【第36話】 『人魚の歌は契約ですか?──魅了の告白騒動』
午後の相談所。カーテン越しに差し込む陽光が、書類の山に柔らかく影を落とす。俺──鷹野誠一、異世界弁護士としての仕事に今日も励んでいた。
エミリアが紅茶を運んできてくれたのも束の間、ドアがバタンと勢いよく開かれた。
「先生ぇ! 大変なんスよ!」
飛び込んできたのは、青い鱗と人間の脚を持つ青年──ルーク。人魚族の混血で、港町で漁師見習いをしている青年だ。
「人魚のマリアさんに、歌で告白されたんス! 俺も『好きです!』って返事しちまって……そしたら翌日、婚約届が役所に出てたんスよ! これって法的に有効なんスか!?」
「落ち着け。順を追って話そう」
俺は手帳を開き、エミリアがすかさずペンを渡す。ルークは椅子に座るなり、立て板に水の勢いで話し始めた。
「マリアさん、夕暮れの波止場で歌を歌ってたんスよ。それがもう……すっごい綺麗で、耳がとろけるような……。で、俺が『好きです』って言ったら、目がキラキラして……」
「それが婚約の合意だと認識されたわけか」
「いや、俺はただ……本能的に、っていうか! 言わされちゃったっていうか!」
そこにエミリアが口を挟む。
「先生、人魚族の歌って“魅了効果”がありますの。しかも、歌に込めた“契約魔法”が発動する場合も」
「つまり、“告白ソング”がプロポーズ魔法だった可能性もあるってことか……」
俺は六法全書・改の魔法契約法編を開き、人魚族の項を確認する。
「……あった。“歌唱による魔術的魅了を用いた誓約行為は、当事者の自由意志を欠いた場合、無効とする。ただし、明確な合意表明がある場合は例外”」
「つまり俺、合意しちゃったからアウトってことッスか!?」
ルークが頭を抱える。だが、まだ道はある。
「状況証拠として、“魅了された状態だった”ことを証明できれば、合意の強制性を主張できる」
その瞬間、ドアが再び開く。
「ルークさんっ!」
金色の髪をなびかせ、スレンダーな肢体を包むドレスの裾を翻して現れたのは、人魚族の美姫──マリアだった。
■
法廷では珍しい“海辺での審理”が認められたのは、人魚の原告が水中から離れられないためだった。
場所は港町サレスト。潮風と波の音が交錯する仮設法廷の中央、白い砂浜に作られた臨時の裁判場で、異世界弁護士である俺──鷹野誠一は、半身を海に浸して待機していた。
「うわ……膝から下、ずっと冷たいのな。これ、長期戦になったら足がふやけるんじゃ……」
「先生、訴訟ってのは体力勝負ですのよ」
いつも通り紅茶を片手に現れたのは、助手のエミリア。日傘を差しつつ、砂浜に椅子と書類用の卓をセットしてくれている。
「準備は万全ですの。あとは、原告……来ましたわ」
沖合から現れたのは、エメラルドの尾鰭をきらめかせる人魚──マリアだった。美しい金髪が濡れ、滴る水滴が陽光に反射する。
「改めまして、マリア・マーレンと申します。今日はよろしくお願いします、人間の弁護士さん」
「ああ。こちらこそ。足元だけ冷たいけどな」
マリアは微笑むと、貝殻のブローチから防水処理された書類を取り出した。そこには“愛の誓約契約書”と書かれている。
「……先日、歌で男性を魅了してしまった件、彼は“愛を告白された”と誤解してしまいましたの。けれど、私たち人魚にとって“歌”は挨拶程度のもの。彼は暴走して婚姻届まで持ってきたんですの!」
「──それで、マリア側が“そんなつもりはなかった”と訴えてる、と」
俺は書類を見ながら頷いた。隣では被告人──漁師の青年、ルークがむすっとした表情で砂に絵を描いていた。
「おれは本気だったのに……。マリアちゃんは、あんな甘い声で“あなたに恋してる”って……」
「それは恋の歌詞です! 歌詞! みんなに歌ってるのに!」
「でも俺、海に飛び込んで指輪投げたよ!? そしたらキスまで……」
……あちゃー。
「つまり、双方の“意思表示”が齟齬を起こしてるんだな。人魚文化では“恋歌=一般的挨拶”、だが陸の民にとっては告白と誤解されうる」
「そうですの。私、婚姻なんて望んでませんのに……」
「よし、文化的誤解による“契約の成立要件欠如”で無効を主張しよう。重要なのは“真意の合致”だ」
俺がそう宣言すると、判事役の潮騒の精霊──見た目はクラゲのような存在──が、にゅるりと現れてこう告げた。
「双方向の明示的合意なし、契約無効。あと濡れた紙は読みにくいから次回はラミネートで」
法廷が一気に和やかな空気に包まれた。
ルークは頭をかきながら、ぽつりとつぶやく。
「……じゃあ、最初からちゃんと告白してもいい?」
「それならば、歌じゃなくて言葉でお願いしますの」
マリアが頬を赤らめて笑った。
「じゃあ……好きです! もう一度、会いに来てくれますか?」
「……考えておきますわ」
波間に揺れる尾鰭と、照れたような声が、陽光の中に溶けていった。
異世界の恋と法は、今日も紙一重だ──。
まさかの立場逆転の手のひら返し……。
そう──人魚と人間界の女の心は、きまぐれなのだった。
「あなたの“はい”は、私にとって世界のすべてでした……!」
「ま、マリアさん!? あれって……契約だったんスか!? 本気で!?」
「もちろんですわ。私は“海誓の歌”をあなたに捧げたんですもの!」
「やっぱりプロポーズソングだったぁぁ!?」
相談所内に絶叫が響く。
「マリアさん、申し訳ないが、ここは冷静に法的な整理を」
「……異議ありません。もし、彼が本当に私の歌に魅了されただけなら……それは、私の独りよがりだったのかもしれませんわ」
マリアが寂しげにうつむく。
「でも、もう一度だけ……彼の意志で“はい”を聞けたら、それでいいんですの」
ルークが立ち上がった。
「……俺、もう一回歌、聞いていいスか?」
マリアは微笑む。そして、波のように優しく、しかし心を揺さぶる旋律を口ずさみ始めた。
ルークの瞳が、ゆっくりと潤んでいく。
「……はい。今度は、自分の言葉ッス」
──契約、成立。
俺はペンを置いた。
「うん。今度こそ、自由意志。法的にも文句なしだ」
「はいっ!」
マリアが両手を胸に当てて、小さく跳ねる。
「じゃあ婚約届、今度は自分で出しに行くッス!」
その日、相談所には“愛”の法的効力が、確かに響いていた。




