第一話 出発
一人旅の空で考えるのは、今後の人生のことだろうか。
1995年7月、それまでの仕事を退職し、旅に出て来た。
今年の春頃、
きっと、今のままの人生でも、それなりには楽しい人生が待っているだろう。
しかし、
分かりきった人生など、魅力的ななのか?
私の中で自問自答の日々が始まった。
当時の時代背景として、バブル経済に浮かれていた日々は終わりを告げ、昭和天皇の崩御、オウム真理教騒動、阪神淡路の大震災と、来たるべく“人類滅亡”までのカウントダウンが始まったような時代だった。
そして、ふらりと立ち寄った書店で手に取った
沢木耕太郎著「深夜特急」を読み耽るうちに、
そうだ、旅に出よう!
そう思った。
旅行と考えたまでは良かったのだが、
何処に行く?
誰と行く?
どのくらいの期間行く?
費用はどのくらい?
情報は何処から得る?
沢山の疑問が頭の中を駆け巡った。
そして、私の背中を押したのは、行きつけの飲み屋 “Cyclamen” での、ある晩の何気ない会話だった。
いつものようにカウンターの隅に腰を下ろした私に、マスターが声をかけてきた。
「旅行の計画を立ててるって聞いたけど、どこ行くんだい?」
「まだまだ、暗中模索だよ。
外国も考えたんだけどさ……長期となれば、費用もバカにならないし、英語力だってお寒いレベルだしね。
ここが“思案のしどころ”ってとこかな。」
そのとき、隣でウイスキーのグラスを傾けていた常連客が、ふっと口を開いた。
「ならさ、いっそオーストラリアにワーキングホリデーにでも行ったら?」
——大まかだけど、旅の方向性を“決めてしまった”瞬間だった。
いや、正確には、誰かの何気ないひと言に、心のどこかでずっと望んでいた決断を託してしまったのかもしれない。
調べてみると、ワーキングホリデーという制度には、いくつかの魅力的なメリットがあることが分かった。
まず、渡航後は一定期間、英語学校に通うことができる。語学力を磨くための準備期間が制度として認められているのだ。
多くの参加者はこの期間、現地の家庭にホームステイし、“家族のような存在”を得る。些細なことでも相談に乗ってくれる、心強い味方ができるという。
英語学校のプログラムが終われば、今度は働くことも許される。旅の資金を自分で稼ぎながら、オーストラリアでの生活を続けていける。
——私にとっては、まさに至れり尽くせりの制度だった。
だが、問題がなかったわけではない。
当時、ワーキングホリデービザは“25歳まで”の若者を対象とした制度だった。
そして私は、4か月後に26歳の誕生日を迎えることになっていた。
つまり、残された時間は、ほんのわずか。
その日から、7月26日の誕生日までにビザを取得することが、私に課せられた“ミッション”となった。
まず最初に頭に浮かんだのは、当時勤めていた家電量販店のことだった。
今にして思えば、あの時、必ずしも“退職”という選択を取る必要はなかったのかもしれない。
けれど、当時の私にとっては、「旅立つ前にケリをつけなければならないこと」の筆頭に、仕事のことがあった。
若さゆえの潔さ、あるいは無鉄砲さが、そうさせたのだと思う。
店長や本部の店舗課長までが動いてくださり、丁寧に慰留してくださった。
「1年間の休職にしておいたらどうだ」と代案を出していただいたときには、正直、心が揺れた。
それでも私は、“旅にすべてを賭ける”という決意を選んだ。
だからこそ、退職が決まったあとも、どこか“申し訳なさ”を背負いながらの日々だった。
実のところ、退職の手続きもすんなりとはいかなかった。
せめて後任に業務を引き継いでから――という話になり、最終出勤日は**1995年7月21日(金)**に決まった。
翌日の土日、22日と23日を挟んで、VISA申請が可能なのは月曜日、7月24日の一日限り。
ぎりぎりのスケジュールだった。
その結果、私の古いパスポートには、今でもこう記されている:
1995年7月25日 オーストラリア・ワーキングホリデーVISA取得
7月28日 日本出国
7月29日 オーストラリア入国
“この一連の流れを逃していたら、今の自分は存在しなかったかもしれない。”
そう思えるほど、すべてがギリギリで、しかし不思議なほど滑らかに運んでいた。
最終出勤日。
最後の業務を終えて、車に乗り込んだのは夜の7時半を少し回った頃だった。
それまでの店勤めの日々が、一気にフラッシュバックしてきた。
しばらく、クーラーを効かせた車内でぼんやりと時間を過ごしていた。
——19歳での中途入社。
21歳、新店舗の立ち上げスタッフに選ばれた日の高揚。
22歳、同期の中で最初に主任に昇格した時の誇らしさ。
そして、毎晩のように0時ぎりぎりの閉店作業。
その帰り道、車のラジオから流れてくるのは、いつも決まって《ジェットストリーム》。
城達也さんのあの低くて澄んだ語りに、心を預けながらハンドルを握るのが習慣だった。
最終日の夜はいつもより少し早く、店を後にした。
ネクタイを緩め、胸いっぱいに吸い込んだ夜の風。
——あのときの解放感は、30年経った今でも、ありありと思い出すことができる。
ワーキングホリデーVISAの申請には、東京・赤坂のオーストラリア大使館まで足を運んだ。
猛暑の月曜朝、背中に汗をかきながらも、必要書類をきちんとファイルに収め、緊張した面持ちで大使館の扉をくぐった。
無事に申請を終えたときの安堵感は、言葉にできなかった。
——それだけに、その後、オーストラリア渡航後に知り合った仲間たちから、
「え? ビザ申請、旅行会社に頼めたの知らなかったの?」
と、あっけらかんと告げられたときには、正直、かなり驚いた。
代理申請が可能だったとは——
必死で自力申請した自分が、少し滑稽にも思えて、あとになって笑い話になった。
けれど、今にして思えば、あの朝、自分の足で大使館に向かったことで、
旅への覚悟が、少しずつ形になり始めたのかもしれない。
一度帰宅し、ようやく落ち着いた私は、荷造りに取りかかった。
1年という長期に及ぶ旅。
何を持って行き、何を置いていくべきか——その判断のために、書店で手に入れた『地球の歩き方・ワーキングホリデー完璧ガイド』を広げながら、少しずつ準備を進めていった。
衣類、薬、証明書、英会話集、日記帳……旅に必要なものを一つひとつ確認していく作業は、不安と高揚が入り混じった、どこか儀式めいた時間だった。
荷物の中に当時流行っていた、CDウォークマンと、7枚のCDを入れた。
その時のCDは、今に至るも時折思い出したように聞くことがある。
30年前にフラッシュバックさせてくれるCDは、今となっては宝物である。
中森明菜 POSSIBILITY
マライア・キャリー Music Box
Chicago Heart Of Chicago
尾崎豊 十七歳の地図
Pet Shop Boys Very
浜田省吾 WASTED TEARS
Whitney Houston Whitney
少し余談になるが、出発前夜、私は早めに床に就いた。
だが、夜中にふと目を覚ました。
部屋の中に、誰かの“気配”があった。
薄暗がりのなかで、私の顔をじっと覗き込んでいる“何か”がいるような気がした。
——だれ?
——だれ……?
——だれなの?
声にならないほどのかすかな声を漏らすと、その“気配”はスッと消えた。
よく聞く“心霊現象”というやつなのかもしれない。
だが、不思議と怖くはなかった。
ただ、今でもその感覚だけが、どこか肌に残っている。
——まるで、“誰か”が旅立ちを見届けに来てくれたかのように。