【第59話】 『浮気と浮遊は別問題です──飛行魔法で現場不在を証明せよ!』
朝、裁判所の鐘が鳴り終わる頃──空に響いた爆音に、スラーディア裁判所の屋根が一部吹き飛んだ。
窓の外では、まだ煙が立ち上る屋根の破片が、地面にぱらぱらと落ちている。
俺は、紅茶を口に運びかけたまま固まっていた。
「……今日の事件、空飛ぶ不倫です」
静かに、だがあまりに自然にその言葉を口にしたのは、事務所の万能精霊ことエミリアだった。
「……空飛ぶって何。犯人がピーターパンだったとか?」
「いえ、飛行魔法で“不在証明”を主張してるんです。奥さんには不貞で訴えられてますけど」
彼女が机にぽん、と置いた訴状からは、ローズ系の香水の香りが漂っていた。
豪奢な金縁。筆跡はくっきりと力強く、そこには貴族令嬢らしい怒りの筆致があった。
──今回の依頼人は、社交界でも知られるフローラ=フロッサ夫人。
法廷に入るなり、彼女の高らかな声がホールを突き刺した。
「わたくしの夫は、“空を飛んで逃げた”などと、愚にもつかない言い訳をしているのです!」
フローラ夫人の姿はまさに華そのもの。
絹のドレスに羽飾りの扇子、怒気を含んだ目がきらきらと光り、後ろの席にいた貴族たちすら肩をすくめた。
「私はあの夜、夫が東棟のメイドと──その、いかがわしい行為をしている現場を、この目で見たんですの!」
「異議ありッ!」
鋭く立ち上がったのは、煌びやかな装飾服にちょびヒゲをたくわえた男、セファル・フロッサ男爵。
年の割に脂っこい笑顔を貼り付けながら、彼は拳を握って断言した。
「その夜、私は確かに“空を飛んでいた”! よって、現場にいたわけがないッ!」
法廷の傍聴席から失笑が漏れる。俺は額に手をやった。
(また妙なのが来たな……)
「つまり……飛行魔法で不在証明ですか?」
そう訊ねると、スラーディアが裁判官席からぴょんと跳ねてぷるるんと揺れた。
「それって、ちゃんと証拠あるの~? 高度とか、飛行経路とか~」
「あるとも! 私の飛行記録は“魔導航跡水晶”に刻まれているのだ!」
ドヤ顔で男爵が提出したのは、きらきらと虹色に輝く水晶球。
スラーディアがぴこっとジャンプして光を読み取ると、空中に青い軌跡がホログラムで表示された。
「ふむふむ~。えっと、時間は……23時12分から、空中に浮上……23時16分に急降下して……え、地面に激突?」
「なんで落ちてんだよ!」
思わずツッコミが口から出た。
「い、いや……ちょっと風が強くてな……」
額から汗を垂らすセファル男爵。だんだん表情が苦くなってきた。
俺は手元の訴状と証言記録を確認しながら、重要な一点に気づいた。
「セファルさん、あなたは“飛んだ”と仰いましたが──どこからどこへ飛んだんですか?」
「裏庭から、ええと……上空へ……そのまま……飛んで……」
「つまり、“現場から飛び立った”だけで、“現場にいなかった”証拠にはならない、ですよね?」
「……ぐぬっ!」
セファル男爵の肩がガクリと落ちた。
傍聴席のエミリアがくすりと笑って、小声で言う。
「そもそも、浮いてたから浮気じゃないって理屈、通用するわけないですよね」
「うん、そこは浮いてるのに頭は沈んでるよな……」
スラーディアが、ぴこぴこと机を叩いて判決の前振りを始めた。
「証拠によると~、被告は23時16分に墜落~。そのまま23時18分に使用人の部屋へ救急搬送されてます~。で、夫人が現場を目撃したのが、23時20分……」
「ええ、そのときにはもう、“裸でベッドの中にいた”んですの!」
「……は~い、浮遊してても関係ないですね~。これは物理的にも不貞です~」
俺は六法全書・改を静かに閉じる。
「……結論。浮気と浮遊は、別問題だな」
セファル男爵は椅子の上で崩れ落ち、「私は飛んでただけなのに……」と空を見上げて涙をこぼした。
──裁判終了後。
事務所の午後は、いつものように平和だ。
エミリアが紅茶を淹れながら、ふと尋ねてくる。
「先生って、飛行魔法使えないんですよね?」
「無理無理。魔力ないし、そもそも階段で息切れするしな」
「……つまり、“浮上”してないから、浮気の心配もないと」
「ちょっと待て、それどういう理屈だ! 誰が地上限定の草食男子だ!」
エミリアはくすくす笑って、カップを俺の机に置いた。
今日も、異世界の空は平和に……いや、やかましく騒がしい。
裁判が終わったあと、俺は事務所の椅子に深く腰を沈め、ぐったりとした声でエミリアに聞いた。
「なあ……空飛んでたら浮気が成立しない、なんて法理……あると思う?」
目元を指で揉みながら問いかけると、エミリアは紅茶を湯気ごと持ち上げ、あっさり答えた。
「ありませんね。むしろその理屈、いろいろアウトですね」
「だよなあ……」
今日の被告、セファル・フロッサ男爵。彼の提出した“魔導飛行ログ”は──正直、すごかった。
空中をジグザグに舞い、最後は急角度で真下に突っ込む美しい(?)飛行曲線。
「完全に墜落じゃねぇか……! ホログラムで見た瞬間、俺の首まで引っ込んだわ」
そして決定打となった証人メイドの証言がこれだ。
「窓ガラスを突き破って、私の部屋に落ちてきました」
浮いてた? いやいや、落ちてきたんだよ。
どこにも“浮遊継続中”って記録はなかったからな!?
そのときのスラーディアの顔ときたら、ぷるぷる震えながら口をとがらせ、半泣きでこう言った。
「こんなの、判例に載せたくないよぉ~……裁判官やってて一番恥ずかしい案件だよぉ……」
「同感だ」
思わず心の中で固く握手した。
そして判決が下ったあと、セファル男爵は遠い目をしながら、ぽつりと呟いた。
「私は……飛んでたのに……なぜ、妻の方が怒るんだ……」
その瞬間、喉の奥まで出かけたツッコミがあった。
“お前、空から地面に落ちて、ついでに信頼まで落っことしてるからだろ”
……言わなかったけどな。言わなかったけど、胃にダメージが来た。
裁判所を出た後、俺がいつものソファに腰を落とすと、エミリアが紅茶を持って近づいてくる。
「先生って、浮気の心配ありませんもんね。魔法も使えないし」
「いや、そこは喜んでいいのか、落ち込むべきなのか迷うとこなんだが」
俺がカップを受け取ろうと手を伸ばすと、彼女はさらっと続けた。
「だって、“空も女心も読めない”って皆さん言ってますし」
「誰だ“皆さん”って!? 出所不明の評判やめてくれ!」
くっそ、なんだこの追い打ち口撃。
空飛ぶ旦那に巻き込まれたあげく、今度は地上で俺が撃墜されてるんですが!?
胃の奥がしくしくする。もう本気で薬草茶が恋しい……。
「ちなみに次の依頼、なんでしたっけ」
そう尋ねると、エミリアは平然とタブレットを確認して答えた。
「“飲み水に溶かして成立する契約書”についての法的トラブルです」
「……今度は口から攻めてくるのかよ」
浮かんでは沈む思考の波の中で、俺はそっと天井を見上げた。
異世界の空よ、たまには胃に優しい依頼を運んできてくれ──心から頼む。




