っている。
限られた時間、限られた場所。
その中で出会い、笑い、別れる――それが、ワーキングホリデーという旅の本質なのかもしれない。
「明日香」でのアルバイトは、単なる生活費を稼ぐ手段で終わらなかった。
気づけば、そこで身につけた“スキル”のいくつかは、
その後の人生で思いがけず役に立っていた。
包丁の握り方、鰹節と昆布から引く出汁の取り方、
親子丼の仕上げ、天ぷらをサクッと揚げるコツ……。
もちろん、「完全マスター」とはとても言えない。
けれど、それでも「一通り料理ができる人」と周囲に思ってもらえる程度には、成長していた。
日々、厨房で先輩に叱られながら、時に笑いながら覚えた“手の技”。
それは今も、自炊の日常の中で静かに息づいている。
アルバイトの副産物としては、
これ以上ないほど実用的で、ありがたい収穫だったと思う。