【追放】された聖女の笑みは、不毛な北の大地から。
「アリスティア様、キャレドナの地に王国の兵どもが踏み込んだとの報告がありました」
「王国の?」
「ええ、ブリガント王国のレイクフッド王太子が率いる兵のようです」
「どうして……。彼らにとってキャレドナは不毛の大地として価値がないものではなかったのですか?」
「それがですね、彼らの目的がどうやら追放した聖女の捜索にあるというのです」
「追放した聖女、って……」
「エルトリアをはじめ、人間どもの集落には『聖女アリスティア』が立ち寄っていないか、立ち寄ったとすれば現在どこに居住しているか、それを明らかにするよう通達がきていたようですが、まともに返事がなかった様子で。業を煮やした王太子が軍を引き連れ進軍中なのだと」
執事のセバスの報告に、わたしの顔は強張った。
眉間に皺がよってしまっているのがわかる。
あの人たちが今更何をしようというのか。
わたしをを人類域の外に追放しただけでは飽き足らず、まだ何か求めようというのか。
せっかく、ここにきて、やっと幸せというものを手に入れられたと思っていたのに……。
「アリス。心配しなくてもいい。君には指一本たりとも触れさせはしない」
「グラキエス……」
「大丈夫だよ。ここには人間は辿りつけやしない。万一近くまで来たとしも、この俺がそいつら全てを凍り付かせてしまうから」
氷雪の精霊でありここキャレドナの魔王であるグラキエスなら、全てを凍り付かせるという言葉も不可能じゃない。
でも……。
「ダメよグラキエス。いくらなんでもそれはだめ。問答無用で凍り付かせてしまうだなんて、それじゃぁ帝国を、人類域全てを敵に回すことになるわ」
「しかし、アリス。俺にとって君以上に大切なものなんてないんだよ。誰かが君を傷つけるなら、容赦するつもりはないんだ」
わたしの大好きなグラキエス。彼がわたしのことを想ってくれるのはものすごく嬉しい。でも、どうしよう。このままじゃブリガントの国の人が危険だわ……。
それに、ブリガントの兵がエルトリアの村人を傷つけるのもみたくない。
「グラキエス。わたし、行くわ。わたしが出ていけば争いごとにはならないと思うのよ」
「ダメだ。人間はどんな嘘をつくかしれたものじゃない。君を害そうとするかもしれない。そんなことになったら……」
◆◇◇◆◇◇◆
キャレドナは異端の地と呼ばれて久しい。
アウレリアス正教の教義も、協議会の権威も、ましてや帝国の武威でさえここではなんの影響力も持たない。
そもそも皇帝ラグナシアスがこの地をなかば諦めてからというもの、その北端の不毛の地に文明の恩恵を授けようだのという奇特な考えを持つものは絶え、今や犯罪者の追放の地と認識されるに至っていた。
要はこの辺境に住むものは罪人の子孫であり、教会の教えを知らない無知なもの達であり、つまりは世界から孤立した人類域の外の存在と見做されていたわけである。
冬は寒いけれど雪は降らず、夏でさえあまり陽があたらず雨も少ない。
おおよそ、命が育まれるには色々と足りない土地。そんな不毛な赤褐色の大地。
そんな場所、一体誰が望むというのだろうか。
これより南のブリガントは小さいながらも王を頂く国家であるし、海を渡った西のガリアは気候も温暖で肥沃な土地であるため作物もよく育つ。
北に南にと伸びる二つの大河が山頂より程よい腐葉土を運び、平地を富ませる。
おかげか、人口も年々増え栄えていった。
帝国のパクスに守られたこれらの土地は人類域という名で呼ばれ、辺境との境は明確に示されていたのだった。
そんな、人類域最北端であるブリガントの首都で、今日、とあるひとりの聖女が追放刑に処せられていた。
彼女の名はアリスティア・リンデンバーグ。
帝国聖女庁より派遣された聖女であり、ブリガント王太子レイクフッドの婚約者であった、はずであった。
「私、レイクフッド・ハマルブリガンの名において、自身とそこにいる偽聖女アリスティアの婚約を破棄することをここに宣言する!」
季節は秋。収穫祭のため王宮に大勢の人々が集まっている、その衆目の元。
レイクフッドはそう声高らかに宣った。
「どういうことでしょう、殿下。わたくしと殿下の婚約は、国王陛下の要望で取り決められたものであったはず。わたくし達の一存でどうにかなるものでは無かったはずではありませんか?」
「黙れ偽聖女よ。もう貴様の戯言など聞きたくもない。これは決定事項だ。すでに王陛下の許可は取り付けてある!」
「そんな……」
(だって、陛下は先日より病の床についていらっしゃるはず。そんな重大な内容に許可を出されるとは思えないわ)
そうは思うものの、自分には王太子に逆らう術などありはしない。それは重々わかっている事。
この偽聖女呼ばわりも、もう何度も言われてきた。
実際何もできないではないか、と。
そう蔑まされ。
確かにアリスティアは通常の聖女がよく持ちうる加護である、癒しの術を行使することはできなかった。
病床にある王陛下を癒すことはもちろん、簡単な傷などでさえ治すことすらできなかったのだ。
この王宮に来たばかりの頃。王太子が転び膝を擦りむいた時でさえ、そこに薬草をあて包帯を巻くことしかできなかった。それはきっと彼を随分と落胆させたのだろう。出会った時のあのキラキラと輝いていた瞳が、みるみる曇っていくのがアリスティアにもありありと感じられて。
羨望が失望に変わる時というのはこんなものなのだと。彼女も随分と落ち込んだものだった。
きっと、自分がこの国を訪れる以前に、彼の心に中には癒しの術が使える聖女という理想像ができていたんだろう。だからそれに応えることができなくて申し訳ない。そんな負い目も感じていたアリスティアだった。けれど。
「それでもわたくしは……」
「なんだ? まだ言い分があるというのか?」
「わたくしは、この国のためにと尽くして参りました……」
「ふん。何を言う。お前など、なんの力も持ちはしないくせに。父がお前のような偽聖女を崇めていたのだと思うと反吐が出るわ。そうだいいことを聞かせてやろう。長年の我が国の要望が叶い、帝国は本物の聖女を送ってよこしてくれたのだ」
レイクフッドは背後のカーテンに向き直り、手招きをした。
「聖女カトリーナよ、ここに」
その声に導かれ、ゆったりとベールを脱ぎつつ金色に輝く女性が歩いてくる。
「カトリナ?」
その顔はアリスティアにも見覚えがあった。帝国にいた時、聖女宮で共に過ごした幼馴染の彼女が、なぜ?
「あらあらアリスったらなんてお顔してるのかしら? ふふ。貴女この国ではなんの役にも立たなかったってほんと? ああでも安心して、この国はわたくしが癒して見せるから」
「だって、カトリナ、貴女は……」
「ふふふ。人は変わるのよ。今では立派な聖女になれたもの。ほら、こうして」
両手を広げ、天に掲げる。
その手のひらから無数の金色の粒子が溢れ出した。
「これが聖女の加護よ。わたくし、癒しの術を授かって聖女に認定されたのよ」
その顔には自信がみなぎっている。昔々一緒に孤児院にいた時いっつも自分の後ろに隠れおどおどしていたそんな姿はそこにはもうひとっかけらも残ってはいなかった。
溢れ出した金色の光はその会場中、いや、王宮中をふんわりと覆っていく。
ざわざわと漏れ伝わってくる声、声、声。
「ああ、これは神の恩寵か、体が軽くなるようだ」
「ほら、昨日痛めたはずの腕が痛くないわ! 青あざも消えている!」
「膝が、膝が、曲がるようになった!」
そんな声が次々と聞こえてくるにつれ、カトリーナの神聖な加護がまさに真実であるのだと、皆にも伝わっていった。
「素晴らしい! 見事な癒しの力だ。真の聖女よ。これでこの国は安泰だ」
「ありがとうございますレイクフッド殿下。わたくしはこれからこの国のために、精一杯尽くしてまいりますわ」
「ふむ。それにしても。お前にはまだ不服があるようだな。その高慢ちきな顔がそう言っておるわ! もういい! 今まで長きにわたりこの国を謀ってきた偽聖女よ! お前にはそれ相応の報いを受けてもらおう」
そう言うと、レイクフッドはアリスティアを睨め付け、憎々しいと言わんばかりの声音で宣言する。
「この、レイクフッド・ハマルブリガンの名において、そこの偽聖女アリスティア・リンデンバーグを極刑、人類域の外、キャレドナへの追放刑に処す!!」
◆◇◇◆◇◇◆
ガタガタと揺れる馬車。いや、荷馬車と表現した方がいいだろうか。
とても人が乗って旅をするような乗り物には見えない。
御者台はそこそこ立派に設えられ、長距離にも耐えられる仕様になっていたものの、その背後にあるのは荷物を運ぶためのものにしか見えず。
まさかそこに人が、それも少女が小さく丸まって座っているとは外から見ているものにはわからなかったろう。
(大丈夫。怖くないわ。こうして荷物のように運ばれるのはこれで二度目だもの。ああでも……)
あの時は一人じゃなかった。一緒の孤児院で共に育ったカトリナが一緒だったから。
そう思い返す。
この国、この帝国に属する人類域の住人は皆、生まれて5歳となる年の春にその身に秘めた魔力を測定される儀式を受ける。神参りと呼ばれるその聖なる場において、魔力のその量と質を判別され、加護が与えられているかどうかを調べるの。
アリス。当時はただのアリスと呼ばれていたわたしもまた孤児院長につれられ教会へと赴いていた。
本当の誕生日なんてわからない。でも、多分5歳くらいだろうと思われていたその年に。
片田舎の町でしかなかったリンデンバーグの街のその教会で、推し量れないほどの莫大な魔力と聖女の加護を授かっているという判定を受けたのだった。
魔力の親和性を測る「魔力特性値」通称マギアスキルの値も測定器の針を振り切るほどで、正直田舎の教会では彼女の真偽は測ることができないまま、同時に魔力があると判定されたカトリナと共に帝都に送られることになったのだった。
帝都での再測定でも聖女の加護が認められた。
当時の大聖女のお墨付きで「聖女」となり出身地を家名に戴き、聖女アリスティア・リンデンバーグと呼ばれるようになった。
だけれど。
わたしが帝都にいられたのはそんなに長い期間ではなかった。
どれだけ魔力があろうとも。
どれほど聖女の加護が現れようとも。
わたしはその聖女の価値とも言うべき癒しの術を行使することができなかったのだから。
いや、魔法そのものが全く使えなかったわけではない。
特に、生活魔法の類であれば十分使えた。
それがたとえ、聖女のするべき仕事ではなかったのだとしても、そうした仕事をしていた方が誰かの役に立っていると実感できた。
誰かに、ありがとうと言われることが嬉しかった。
結局そのせいで、聖女宮を追われこうして辺境の国へと送られることになったのだったけれど。
それであっても今まではそれを苦とも思っていなかった。
そう。こうして追放刑にあうまでは。
「寒い……」
まんじりともせず迎えた明け方。そろそろブリガントの国境、いや、帝国の、人類域の端に辿りつく頃合い。
着ているのは粗末なワンピースだけ。防寒着も毛布さえも何も与えられず荷台に座り込んでいたわたし。寒さに耐えきれずそう声を漏らす。
悲しくない、と言ったらきっと嘘になる。
今までの人生、なるべく良かったことを探して生きてきた。
それでもそれもここまでかもしれない。
そう、心の奥がどんどん底まで落ちていくのを感じながら、涙を堪えてぎゅっと膝を抱えた。
唐突に馬車が止まる。
「おい、起きろ」
冷たい声が荷台に響いた。
寝てはいない、けれど。
虚な目をしてその声がした方向に向き直る。
「ついたぞ。さっさと降りてくれ。俺はすぐにでもここから離れたいんだ」
引きずられるように馬車から降ろされた先に見えるのは、灰色の石が積み上がった塀、ひたすら長く築かれた長城のその切れ目。大きな聳り立つ門。
人の手で開けることが叶うのか?
そう思わせるほどの巨大な門にはそれを守るべき門番のような人影は見えず。
ただただ無人のその門の脇には小さな扉があるだけ。
小さな扉にかけられた閂を抜き扉を開けた御者の男は、片手でわたしを掴んでその外側に放り出した。
肩から地面に転がったところに、ずたぶくろを一つ放り投げると。
「これはせめてもの温情だとよ。数日分の飯と水だ。流石にお貴族様たちも門のすぐ外でお前が白骨になるのは避けたいそうだ。運が良ければ人里にでも辿り着けるかもしれねえな。じゃぁ、達者でな」
それだけ言うと扉を閉じて。
がちゃんと閂が閉じる音が聞こえた。
果てしなく先まで続く長城から、朝日が昇るのが見える。
痛む肩を抱きながら、なんとか立ち上がって。
袋を拾い胸に抱えると、そのまま北に向かって歩き出した。
記憶が確かなら、ここより北には追放者らが集まった村があるはず。
王宮の文献には確かにそう綴られていたはずだ、と。
諦めを言葉にするのはまだ早い。
そう、口を閉じて。
村があるかもしれないと、それだけを心の支えにして、ただひたすらと北に向かって歩いていった。
赤褐色の大地に轟々と風の音が響く。
舞い上がる砂塵に目をやられそのままそこにしゃがみ込む。
もうあれから随分歩いて来たような気がするけれど、先ほどまでの太陽はまだ空高くに見えていた筈。日が暮れるまでには身を隠せるような場所に辿り着けないかと期待していたけれど、どうにも景色に変化がなく心が折れそうになっていたところだった。
背後にあった巨大な長城はすでに砂煙と混じって見えなくなっていたけれど、正面もそれは同じ。
所々に舞う砂塵が見えるのみの、赤褐色の平原がどこまでも続いて。
「ここは……」
しゃがんでみてわかったのは、ここが周囲に比べて少し窪地になっているということ。
砂塵もなんとか顔にかからないところを舞っている?
「バアル!」
水魔法で両手いっぱいの水を生成し、顔を洗って。
砂に塗れて汚れた服も洗ってしまいたかったけれど、それは諦めた。
この気温で全身ずぶ濡れになってしまうと風邪をひいてしまいそうだ。
温風で乾かすにしても時間がかかる。
一般的な生活魔法には困らない自信がある。
だから、もう少し身を隠せる場所、そう、小屋みたいなものでもあればいいのに。
そうであれば数日はそこで過ごせる自信はあるのに。
今は、生き延びることを考えよう。
追放されたのがせめて樹々の生い茂る山だったら。
命が溢れる林の中だったら。
そんなことも考えてしまうけれど、それはもうしょうがないと諦めて。
こんな場所でも人は生きているはず。
まずその人里へ。
せめて誰かが放置したのでもいい、小屋でもなんでもいい、廃墟でもいい。
そういった場所がないかと思い巡らす。
「まあでも、少しここで休みましょうか」
上空ではまだ轟々と砂塵が舞っている。
「もう少し、この砂嵐が収まるまで、ね」
そんな独り言を呟きながら枯れ枝でも落ちていないか辺りを物色して、窪地の隅に集まったタンブルウィードを見つけた。
「こんな荒地でも、全く草も生えないわけじゃないんだ」
枯れ草の塊が風に運ばれ窪地の隅に溜まったんだろう。
「これで暖が取れる。良かった。やっぱりちょっと寒かったもの」
乾燥した土に少量の水を混ぜ、こねて小さなかまどを造る。
そこに枯れ草をちぎって入れ、
「アーク!」
手をかざし火を起こす。
バチバチと音をたて燃え広がる炎を眺めていると、少しだけ心に余裕も生まれてくる。
生きている。
それがこんなにも嬉しいことだったなんて思いもしなかった。
食料だと言って渡された袋の中を見てみると、中にあったのは固くなったパンと干し肉。
そして瓶に入った飲み水だった。
「やっぱり温かいものが食べたいか、な」
土で作った鍋にパンが入っていた紙の袋を開いて被せてそこにお水をなみなみと注ぐ。
水は、自分で生成できるので少しばかり贅沢な使い方をしても困らない。
そのまま火にかけ、干し肉を入れ。
干し肉が柔らかくなって旨味も溢れてきたところに固くなったパンをひたす。
味付けは干し肉の塩分だけだけれど、出来上がったパンがゆは充分美味しそうに思えた。
枯れ草に紛れていた少し大きめの枝を火のアークと風のアウラの魔法でスプーン状に加工して。
それで少しずつ掬って口に入れる。
「うん。美味しい」
凍えていた身体に染み渡るような、そんなパンがゆを口にして。
少しだけうとうとと、横になった。
◇◇◇
――助けて
うとうととし朦朧としていた頭が一瞬ではっと起きた。
夢?
なの?
そう思いはしても、なんとも生々しい悲鳴のような声。
こんなところに。
自分以外人どころか命のかけらさえ見えないようなところに。
ありえない。
そうは思いつつも、ただの夢とも思えない、切実な叫びに思えて。
立ち上がり、周囲を見渡した。
いつの間にか砂嵐は去って空には青々とした色が戻っていた。
日は少しだけ陰ってはきていたが、まだまだ十分明るくて。
地面は少し起伏があるものの、赤茶けた土が見えるだけ。
所々に先ほどのようなタンブルウィード。
それだけ、に、思えた。
「やっぱり、生き物の姿なんて……」
思い過ごしだったのか。そう諦めたところだった。
視界の端に、もぞ、っと動く赤茶けたカケラが見えて。
思わず、走り出していた。
あの小ささ、人間ではない、そうは思うけど、放ってはおけなかった。
ズタボロの、布の塊が赤茶けた砂に塗れているのかと、そう思った。
でも。
拾いあげてみると、それはまだほんのり温かく命の温もりが残っている。
「この子、まだ生きてる。生きてるわ!」
大急ぎで焚き火のかまどのそばに戻る。
うさぎ? 猫? 小狐?
そんな大きさの小動物のように思えるそれ。
あんまりにもズタボロの雑巾のような塊になってしまっているそれは、今にも冷たくなってしまうように思えて。怖い。
枯れ草をかまどにくべ少し火を大きくして、周囲を暖め。
胸の中にいる小さな命に清浄魔法を唱えた。
「キュア。この子を助けて」
「バアル、アークも手を貸して」
自身の中のマナをマギア(魔法)に変える。
媒介となってくれる妖精の「ギア」
アウラ、キュア、バアル、アーク、そんな「ギア」たちの力を借りて、マナはマギアに変化する。
水のバアルと火のアークが力を合わせお湯を生成し、キュアがその小さな命を浄化する。
普段、生活魔法と称して使っているそんな魔法たち。
いつもだったら、自分の周りを少しだけ綺麗にする魔法。そんな掃除の術として使われていた「ギア」たち。
「いいよ、アリス」
「うん。大丈夫、アリス」
「この子を助けましょう。ええ、みんなで」
ギアたちがそう囁くのがわかる。
一瞬、お湯の塊に包まれたそのズタボロの命は、みるみる浄化され、真っ白なふわふわの塊に変化していた。
◇◇◇
白い綿毛のようなふわふわな毛に包まれて。
腕の中で気持ち良さそうに眠る猫。
これがさっきまでズタボロの雑巾のように見えていた、今にも命の火が消えてしまいそうだった生き物だとは、とても信じられない。
「助かった? のかしら」
可愛い寝息を立てているその顔に、そっと耳を近づけてみる。
命の鼓動を確かめたくって。
「ありがとう。アリス?」
「え?」
その小さな口から、確かにそんな声が聞こえて。
思わず顔をあげ子猫の顔を覗き込む。
さっきまで閉じていた瞳がクリンと開き、可愛らしくこちらを見て。
「ありがとう、って言ったの。恥ずかしいから何度も言わせないで」
ちっちゃなお口で、確かにそう言っているのがわかる。
「あなた、人の言葉が話せるの!?」
「ふふ。それってそんなに驚くこと? キュアだってアークだって、アリスって呼んでたのに?」
「あなた! ギアたちの声も聞こえるの!!?」
真っ白な綿毛。可愛らしい耳。クリンクリンな瞳。そして可愛らしい肉球。
びっくりして手を緩めた胸からするんと抜け出したその子猫。
背中に虫のような透明な羽を何枚も広げ、ふわりふわりと空中に浮かんでこちらを覗き込んだ。
「あたし、フニ。マギアの精霊。ちょっと色々あってマナが枯渇しちゃって行倒れてたの。助けてくれてありがとうアリス!」
るんるんと。
そんな言葉が似合うようにふわふわわたしの前をゆく妖精フニ。
見た目は完全に白猫。それもまだ子猫に見える。
背中の透明な羽根は全部で八枚。
ファサッと羽ばたくだけだけでとても子猫の自重を支えられるようには見えなかったけれど、それでもその身体をふわんと浮かせている。
「不思議ね」
思わずそう漏らす。
「あら、この世界は不思議で満ちているのよ?」
振り返りそう返すフニ。
可愛らしいその子猫の笑みに、何だか気分まで上向いてくるような気がする。
周囲の過酷さが変わったわけではなかったけれど、それでも何だか明るい気分になれた。
「ところでアリスはどこに向かってるの?」
唐突にそう切り出すフニ。こちらを向いたままふわふわ浮かんだままかわいらしく小首をかしげる。
「え。どこって……。北に行けば集落があるかもしれないって、そう思ってるんだけど……」
「そっか。っていうか、なんであなたこんな何もない場所にいるの? まあ、アリスがいたおかげで助かったあたしが言うのも何だけど、ここはマナも枯渇した不毛の地よ?」
「マナも枯渇……。だからなのね……」
見渡す限りの赤茶けた砂、土。草木も生えない不毛の大地。マナが枯渇していると言うならそれもわかる。そう思い返す。
マナはこの世界のどこにでもある生命の源だ。
人の魂もまた、マナから生まれたマナの風船のようなものだと教会では習った。
それと同じように命あるものは皆、マナを吸収し成長していくのだから。
「わたしね、追放されちゃったの。だからしょうがなくって。何とかこの地で生きながらえるためにと思って集落を探しているのよ」
「まぁ。あなたみたいな貴重な聖女を追放するだなんて。そんな追放されるような悪いことするようには見えないけど、何かしたの?」
「偽聖女だからって……。そう言われて……」
「ほんっとに人間って見る目がないわね! 一眼見てわかるわ、あなたが聖女だなんてことくらい。それも多分、人の中では最上位。女神にも近い存在だってその身体中から溢れるマナが証明しているのにね? その偽聖女だなんて言った人、バカじゃない?」
「でも、わたし、癒しの術が使えなくって……」
「んー。だってあなた、あたしを癒してくれたじゃない?」
「え?」
「弱っていたあたしが回復したのは、間違いなくあなたのマナのおかげ。キュアがあなたの願いに応えた証。そうじゃない?」
「そう、なの?」
「きっと、具体的な癒しの術の行使の仕方、習っていないんじゃないかな?」
「ううん、帝国の聖女宮でも、色々と先生がついて教えてくれたんだけど、わたしには出来なかったの」
「あ、そうか。あなたは特別だから。だから普通の方法じゃ習得できなかったのかもしれないわ」
「え? どう言うこと?」
「術を習うときって、普通は呪文を教わるんじゃないかな」
「うん。そう。大昔の大賢者マギアスが残したっていうマギアス・コードをまず習ったわ。皆はそのマギアス・コードを心で唱えることで、自分の属性に合った術を発動できるんだってそう習ったのだけど……」
「コードはマナとギアを繋げる媒介だから。普通の人はギアと会話なんてできないもの。だからコードが必要になるの。人はその魂のゲートからマナを放出する際に、そのマナにコードを載せるのよ。そうすることでギアはその行使者の要求を理解し、マギアを発動するわけ。わかる?」
「ええ」
「でも、あなたにはゲートがないもの。ううん、多分あるんだけどゲートがちゃんと開いてないのね」
「ええ? でも、わたし掃除の術とか使えてたけど」
「あはは。それってあなたの身体中から溢れるマナを直接ギアに祈って使ってただけでしょう? あたしを癒してくれた時も一緒。あなたの祈りが直接キュアに通じたのね」
ゲートがない!?
それって絶望的な状況なんじゃないかしら……。
フニは自分のことを聖女だって言ってくれたけれど、聞けば聞くほど自分には才能がなかったんだって気分になって。
「まあ。何を泣き出しそうな顔をしてるの? アリスには似合わないわ。あなたには笑顔の方が似合うわよ?」
「だって、フニ。わたしにはゲートが無いんでしょ……? それじゃぁ他の人みたいにコードは使えないってことなんでしょう……?」
溢れそうになる涙を堪え、何とかそれだけを言葉にする。
「バカねアリスったら。あなたは特別だって言ったのに。あなたにはゲートなんか必要ないのよ?」
「だって……」
「もう。泣かないで。そのうちちゃんとわかるから。あたしの言った意味。今は、わからなくっても大丈夫だから。あたしを信じて?」
「フニ……」
その手のひらのにくきゅうでほおをぬぐってくれたフニ。
そのあたたかさに癒され、少しだけ気持ちも上向いた。
「ありがとう、フニ……」
「ふふ、そうよ。あなたは笑ってる顔の方が可愛いわ。さあ、気を取り直してもう少し頑張って行くわよ? この先もう少し行った先に、人里が合ったような気がするのよね」
確かに。日が落ちる前に何とか人里に辿り着きたい。そのためにも頑張って歩かなきゃ。
顔をあげ、歩みを進めた。落ち込んでる暇はないわ。そう自分に言い聞かせながら。
◇◇◇
レインと初めて会ったのは、エルトリアの村で雨を祈った時だった。
キャレドナは雨の降らない地だったから、その雨は村人たちにとってはとても珍しい恵みの雨となった。
シンシンと降り注ぐ雨。
それはいつまでも続くように思えた。
「ねえこれっていつまで降るの?」
「わからないわ。ギア・ウエザー? わたし、まだその子とお話ししたこと無かったと思うのに」
「そうねえ。ウエザーは太古の昔に眠りについたはずだったもの。大昔はね、この世界を癒すために頑張ってくれたのよ。サン、クラウド、レイン、グラキエス。その四人のギア・ウエザーが天空に満ちていたの。昔の話ね」
「でもじゃぁどうして?」
「レインが起きたのかな、たぶん、あなたのマナに反応して出てきたのかと思うけど」
「そっか。じゃぁそのレインに頼めばこの雨はやむのかな?」
「聞いてみる? レインに」
「ええ。試してみるね」
両手を合わせて天を仰ぐ。
ここには天井があるけれどギアにとってはそんなものは邪魔にもならなかった。
意識が、ずーっと空高くレインの在るところに向かっていく。
「レイン、レイン、お願い」
そう祈って。
「もう、いいの? もう、悲しくない?」
そんなレインの声が聞こえた気がする。
「ええ、ありがとうレイン。あなたのおかげで心の中にあった悲しい気持ちが洗い流されたような気がするわ」
そう応えると、ふんわりと青い髪を靡かせた美女が、こちらに向かってニコリと微笑むようなイメージが見えた。
(レイン?)
今まで、キュアやアークにしたってそんな人の姿のようなイメージは見えたことが無かったのに。
そう驚いて。
「久しぶり、レイン。ありがとうね」
「フニ。久しぶりですね。あなたは相変わらず?」
「ええ。あたしはこの通り。レインはどうして起きたの?」
「ふふ。それは、まあね。この子のマナがあまりにも気持ちよかったから、かしら」
「そっか。やっぱりね。あたしもそうよ。もうこの子のそばからはなれられないわ!」
「うらやましいわ、フニは自由だから」
「レインも実体を構成すれば良いのよ。もう、何万年と寝てたんだもの。少しくらい役目を離れても、もう誰も咎めたりはしないわよ?」
「そう? そう、でしょうか?」
「大丈夫よ。デウスだって許してくれるわ」
青い髪の美女、ちょっと躊躇するような顔をしたあと、イタズラっぽい笑顔になって。
「フニがそう言うなら、いいのかも。じゃぁちょっと」
驚いて、ただひたすらその顛末を眺めていた。
途中でなんども口を挟もうとしたけれど、できずじまいで。
ただなんとはなしに、それらを当たり前のように自然に受け入れている自分自身をも自覚していた。
フニのことも、レインのことも、ずっと昔から知っていたような、そんな不思議な感覚を味わって。
青いモヤのようなものがふんわりと目の前に現れたと思うと、それはだんだんと人の形になっていき。
次第に輪郭も現実のものとして現れてきた。
そして。
数刻も経たないうちに、そこには先ほど見たイメージと寸分違わない青い髪の美女が立っていた。
クリーム色のキトン、布をすっぽり被ったようなワンピースを着て腰のところを紐で縛っただけの、そんな姿。
「ふふ。よろしくねアリス」
「え? え? レイン、さん、なんですか?」
「そうよ。雨の精霊、マギアのレイン。あなたのそばにいるバアルの上位存在、みたいなもの、かな?」
「そそ。アリス。あたしたちマギアはギアの上位個体なの。だからこうして実体を持てるのよ。すごいでしょ?」
フニがそうえへんと自慢するような格好で言う。
「よろしくおねがいします、レインさん。アリスティアです」
彼女たちの言うことは、驚きはしたけれど心の奥底でちゃんと理解できた。
「これからよろしくね、あなたのそばは心地よくて、ずっとそばにいたいわ」
◆◇◇◆◇◇◆
「なぜだ! どういうことなんだ!」
王太子レイクフッドの執務室に、彼の怒号が響き渡る。
萎縮してしまい項垂れる側近たちを順番に睨みつけ、再度怒鳴りつけるレイクフッド。
「私はどうしてこんなことになっているのかと聞いている!」
「恐れながら、殿下。昨今のこの気候のせいで農業生産量が著しく落ちています。手は打ってはいるのですが、難しく……」
「だから! どうしてこんなことになっているのかを聞いているのだ!」
「申し訳ありません。曇天が続くものの雨が降らずという天気がここ半年に及びましては、もう人の手で打てる対策も限られてしまっております。川の水も生活用水分ほどしか無く農地に送るには足りなくなってしまっています」
「なんとかならないのか!」
「このような天候が続く以上、国内の農産物の実りを祈ることも難しく、他国への支援要請が必要であると……」
曇天によって気温が下がり、農作物の生育が危ぶまれていた。
まだ昨年度の蓄えがあるとはいえ、このままでは食糧不足になりかねない。
日照量少なさは人々の健康にも影響を及ぼしはじめていた。巷では疫病が蔓延し、薬事院にも薬を求める人が行列を作っている。
病人の多さに教会の聖職者たちも不眠不休で対処にあたっていたが、病の広がりが治る気配は見せなかった。
幸いにも重症患者はそれほど多くもなく、街が死者で溢れるようなところまではいっていなかったけれど、それも食糧難が訪れてしまえばどうなるかわからない。
「これでは……、不毛の地キャレドナと同じではないか……」
不毛の地、人類域の外であるキャレドナ。ブリガントはそんなキャレドナとの境にある国だった。
頼みの聖女カトリーナも、あまりにも病人が多いせいかすぐにマナ切れを起こしてしまい役に立たない。
最初に見せてくれたあの広範囲を癒す術も、あれ以来発揮できないという。
「ここの地は帝都に比べマナが薄いのですもの。しょうがないではありませんか」
そう言い放って省みるそぶりも見せない聖女カトリーナ。
確かに、ここは人類域最北端の地。国境のすぐ向こうはマナが枯渇した荒地だ。
そういう意味では「マナが薄い」というのも事実なのだろうとそう考えるしかない。
しかし。
帝都にも援助を乞うた。
しかし、「その地にはすでに聖女を二人も送っている。これ以上の支援は難しい」
という回答が返ってくるだけ。
そのうちの一人は役立たずだったではないか!
そう腹立たしくは思うものの、まさか帝国聖女庁所属の聖女アリスティアをこちらの勝手な都合で追放したなどと、そんな報告もできるわけもなく。
せめて食糧支援をとの信書に返ってきたのは、枢機卿を送るとの返答のみだった。
「聖女アリスティアに面会したいのですが」
帝都より遣わされた枢機卿マイク・リーべの第一声は、それだった。
「いや、アリスティアは……」
「具合が悪いのでしょうか? いや、あれに限って病に伏せるなどあり得ないが……」
「それは、どういう意味でしょう?」
「いえ、レイクフッド殿下、聖女アリスティアの加護があればあれ自身が病にかかるなど考えにくいので、というだけの話です。彼女の加護とその溢れるマナがこの地にあれば、このような天候が続くなどあり得ないのですよ」
「な……」
マイク・リーべの言葉に唖然とするレイクフッド。
「もともと、この地にあれを送ったのも、あれの特殊な体質と豊富に溢れるマナを利用しこの地を安定させるためでした。本来この地ブリガントは人類域の端要の地。マナが枯渇したキャレドナの防波堤としての役目を負った国として、帝国聖女庁としても代々それなりの聖女をこの地の守りとして使わしてきたはずだったのですが……」
「どういうことですか!! では、聖女カトリーナは!? 彼女こそ本当の聖女ではないのですか!?」
「カトリナはもちろん優秀な聖女ですよ。帝国としてもこの地の重要性を理解しているからこそ、アリスティアを補助する意味でカトリナをもこの地に送ったのです。カトリナは自身に内在するマナはそれほど多くはないですが、周囲にマナが豊富にあれば十分役に立つ聖女ですから」
カトリーナがいう「この地はマナが薄い」という言葉はそういう意味だったのか。
レイクフッドはやっと合点がいったとばかりに頷くと。
「しかしそれならばなぜそんな大事なことを教えてくれなかったのだ……」
そう吐き捨てる。
「ふむ。国王陛下は病にふせっていると聞いていましたが、あなた、アリスティアをどうしました? まさか、もうすでにアリスティアが亡くなってしまったなどというわけではありませんよね?」
「アリスティは……、ここには居ない……。出ていってしまった……」
「どういうことでしょう? あれが勝手にこの国を出奔したとでも?」
「いや……」
「ふむ。あれが他の国に移動しているのであれば、その国はかなりの確率で好天に恵まれ食糧生産も潤っていることでしょう。ですがこの周辺国でそのような噂は聞きませんが……」
顔を伏せ黙り込んでしまったレイクフッドに、ズッと詰め寄るマイク・リーべ。
「どういうことか、説明してくださいますね? 殿下。あれは帝国聖女庁のもの。ぞんざいに扱うことは許されない。そう国王陛下にも念押ししておいたはずだったのですがね!?」
◆◇◇◆◇◇◆
「もう、アリスったら。そんなにグラキエスを困らせるもんじゃないわよ。まあ、あなたの気持ちはわかるけどね」
「フニ」
「そうね、なんならわたくしが洗い流してあげましょうか?」
「レイン姉様も……」
北の果て、氷雪の魔王グラキエスの邸宅。
人里の喧騒からのがれたどり着いた安住の地。
わたしはここで精霊フニ、精霊レインと共に暮らしていた。
途中、キャレドナの地で人里に紛れ暮そうとしたこともあったけれど、そこでもわたしの特殊な力ゆえに喧騒から逃れることができなくて。
追放されてたどり着いた村エルトリアでこの地の人々の生活を知った。
石造の家には小さなかまどが設られ、そこに備え付けられた魔石が炎をおこし、燃料件暖房の役目をはたしていた。
緑の少ないこの地では、タキギの材料となるものは少ない。かといって他に燃料となるものにも乏しかった。
唯一、地の底に埋まっている魔石を掘り起こし、それを活用することができたのは僥倖だった。
世界の根幹たるエーテル。そのエーテルが変質したマナ。そして、マナをさらに凝縮し、変化したものが「魔」と呼ばれる。そう、マナと魔は水と氷のような関係だと思ったらわかりやすいかもしれない。
マナは全ての命の源であり。魔は命にとっては毒となる。
全ての生命はマナによって育まれる。
いや、人の魂、精神でさえもマナでできた風船のようなものなのだから。
そんな聖なる命に相対するのが魔獣、魔人といった存在だった。
彼らは命を持たない。いや、命を超越しているといった方が正解か。
その存在は、魔、というエネルギーに満たされて、その体内には魔が凝縮したもの、いわゆる魔石とよばれるものを持つ。
そう。
基本魔石というのは、魔獣が体内で魔を凝縮精製して作られるもの。
一般的にはそう考えられていたのだった。
しかし。
このキャレドゥナでは少し事情が違った。
何もない、荒地の、異端の地キャレドゥナでは、地下から魔石が採れたのだ。
強い魔は命を蝕む。当然魔石の採掘には命の危険が伴うことから、帝国の民はみな魔石採掘を厭い、それを推し進める者も居なかった。
それもあって皇帝ラグナシアスはこの地を帝国内、人類域におさめることを諦め。
しかし魔石の有用性には抗えず、少数の罪人を送り込みその命を糧に魔石を掘らせたのだろう。
罪人としてこの地に送り込まれたものにとっても、魔石は生きていくために必要な物だった。
どのみち、魔石を採掘しなくては生きてはいけない、そんな何もない土地だったから。
男たちは魔石を掘りに、女たちは芋や豆を育て。
たまに沿岸沿いに訪れるガリアからの商人と魔石と日用品や食糧との交換。
襲ってくる野獣を狩ってその肉や毛皮を得て。
魔獣が現れればやり過ごすか、倒せる程度の相手なら総員がかりでなんとか倒す。
そうやってなんとか生きながらえてきたのだった。
質素ではあったけれど、それでもなんとか生きていける。
わたしもそんな生活に、ちいさな喜びを感じていた。
人々はわたしのことも、優しく受け入れてくれた。
笑顔を向けると皆も笑顔で返してくれる。そんな心地よい空気が溢れていた。
「おねがい、おいもさん、美味しく育ってね」
畑仕事をするたびに、そう苗に向かって祈る。
「この間の雨のおかげかね。芋も豆もよく育って豊作だよ。あんたのその祈りも神様がちゃんと見ていてくださるのかもしれないねえ。ほんとありがたいことだよ」
順調に育つ苗を前に、村の女性たちは「今までとは違う、何か」を感じてくれていたのだろうか。
いつしか「神様が遣わした『巫女』じゃないか」と、そう冗談めかして口にするものが現れ。それは他の村にも伝わったのだろう。村同士の諍いに繋がってしまって……。
わたしの小さな幸せは、終わってしまった。
人々がわたしをめぐって争うようになってしまったから。
もう、村にもいられなくなってしまったわたしは、フニやレインと共に、さらに北を目指した。
南に行けば人類域がある。わたしを追放したあの人間の国、ブリガントが。
海を渡ればガリアの地がある。でも、そこも帝国の内。
このまま帝国の地に戻っても悲しい思いをするだけ。
だったら、もういっそのこと人のいないところに行こう。
そう思って歩く。
フニも、レインも、そして、旅の間になついてくれて一緒についてきてくれる銀狼の一家、ギンにマムに子供のシロも。
うん、きっとこの子たちと一緒なら寂しくはないわ。
そう思って、歩いた。
曇り空はどんどん晴れていった。明るい陽光に照らされ、ここが不毛の地だとは思えないくらいな陽気に包まれ。
「ふふ。アリスったら悲壮感のかけらもないのね」
「そうね、すっごく笑顔だもの」
フニとレインの二人も、笑みを浮かべそう言ってくれる。
「だって。わたし、今ほんとに幸せなんだもの」
「人里からは離れなきゃならなかったのに?」
「うん。だって、フニもレイン姉様も一緒だもの」
「そうね。うん。だいじょうぶよアリス。あなたのことはあたしが守ってあげるわ」
「もうフニ、わたくしだっているのよ。アリスちゃんはわたくしがちゃんと守ってあげるから安心してね」
ねこのような姿のフニ。青い海のようになびく髪のレイン。
精霊であるそんな二人にも本当に感謝している。
人間の社会では結局まともに生きられなかったわたしを、人間の社会では結局うまくできなかったわたしを、こうして大事に想ってくれるそんな二人のことが、愛おしいくてしょうがないから。
誰かの役に立ちたい。そう思って生きてきたけど、それって結局役にたつ自分であれば捨てられないから、そんな卑屈な気持ちだった。
でも。
結局人間の世界にわたしを本当に大事に思ってくれる人なんかいなかった。
捨てられて、追放されて、わたしがどんなに悲しかったか。辛かったか。そんな気持ちをわかってくれたのは、フニとレインだけだった。
だから……。
エルトリアの村の人たちは優しかった。だけど、やっぱり違うの。
わたしのことを巫女だとか言って敬ってくれたけど、やっぱりどこか距離を置かれてた。
そんな中、人間の村同士でわたしのことを奪い合うようになってしまったら、やっぱりもう同じ場所にはいられない。そう思ってしまった。
人の誰もいない場所で、ひっそりと暮らしていこう。
そう思ってただただ北を目指して。
そしてここ、グラキエスが治める最果ての地にたどり着いたのだった。
◇◇◇
「だいたい、アリスは無謀すぎるんだよ。君は自分が危険な目に遭うことに、無頓着すぎる」
「だって、グラキエス……」
「初めて会った時もそうだった。魔族と対峙しているっていうのに、自分の危険なんか全く考慮もしないで周りのことばっかり心配して」
「だって、わたし、ギンやレイン姉様が危険な目に遭うなんて耐えたれなかったんだもの」
「あいつは俺の配下の中でもかなり強い魔族だったから、本気で反撃されていたら君の命だって危うかったんだよ。それなのに君ときたら、自分のことはそっちのけで周りへの回復魔法を放つばかりで……」
「だって……」
「俺が君に気づかなかったらって思うとゾッとする。レインやフニもそうだ。なんで最初っから俺を呼ばなかったんだよ」
「だって、グラキエスが起きてるだなんて思ってなかったんだもの」
「そうよね、ましてや魔王になってるだなんて、ほんとびっくりだったわ」
「アリスのマナを一目見てわかった。君は俺の大好きなあの人の生まれ変わりだって。君が覚えていなくってもいい。もう二度と君を失うもんか」
北の大地で魔族に囲まれた時にはもう死ぬのも覚悟した。せめてみんなは助けなきゃと回復魔法を飛ばしながら最大級の浄化魔法を放とうとした時だった。
目の前が一瞬、時が止まったかと思うように凍りつき、魔族とわたしたちの間に氷の壁ができていた。
漆黒の髪を靡かせ、わたしの目前に降り立ったグラキエス。
その黒い瞳に見つめられ、わたしの心の奥に彼の名前が浮かぶ。
「グラキエス……?」
思わずそう口に出ていた。会った覚えはなかったはずなのに。今世でこんな美丈夫、見たことなかったはずなのに。
「ああ……。よかった……。間に合った……」
そういうと、わたしをギュッと抱きしめる彼。
触れた肌が、心地よく。
まるで、魂の奥底で繋がっていた半身と触れ合っているかのように、思えたのだった。
そうして彼のこの邸宅に案内されたわたしたち。
彼が言うには、わたしは彼の恋人だった、と言うことらしい。
もちろん前世の話。
そんな記憶はない、けれど。
覚えているわけ、ではないけれど。
心の奥底で納得してしまったわたし。
彼と一緒にいると、心地よい。
フニやレイン姉様がわたしといると心地いいと言ってくれた意味がなんとなくわかる気がした。
彼のマナは、とても心地良い。その声も、吐息も、ずっと近くにあったかのように、自然と受け入れられて。
「だから、君があいつらの前に出ていくだなんてこと、許すわけにいかない」
「ダメよ、グラキエス。それじゃぁあなたが危険だわ。帝国を甘くみたらだめ。敵に回したらだめ」
「うーん、アリス。だからってあたしもあなたを危険に晒すのは反対よ」
「それでも。わたし、ただ逃げ回るのももう嫌なの。大丈夫、これでも随分チカラの使い方も覚えたのよ」
「そっか。レイクフッドっていたらアリスにとっては因縁の相手だったっけ。あいつらに一言いってやりたいって思うわよね? ねえグラキエス、アリスのことはあたしたちで全力で守りましょう? 正直なところ、人間にはここまで攻め込んでくることも難しいと思うのよ。だからいざとなったらここに立て篭もるのでもいいわ。だから、アリスが行って追い返せるのならそれに越したことはないんじゃないかしら?」
「ふむ。そうか、なら。アリスは絶対に危険な真似はしないこと。これだけは守ってくれ。もちろん君のことは全力で俺がまもる。どうしてもあいつらが引かない場合は全てを氷つかせてでも退ける。いいな?」
「もう、グラキエスったら。まあ、いいわ。いざとなったらわたしだってみんなをまもれるように頑張るんだから」
◇◇◇
真っ赤な夕陽、赤茶けた大地の上に大勢の人の姿があった。
荒地を進む軍勢は、その人数を賄うだけの食糧や水をも必要としていたせいか、隊列の歩みは遅く未だ人の住む村にも辿りついていなかった。
「間に合ったわね」
「ええ、フニ。エルトリアの村に被害が出る前でよかった……」
ほっと胸を撫で下ろし、地面に降り立った。
空間を転移しエルトリアの村のそばまで跳んできたわたしたち。
そのまま宙を行き軍勢を見つけて。
「それでは俺がまず声をかけよう」
グラキエスはそういうと、彼らにむき直り大声で叫ぶ。
「人間ども! この地、キャレドナになんの用だ! ここはお前らの来る場所ではない! 立ち去るといい!」
声を増幅する魔法でも使っているのか、グラキエスの声は低く響く。
その声が聞こえたのか、ブリガントの軍勢は歩みをとめ、こちらを注視している様子だった。
しばらくゾロゾロと人が行き交う様子があったと思うと、先頭に王家の旗を持った騎馬に囲まれて王太子の姿が見える。
「そこにいるのはアリスティアではないか!? 私だ、君の婚約者レイクフッドだ! 心配していた。どうか戻ってきてはくれないか!」
え?
どう言うこと?
彼は、今更、何を言っているの?
「婚約は破棄されたはずでしょう? レイクフッド様はわたしを偽聖女だっておっしゃって、追放されたじゃないですか!」
思わずそう叫んでいた。
その声も、グラキエスの魔法によって向こう側にも届いたのだろう。
「それは誤解だ。君が本物の聖女であるのなら、話は別だ」
「誤解だなんて、実際にわたしはあなたにこのキャレドナに追放されたのですよ?」
「だからそれは手違いなのだ。だからこそこうして捜索に来た。迎えに来たんだよアリスティア」
今更、何を……。
そうは思うものの、呆れて声が出ない。
「大丈夫? アリス」
「お顔がこわばってますわよ?」
「お前は、笑顔の方が似合ってる。あんなやつ、笑って振ってやれ」
「そうよ。アリス。あなたはもう自由なのよ。だから、あなたが好きなようにしていいの。あんな人の言葉に惑わされる必要なんてどこにもないんだから」
「フニ、レイン姉様、グラキエス……ありがとう」
わたしが小さく呟くと、三人は安心したようにうなづいた。その仕草があまりにも温かくって、胸の奥がじんと熱くなる。わたしは一歩、前へと踏み出した。
前にいる軍勢とはまだかなりの距離がある。先頭にいるのがかろうじてレイクフッドであるとわかるけれど、増幅魔法がないと声も届かない距離だ。
だから今の会話はきっと彼らには届いていない。そう思うと少しだけおかしくなった。
風が静かにわたしの銀の髪を揺らすのがわかる。
背後には、フニもレインもグラキエスもいる。ギンもマムもシロもいる。
そう。もうわたしは一人じゃない。あの日、全てを奪われたように感じていたわたしとは、もう違う。
ふっと、笑みを浮かべて正面を見据える。
「レイクフッド殿下。わたくしはもうあなたのもとには戻りません」
自分でも驚くほどはっきりとした声だった。
凛とした響きが、グラキエスの魔法に乗って遠くの彼らのもとに届いたのがわかる。
「アリスティア、それは一時の感情から出た言葉だろう? 君の立場を考えれば——」
「立場? そうですね。偽聖女として追放されたわたくしに、どんな立場があるとお考えなのですか?」
レイクフッドが明らかに狼狽しているのが、わかる。
「わたくしが聖女であるなら利用しよう、そう思ったのはわかります。それでももう、あなたたちのために祈ることはありません。もう、わたくしの力は——わたくし自身と、大切な人たちのために使うと決めたんです」
狼狽し黙り込んだレイクウッドを押し除け、誰かが前に出てきたのがわかった。
あれは……、帝国の枢機卿のマイク様?
「バカなことを言ってないで戻るんだ、アリスティア。お前を聖女として保護し、育ててやった恩を忘れたのか!」
あれは……。帝国にいた時にわたしの面倒を見てくれていたマイク様。一時は本当のお父さんのようにも思って懐いていた時期もあった、けれど……。そんなわたしをブリガントに送ったのも、またこのマイク様、だった。
あの時は随分裏切られたような気持ちになって。
それ以降、期待をするのをやめたのだったっけ。
わたしに利用価値があるから、大事にしてくれるだけ。
そう理解したのはあの時が最初、だった……。
「大丈夫だよアリス。君には俺がついてる」
グラキエスが手を握って、耳元でそう囁いてくれた。
瞬間、心の中で何かがふわっと開いた気がした。
閉じていた魂のゲートが開く。
心の中に溜め込んでいたマナが、花が舞うようにひらひらと溢れていく。
背後で、ふうわりと淡い光が立ち上がり、それは羽のように広がるとわたしの体をゆっくりと宙に浮かせる。
「綺麗だわ。アリス」
耳元でフニが囁く。
「だから言ったのよ。あなたの力は女神に匹敵するって」
その言葉を聞いた時、心の奥底の扉が開いた気がした。
溢れ出す、キオク。
グラキエスとの懐かしい思い出。
「女神……」
マイク様のそんな声が、増幅魔法によって聞こえてきた。
そう、わたし、ううん、わたくしは……。
「わたくしは、女神アルティアの生まれ変わりです」
はっきりと、そう自覚した。
「巫女でも、聖女でもなく……本来、わたくしはこの地を見守る存在だったのです。それを思い出させてくれたのは、グラキエス、フニ、レイン姉様……そして、旅の中で出会った人たちでした」
その瞬間、グラキエスがわたしの前に立った。肩に氷の剣をかけ、鋭く冷たい眼差しでマイク枢機卿とレイクフッド王太子を睨む。
「これ以上アリスを侮辱するなら、この場で凍てつかせる。お前らのその虚飾に満ちた正義ごと、な」
グラキエスのその挑発を聞いたレイクフッドが剣に手をかけようとした刹那、わたしは一歩前に出て、まっすぐに彼を見つめた。
「それ以上、動かないでください。わたくしは……争いがしたいわけではないのです」
そっと手を組む。心から祈るように。
集まっていた魔力が優しく解き放たれ、柔らかな光となって軍全体を包み込んでいく。
レイクフッドは歯を食いしばりながら、わたしをじっと見つめた。
「……君は、変わったな」
「ええ。変わったんです。もう、わたしは『誰かのための器』じゃない。わたしは、『わたし自身の生き方』を選ぶと決めました」
しばしの沈黙のあと、彼はゆっくりと剣から手を離す。そして、兵たちの方へと振り返り、低く命じた。
「……退却する。全軍、戻るぞ」
軍が静かに撤退していくのを、わたしはただ見つめていた。そこに残されたのは、赤く染まる夕陽と、わたしたちの間を抜けていく穏やかな風だけ。
「アリス、よく頑張ったね」
「うん。すっごくかっこよかったわよ、アリス」
「お前はもう、立派な“世界の光”だ。……俺の、愛する光だよ」
わたしはふっと笑って、彼らの方へと振り返った。
「ありがとう。みんながいたから……わたし、ちゃんと自分の言葉で言えた」
赤い空の下、わたしの銀の髪が夕陽を受けてやさしく揺れた。
◇◇◇
それから、季節がひとつ巡った。
赤茶けたキャレドナにも少しだけ緑が芽吹き、まだ風は冷たいけれど春の訪れを感じさせて。
極寒の地にあったグラキエスの邸宅も、かつての冷たい孤城の印象からはすっかりと変わっていた。
風通しの良いテラスには色とりどりの花が咲き、フニがどこからともなく寄せ集めてきた小物やクッションが散らばって、まだまだ子狼のシロがそこを元気良く駆け回っている。
「ふふ、シロったらまたお花踏んで……マムに怒られちゃうわよ」
腰をかがめてシロの頭を撫でると、シロはくるっとしっぽを振ってじゃれついてくる。
「アリス、スープできたわよー。今日はエルトリアの村からもらった野菜使ってるの。食べなきゃ損よ?」
フニの元気な声が、風に乗って届いてくる。彼女はすっかり料理好きになり、毎日のように新しいレシピを試していた。
「わたくしも手伝いましたのよ? 盛り付けは芸術よ芸術。ね、ギン」
レインが胸を張って言うと、銀狼のギンが「ふぁん」と優しく鳴いた。
「ありがとう。あとでグラキエスも呼んでこなくちゃ」
彼は今、この地に住まう魔族たちに人と共存する術を教え込んでいる。
争うのでもなく、敵対するのでもなく。穏やかに過ごせるようにと。
以前のように追われることも、恐れることもない日々。 雨を降らせ緑を増やし、狼たちと野原を駆け、聖なる力で村の人々の畑を少しだけ潤し——誰の命令でもない、自分の「したいこと」だけを選びながら生きる日々。
「ねえアリス」 フニがいつものように肩にのっかかって。
「このまま、ずっとこうしていられたらいいね」
「ええ。わたしもそう思うわ」
レインがカップを両手で包みながら微笑む。
「でもそれはきっと、“ただ願っただけ”じゃ叶わないこと。だから、わたくしたちが守るのよ。この日常を、そしてアリスの笑顔を」
「うん。そうだね……ありがとう」
グラキエスの姿が、遠くから見えてきた。ゆっくりとこちらに歩いてくるその姿に、自然と微笑みをこぼして
◇◆◇
大切な人たちと一緒にいる時間。 それが、どれほど温かく、どれほど幸せなものか——過去の悲しみがあったからこそ、深く感じられるようになった。
どこにも属せなかった「聖女」は、ようやく居場所を見つけたのだ。
それは、世界の果てのような場所にある、小さな奇跡。
そしてきっと——これからは、誰かを救うためではなく、「共に生きる」ための魔法が、彼女の手から生まれていくのだろう。
金色の風が、丘を撫でた。
その風に乗せて、アリスは今日も、穏やかな笑みを浮かべて——
Fin