【第50話】 『タイムリープされた契約書──過去と未来、どっちが有効?』
朝、事務所のドアを開けた瞬間、俺の目の前に突き出されたのは、やたらとくしゃくしゃになった一通の契約書だった。
「高野先生っ! これ、なんとかしていただきたいのです!」
慌てて駆け込んできたのは、時間魔法学研究所の助手をしているという青年、エルヴィン。顔は青ざめ、髪は爆発でもしたかのようにぼさぼさ、そしてなぜか靴が片方しか履かれていなかった。
「……まずは落ち着け。靴、片方どこやった」
「時間の裂け目に吸われました!」
突拍子もないことを言いながら、彼はぐいっと契約書を差し出す。その書面を見て、俺は眉をひそめた。
「日付が二つあるな。……一枚目は“来週”、もう一枚は“十年前”? おいおい、どういうことだよ」
「それがっ……実験中に“文書転送型時間魔法”が暴走して、同じ契約書が過去と未来の両方に送られてしまったんです!」
エルヴィンは手をわなわな震わせながら続けた。
「で、どちらの時代でもミネルバ先輩が署名してくださったのですが……」
「その内容が違うと?」
「はいっ! 一方には“出資する”と書かれていて、もう一方には“出資しない”と……!」
なんという器用な矛盾だ。俺は深く息を吐いて、契約書をもう一度見直す。
「で、本人の本音は?」
「“その時々の気分だった”そうです……」
俺は思わず額を押さえた。時間魔法は法律家泣かせにもほどがある。
「気分で契約書の内容を変えるなって言っとけ……しかし、面白いな」
俺は口元を緩めてソファに腰掛けた。
「問題は、どの“時間点”での意思表示を重視するかだ。法的には通常、直近の意思が優先されるが……」
「未来の契約書が現代に現れたこと自体が前提を崩してますよね!」
「そう。未来の自分が過去の自分に影響を与えていたら、“真の意思”がどこにあるのか曖昧になる」
「じゃあ過去の契約は無効……?」
「それを判断するには、本人の“証言”が鍵になる」
そのとき、事務所のドアが再び開いた。
「ごきげんよう、高野先生」
涼やかな声とともに入ってきたのは、優雅なドレス姿のミネルバ本人だった。ただし──
「……髪、青かったよな? 今は金色だが」
「ええ、“二日前の私”ですわ。今朝、未来の私と交代しましたの」
「ややこしいにもほどがある!!」
エルヴィンが倒れ込むように椅子に座り込んだ。
「大丈夫ですか!?」
「時間酔いしてきました……」
ミネルバは優雅に微笑んで、テーブルに紅茶を置く。
「ちなみに、出資するかどうかは“今日の私の朝食”によって左右されますの」
「は?」
「甘いパンを食べた日は心が広くなるので、わりと出資しがちですわ」
「法の下で情緒的判断をすんな!!」
──かくして、時間を超えた契約意思をめぐる裁判が幕を開けた。
なお証人席では、“未来予知で知った内容を参考に現在の自分が述べた過去の証言”という、全く整理不能な発言が飛び交い……
「出資するのは“昼食後のテンションが高めの私”ですわ」
「つまり、糖分が契約の命運を握っているってことだな……」
裁判は、誰もが予想した通りの混迷を極めることとなった。
ちゃんちゃん(泣)
■
時間魔法学研究所の休憩室は、日差しを避けるようにカーテンが半分閉じられ、空気の中に紅茶の香りと魔力がほのかに漂っていた。
俺は再び、例の人物──ミネルバに呼び出された。
「おほほほ、ようこそ高野先生。今日は“三日前の私”がお相手ですわ」
出迎えたのは、見慣れたミネルバ……だが、髪の先のカールがいつもより緩く、スカートの色味も違う。
「ちなみに明日は“来週の私”が来ますので、そのときは白ワインをご用意いただけると助かります」
優雅な仕草でティーカップを差し出す彼女を前に、俺は無言でそれを受け取った。
「……俺のスケジュール帳、何次元対応だったっけな」
そうぼやくと、ミネルバはくすくすと笑い、ティーカップをくるりと回した。
「まったく、私ってば気分屋で困りますの。昨日の私が出資を渋るから、今日の私が謝罪の茶会を開く羽目になりましたのよ」
「いや、それ完全に自業自得だろ」
俺は紅茶をひとくち啜りながら、視線をテーブルに置かれた書類に移す。
「で? 結局、出資はどうなったんだ」
「ふふ、結論から申し上げますと──明後日の私が気まぐれに承認いたしましたわ」
「未来の気分で決まる投資案件って、絶対怖いって」
彼女はまたくすっと笑うと、懐から契約書を取り出した。よく見ると、羊皮紙の端に日付が……“一週間前の未来”と書かれている。
「この契約書を、今日のあなたに提出しますわ」
「……時制があまりに混沌としてて、そろそろ脳が焼き切れそうなんだけど」
「でも大丈夫ですわ、高野先生。私、今日の私からこの書類を受け取ったことになっていますの」
「それ、先に言えよ……って、未来の記録と過去の提出をリンクさせるってことか」
「そう。ですから、この契約は時間魔法に基づいた“時系列再帰的合意”で成立してますのよ」
「そんな言葉、聞いたことすらねぇ……」
俺は書類を手に取った。文面は見慣れたフォーマットだが、欄外に「午前ティータイム後のテンションで合意」とある。
「お前、まさか契約の意思表示を紅茶でコントロールしてんのか?」
「おほほ、それは秘密ですわ」
紅茶を飲み干したミネルバは、軽やかに立ち上がった。
「それでは私、昨日のディナーの支度がありますので。未来の私に過度な期待は禁物ですわよ」
「……待て、昨日のディナーって何だよ?」
言い終える前に、彼女はすでにその場からふわりと消えた。空間に残る魔力の余韻と、わずかに揺れるカーテン。
テーブルの上には、時空に挟まれた契約書と、飲みかけのティーカップが二つ。
俺は額を押さえた。
「……もういっそ、弁護士じゃなくて時間管理官に転職しようかな」
そんな自嘲が漏れる午後のひとときだった。




