【第56話】 『契約書が泣いている――精霊語で書かれた条文の真意』
この世界の法律は、魔法と契約によって成り立っている。
だが時に──「完璧なミス」と呼ばれるほどの奇妙な文書に出くわすことがある。
……いや、正確に言うと、出くわしてしまった。
「……これ、精霊語で書かれてるな」
俺は眉をひそめ、古びた契約書の表紙を指でなぞった。
紙面に刻まれた美しいルーン文字は、まるで詩のように舞い踊っている。それだけで魔力を感じさせるような、どこか儚い美しさを持っていた。
「それのう、普通の翻訳魔法では意味がとれんのじゃ。あれは“歌詞”なのじゃよ。音色や抑揚によって意味が変わる」
ぴょこぴょこと跳ねながら、スライム判事スラーディアがどこか楽しげに言った。
小さな身体をぽよんと揺らしながら、まるでこの状況を楽しんでいるようだ。
「歌詞で契約条文書くなよ……」
俺は深いため息をついた。
「高野先生、この『きらめくの絵は平和の童話を唱う』って、一見すると綺麗だけど……なんか戦争起こしそうな物言いじゃないですか?」
「たぶんな……原文の文脈を読むと、それは『もっと激しい表現をしろ、感情をさらけ出せ』って意味に近い。つまり、戦争じゃなくて“自分らしさの主張”ってとこだな」
「なんでそんな詩的表現にしたんですか!? 平和条約ですよ!?」
契約書は、精霊族と人間の間で結ばれた歴史的な文書だった。
だが──どう見ても片方が喧嘩腰だ。
「人間側がこの文章を残したのは、精霊たちへの文化的劣等感があったかららしい。“詩で応じなければ負け”みたいな感情があったんだと」
「詩心で戦争すんな!」
思わずツッコむ俺に、スラーディアがふるふると震えながら静かに言った。
「精霊たちは、この条文を“泣いている”と表現したのじゃ」
「……泣いてる?」
「この文には、もともと優しさがあった。でもその優しさが、不安と混じって、結果として攻撃的に読まれてしまったのじゃ」
「文章が泣く……それは、読み手の誤解ってことか?」
「うむ。だからこそ、おぬしに読んでもらいたいのじゃ。法律家の視点で、精霊語の真意を聞き届けてくれ」
俺は深呼吸して、契約書の一節を読み上げた。
「……『ゆらめきの林のささやきは、雨をよび、時のまなざしを問う』」
「ほう……聞こえたぞ! これは“もっと相手を見て、信じよう”という訴えじゃな!」
スラーディアが、まるで感動したかのようにぽよんと跳ねた。
「……たった一節読むだけで、精霊コーラス十五枚分の魔力飛んだぞ。割に合わん……」
「これぞ、魔法法律の奥深さよのう!」
「訳し方で解釈が真逆になるって、ある意味怖いけどな。だからこそ、言葉の“やさしさ”が大事ってことか」
──泣いていたのは、契約文書ではなく。
きっと、それを書いた者たちの心だったのだろう。
俺が法律事務所の応接室で契約書と格闘していたそのとき、ひときわ怪しい封筒がぽすんと机の上に落ちた。
「高野先生、また変なの来ましたー!」
受付のエミリアが明るく言ってきたので、嫌な予感しかしない。案の定、差出人欄には『エルフ領文書管理局・未解読便』と記されている。
「……エルフか。どうせまた精霊語で書かれた代物だろ」
開封してみればやっぱりそうだった。中から出てきたのは、細かなルーン文字が踊るように綴られた巻物。
「わあ……詩みたいに美しい。でも一文字も読めないです!」
エミリアがぽやっとした笑顔で言うが、それは俺も同じだ。
「スラーディア呼ぶか……」
すると、机の下からどこからともなくぴょこっと現れたのは、あのスライム判事だった。
「呼ばれずとも参上じゃ! おぬし、また精霊語で苦しんでおるな?」
「苦しんでるのは俺じゃなくて、法治国家の尊厳だ」
「ふむふむ。では、朗読するがよい。そうすれば意味が……たぶん伝わるやもしれぬ」
「たぶんってなんだよ」
俺は半ばヤケになりながら、巻物の冒頭を声に出して読んだ。
「『みどりのささやき、ひかりの流れ、そよ風の調べに心をあずけ』……」
静寂が降りた。エミリアが目を潤ませて「なんか癒されますね」と呟く。
だがスラーディアは首(?)をかしげた。
「むむ。その“ひかりの流れ”は、時空の歪みのことかもしれぬのう。つまり、『この文書は時差がある』という意味にも……」
「……解釈、曖昧すぎないか?」
「それが精霊語の味じゃ。心で読むのじゃよ、心で!」
だったら歌うなり踊るなりしろってのか。俺はため息をつきながら、続きの条文を追う。
「『森に響くは約束の調べ。争いを越えて、手をとりあう日を夢見て』……」
「おおっ、これは仲直り条文じゃな! だが、その“手をとりあう”が“捕縛”に誤訳された事件もあってのう……」
「仲直りと逮捕が同じに聞こえる言語ってどうなんだよ」
そのとき、スラーディアがぽよんと跳ねて、俺の手元をのぞき込んだ。
「精霊たちはの、この条文を“泣いている”と表現しておったぞ」
「泣くのはこっちの頭だよ」
「いや、まじめな話じゃ。この文には、もともと優しい願いが込められていたのじゃ。それが翻訳の誤解で、敵意と取られてしまった」
俺は巻物を見つめ、そっと指で撫でた。
「……伝えたかった想いが、誤解でねじれる。よくある話だな」
「だからこそ、おぬしのような言葉の通訳者が必要なのじゃ」
スラーディアが静かに言った。
契約文書が泣いている。
それは、読み手の鈍さか、書き手の焦りか。
きっと両方だ。
「……よし。これは“約束の詩”だ。法律じゃなく、信頼の証明だ」
俺はもう一度、声に出して読んだ。
まるで、忘れられた音楽を呼び戻すように。
──泣いていたのは、紙ではない。
書いた者たちの、心だったのだ。




