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ワーキングホリデーの記憶  作者: 快速5号
第一章 ワーキングホリデー
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第二話 JOOP

成田空港を飛び立ったのは、朝の便だった。

太平洋を南下し、赤道を越えて、経由地であるマレーシア・クアラルンプール国際空港に到着した頃には、窓の外はすっかり夜の帳に包まれていた。


実は、マレーシアを訪れるつもりはまったくなかった。

ただ、当時の旅人たちのバイブルともいえる雑誌『ABロード』で、最も安かった航空券を見つけて手配してもらった結果が、マレーシア経由便だったというわけだ。


翌朝、再び機上の人となり、たどり着いたのはオーストラリア・シドニーのキングスフォード・スミス国際空港。

ここが、私の“1年の旅”のスタート地点だった。


到着ゲートを抜けたところで、私の名前を書いたボードを持って立っていたのが、ホストファミリーとなるご夫妻だった。


「サンプソンと申します」と、にこやかに名乗ってくれた。


のちに聞いた話だが、当初ご夫妻には、「日本人の高校生の男の子が来る」と伝えられていたらしい。


にもかかわらず、大きな荷物を背負って近づく私に、何の疑いもなく笑顔で手を差し伸べてくれた。


——確かに、“日本人は若く見える”というのは、あながち間違いではないようだ。


ホームステイ先は、シドニー中心部から少し離れた、ビバリーヒルズ地区にあった。


“ビバリーヒルズ”という名前を聞いた瞬間、思い浮かべたのは——

アメリカ・ロサンゼルスのあの高級住宅街。

テレビドラマ『ビバリーヒルズ青春白書』に出てくるような、プール付きの豪邸と、日焼けした若者たちが行き交う洒落た通り。


……だったのだが。


ホームステイ先で私を出迎えてくれたのは、ごく平凡な郊外の住宅地の平凡な戸建て住宅と、先住の日本人ホームステイの女子中学生2人だった。


現実とはそんなものかもしれない。



1人の女の子は、大阪・箕面市から来た中学2年生の交換留学生、ヒトミ。

もう1人は、長野市から来た中学3年生のユミコと名乗っていた。


年齢は少し離れていたが、不思議とすぐに打ち解けた。

その晩から、私たちはまるで修学旅行の夜のように、毎晩のように語り合った。


話題は、学校のこと、友達のこと、そして将来の夢のこと。


ヒトミは、**「将来、国際機関で働きたい」と目を輝かせながら語っていた。

ユミコは、「心理学を学んで、カウンセラーになりたい」**と、少し照れながら話してくれた。


——夢は、時にその人の輪郭を際立たせる。

短い時間だったけれど、彼女たちの言葉は、今も記憶のどこかでくっきりと残っている。


もっとも、その後、2人とは自然と連絡が途切れてしまい、夢が実現したのかどうかは、分からない。


けれど、あの夜更けの会話は、間違いなく私の旅の始まりに、あたたかい光を灯してくれていた。


英語学校の入校日の前日。

ホストファーザーが、通学の仕方を教えてくれることになった。


「明日、ちゃんとたどり着けるようにね」と言って、

彼は私をビバリーヒルズ駅まで連れて行ってくれた。


改札の使い方、切符の買い方、路線図の見方。

一つひとつ丁寧に説明してくれながら、セントラル駅まで一緒に乗って行ってくれた。


セントラル駅から、英語学校であるインサーチ・ランゲージセンターまでの道のりも、

実際に歩きながら案内してくれた。


……もっとも、私が理解できたのは、彼の英語よりも、

私の英語力を心配して、一緒についてきてくれたヒトミの通訳する日本語の方だったのだが……


その姿が少しお姉さんのようで、

そのくせ、どこかあどけなさも残るのが面白くて、

私はつい笑ってしまった。



その晩、ホストファミリーには、ヒトミから私の“正確な”年齢が伝えられた。


……すると、まさかの事実が判明した。


なんと、サンプソン夫妻はともに29歳。

私とは、わずか3歳差しかなかった。


“ホストペアレント”という響きから、もっと年上のご夫婦を想像していた私は、正直かなり驚いた。

というか、ちょっと気まずかった。


けれど、夫妻もそのあたりはよく理解してくれていたようで、

「気軽に接してくれていいからね」と、まるで友人のように付き合ってくれることになった。


翌朝はいよいよ、英語学校の初登校日。

目覚めた瞬間から、胸の奥が少しざわついていた。


実を言うと、私はそれまでの人生で電車やバスといった公共交通機関を利用した経験がほとんどなかった。


小中高とずっと徒歩通学、社会人になってからも職場は車通勤。

だから、“ぎゅうぎゅう詰めの通勤ラッシュ”といえば、テレビで見た映像くらいしか知らなかった。


そんな私が、いきなりシドニーの大都市で電車通学する——

想像だけが先走り、「車内で押しつぶされるんじゃないか」なんて妄想を抱えながら、駅のホームに立った。


けれど、実際にやってきた電車は、二階建てのダブルデッカー式。

車内は広々としていて、混雑とも無縁。拍子抜けするほど快適だった。


どうやら、通勤時間帯を少し外した時間に乗っていたことと、乗車時間帯によって料金が変動するシステムが混雑をうまく分散しているらしい。


——初めての海外通学は、思っていたよりずっと穏やかなスタートになった。


「Good morning, class!」


元気な女性講師の挨拶とともに、授業が始まった。


最初の授業は、先生手作りのカードを使って、身の回りの英単語を学ぶという内容だった。


配られたカードには、それぞれ一単語が書かれている。


wall

roof

window

corridor

curtain……


このカードを教室中に貼っていくというゲームだった。


クラスメイトたちは、手にしたカードをそれぞれの場所に貼って行った。


ところが、私のカードには、こう書かれていた。


「JOOP」


……ジョップ? ジョープ? 何だこれは?


しばらく考えてみたが、どうにも意味がわからない。


意を決して手を挙げる。


「Excuse me... This word, JOOP... What does it mean?」


先生がカードを覗き込んで、首をかしげる。


「Hmm...?」


そしてクラスに向かって、英語でこう言った。


「みなさん、この言葉、わかる人いますか?」


——ざわ……ざわ……


……まあ、冷静に上下を逆さにしてみれば、door……ドアなんですがね。


“おもしろいやつ”として、

私の2か月のクラス生活が幕を開けた瞬間だった。


以来、ちょくちょくジョークを飛ばす人だと思われていたようで、

微妙な視線に耐えながら、でもどこか楽しくもある2か月間だった。


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