【第60話】 『異議あり、その誓約書は飲み水に入ってました!』
依頼人の話を聞いた瞬間、俺は麦茶を盛大に吹き出した。
鼻の奥に炭酸が入り、喉の奥がキーンと痛む。
「げほっ、ごほっ……な、なんだって? 飲み水に……誓約書を入れた?」
俺の問いに、目の前の青年冒険者ルーグはバツが悪そうに頭をかいた。
「いや、その……村の風習で、“誓いの言葉は水に溶かして飲む”っていうのがありまして……まさか、それで婚約成立って……」
あまりの状況に、俺は言葉を失う。
契約が胃から吸収されるとか、法治国家としてどうなんだ異世界。
「その村、魔導栄養学と契約法の境界線がおかしいだろ……」
隣でエミリアが、冷静にタブレットをタップしながら補足を入れる。
「“飲誓文”といって、紙に書いた誓約を水に溶かして飲む習慣ですね。魔導体内契約として、ごく一部で認められているらしいです」
「胃袋を通すのが法的承諾……? そんなの体質でアウトの人もいるだろ」
状況はこうだ。
ルーグが立ち寄った小さな村で、宿主の娘ティナが夜中に差し出した水を彼が寝ぼけて飲んだ。
翌朝には「婚約成立しました!」と村中に知られていた。
「ええ!? 俺、寝ぼけてただけなんスよ!? 水に味とかしなかったし、あれに書類入ってたなんて気づきようがないじゃないスか!」
「……まあ確かに、文字も紙も溶けてたら読む以前の問題だな」
これが問題になるのは、意思の明確な表示がなかったこと。
契約書が存在していたかどうかも、今や胃液の海の中だ。
スラーディアがその話を聞いて、ぷるぷる震えながら嘆いた。
「胃袋で署名って……それ、条文にも載ってないよぉ……」
その日、異世界裁判所は“飲んだ契約書”をめぐる史上最も消化に悪い裁判に突入した。
――
当日、法廷に現れたティナは、乙女の夢とやらを全力で詰め込んだフリフリのドレスに、バラを編み込んだ髪飾りで登場。
堂々たる態度で証言席に立つと、まるで舞台女優のように告げた。
「私は、確かに彼に誓いの水を渡しました。『飲んでね』って言って、彼は飲みました。それは“了承”ではなくて?」
俺の眉がピクリと動く。
無言のまま、水を渡されて、飲んだ。
それが同意?
「異議あり!」
バンと机を叩き、立ち上がる。
「水を飲んだことと、契約内容に同意したことはまったく別物です! 依頼人は契約書を見ていない、条文も知らない、そして何より“了承の意思”を表明していない!」
スラーディアが「うんうん」とうなずきながら、ぴこぴこと木槌を叩いた。
「それで~、婚約の契約書はあるの~?」
ティナはあっさり答える。
「ええ、ちゃんと紙に書いて水に溶かしました。もう胃の中で……たぶん消化済みです」
「だと思った~!」
スラーディアが天を仰ぐ。
まさかの“証拠書類、消化済”。
証拠不在。前代未聞の“胃で消える契約”。
裁判は混迷を極めたが、最終的にスラーディアがまとめに入る。
「はいはーい、判決です~。
“飲んだだけでは、契約の明確な同意にはなりませーん。
よって婚約は無効です~”」
ルーグは全身から力が抜けたようにソファに沈み、ホッとした表情で深々と頭を下げた。
「まじ助かりました……これでもう胃に婚約されずに済みます……」
エミリアが紅茶を差し出しながら、つぶやく。
「胃の中で契約書が溶けるのはまだしも、法の精神まで溶けたら終わりですからね」
「……うまいこと言うな」
裁判を終え、ティナは謎の微笑を浮かべながら立ち去った。
「今回はダメでしたけど、また別の方法でがんばりますね」
あれは、恋する乙女というより、次の契約手段を模索する契約モンスターのようだった。
スラーディアが、ぽつりと漏らす。
「次からは……飲む前に読んでね……」
うん、ほんとそれ。
胃で吸収する前に、ちゃんと目で読め。
それが契約の、大前提だ。
──裁判終了後。
依頼人ルーグが無事“婚約無効”の判決を得て安心して帰ったあと、俺はなんとなく視線を感じていた。
ティナが、名残惜しそうに振り返って──俺を、見ていた。
しかも、口元に手を添えて、何か言った。
「次は……あなたに飲んでほしいです」
……こわい。
その夜。
事務所のティーカップに紅茶を注ごうとしたとき、俺はふと止まった。
「エミリア、この茶葉……新しいのに替えた?」
「え? いえ、いつもと同じですが」
俺はしばらく紅茶とにらめっこした後、そっと棚に戻した。
用心に越したことはない。
“飲む”という行為が契約になる世界で、油断は命取りだ。
「高野先生、紅茶飲まないんですか?」
「今はちょっと、心の準備がな……」
俺はそっとため息をついた。
異世界裁判の仕事は、喉より先に胃が悲鳴を上げる──そんな日もある。




