No.3 感情
この世には対峙してやっと見えてくるものが山程ある。きっとこの現状もそれに当て嵌るのだろう。
前に踏み出したはよいものの、今目の前の居るのは恐ろしい能力持った存在である。少年が立ち向かったところで到底叶う様な相手では無い。
これが社会から迫害を受けた者、有力者が故に追放された者、『発現者』なのだろう。
いまこの場で、律は人生で初めて発現者と対峙した。しかし、恐怖に臆することは一切無かった。
それよりも身を焦がす程の怒りが身体を前へ前へと動かしていた。
「お団子はいいよ…。お団子。美味しいよね。お団子。」
俯きながらボソボソと何かを呟き続ける謎の男。LeəЯその様子を見つめた後、少年の方へゆっくりと顔を向けた。
「…律さん、それ以上近づくのは勝手ですが、怒りに身を任せてはいけませんよ。」
「分かってる。俺は至って冷静だよ。」
そう言いつつも少年の脚が止まることを知らなかった。それを見兼ねたLeəЯは少し考える素振りをしたかと思えば、律対して次のように問い掛けた。
「……律さん、感情を何かに例えるとするならばなんだと思いますか?」
「…急になんだよ。」
あまりにも突拍子のない問い掛けに律は思わずその場で足を止め、いつの間にか視線も男からLeəЯの方へと向けられていた。
ギリリリリリリリリリッ!!!
突然の出来事であった。少年の視界から男が消えた途端、謎の轟音が辺りに響き渡った。
その音はまるで硬いもの同士を無理矢理擦れ合わせたような聞き苦しいものであり、反射的に耳を塞ぎ目を閉じてしまう程の痛烈なものであった。
「……お団子になれば良かったのに。」
轟音に続けて聞こえてくる男の不気味な一言。恐る恐る男の方へと改めて視線を移すと、不自然に捻れ曲がった木々や男の姿がそこにはあった。
そして、少年は直ぐにその違和感に気が付いた。あの男や木々が曲がっているのではなく、歪んだ鏡を通して見た景色のように、曲がって見えているだけだということに。
そして実際に、いつの間にか少年の目の前には大きなレンズのようなものが現れていた。しかもそれはレンズなんていう生易しいものではなく、まるで空間自体が歪んでいるように見える。
「律さん、正しい考察ですよ。」
「ぅえ?!だから思考読むなよ!ちょっと怖いんだよそれ!」
「…年の功というやつですよ。」
「ほんとにそれで済むことなのかよ…。」
この時、律は驚きながらも内心LeəЯに感謝していた。あのまま先走っていれば、多分今この場に立ってすらいられなかったのだろうと思ったからであった。きっと先程の轟音の正体もこの目の前のレンズのような敵の攻撃と、LeəЯの何かしらの能力がぶつかりあった音で、今も尚その力は拮抗状態にあるのだろう。
「…先程の私の質問ですが、まずは私の見解からお話しましょう。」
「あぁ、あの感情をなににたとえるかというやつか。」
この時、再び先程の音が静かに目覚め始め、次第に激しさを増し始める。しかし、そんなことはお構い無しにLeəЯの話は続く。
「…その通りです。」
「…いいですか、律さん、私は感情というものは刃であると考えています。」
「ヤイバ…?」
LeəЯが再び男の方へ指を差す。それに合わせて律も男の方へと向き直す。
すると心做しか男の表情がかなり焦ってるように見える。更に音が過激になるにつれて、目の前のレンズの歪みも徐々に和らいでゆく。
「…はい、刃です。とてもとても危険なね。」
「…しかし、刃というものは本当に危険なものでしょうか。」
少年は思わずキョトンとしてしまう。刃物は危険。至極当たり前のことである。あまりにも突拍子の無い問い掛けに対してついつい言葉を詰まらせてしまう。が、次の一言によって少年はLeəЯの意を理解した。
「…刃は…相手に向けるから危険なのです。」
「…律さん、貴方は先程私に対して威嚇をしましたね。その刃、正に鋭いものでした。」
「あ、それは…。あの、ごめんなさい。」
「…いえ、謝ることではありません。あれは当たり前の感情ですから。しかし、問題はその後です。」
「…私が貴方に落ち着くようにと投げ掛けた言葉。それは貴方をどのようにさせたでしょうか、私の意は叶ったでしょうか。」
いつの間にか少年は言葉を失っていた。理解出来てしまったのだ。LeəЯの伝えたい想いが。
「…そう、その感情がどうであろうと、全ての刃は仕舞いには相手に向けられてしまう。」
「…ならばその刃を危険ならずに済むのか……。」
ピシッ、ピシッ、という硝子にヒビが静かに入るような音が聞こえてくる。辺りを見渡すとその音の主は目の前のレンズであったことを知る。
そして、ゆっくりと確実に拡がり続ける虚空に浮かぶヒビ。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる男。この現状の全てが、今どちらが優位であるかを物語っていた。
「…相手の刃を受け止める為に使えばいいのです。」
そう語り終えた直後であった。
ガシャァァアン!というけたたましい音とともに、虚空に在った歪みは消え去り、男は蒼白とした表情を浮かべていた。
「お団子っ…!なんでお団子ならないんだよっ…!」
「おかしいよ!お団子なれよっ!!」
男の怒号が森中に響き渡る。が、その叫び声にはもはや威圧力は一切無く、むしろ憂いすら感じさせるものであった。
「…喧しい人ですね。私が見解が正しいのであるとするならば、貴方の切っ先はどれほど醜いものなのでしょうね?」
「訳の分からないことを言ってんじゃねぇぞ!」
「よくも俺のお団子をぉ!」
弱い犬ほどよく吠える。これ以上この情景に合う表現があるだろうかと思えてしまう程に、圧倒的差がこの二人の間に存在していた。
「…律さん、それでは実戦といきましょう。」
そう言いながらLeəЯはそっと律の肩に手を置いた。
この時、戸惑いと恐れが動くなと言わんばかりに少年の身体を震わせていた。
しかし、瞳を閉じてゆっくりと大きく深呼吸をすると、LeəЯへその決意に満ち満ち満ちた瞳を見せつけた。
「やる気はあるけど…俺でも勝てる…?」
「…その思考に至れるだけでも良い判断です。」
「…いいですか、感情とは刃です。」
その言葉と共に自然と律の身体中が発火しそうな程に熱を帯び始め、熱い何か身体中を物凄い速度で駆け巡る。
その苦痛とは尋常ではなく、例えるならば液状と化す程に熱された金属が身体中を隈無く駆け巡るかのようなあまりにも耐え難いものであった。
しかし、少年は何故か心地良さを感じていた。別に特殊な癖に目覚めたという訳では決して無く、まるでその苦痛をもたらす何かが、元々身体の一部であったかのような感覚を味わっていた。
「はァ……ハァ…。痛ぇけど…。なんでか…それ以上に…アイツのことが許せねぇって気持ちが…次から次へと湧いてくる……!」
「…律さん、その苦痛は貴方の刃そのものです。」
「…それが貴方自身が望んだ感情なのです。」
苦痛のあまり身体を抱えて悶え苦しむ少年に対して、LeəЯは変わらず落ち着いた声で語り続けた。
「…律さん、貴方が選んだものは燃え盛る感情。全てを破壊し尽くしえる感情。その名も『憤怒』。」
「憤怒……。」
「…そして、その振り翳し方は既に分かっている筈です。」
そう言うとLeəЯは律の手を取り男の方へと掌を翳させながら一言。
「…その想いを口にしなさい。」
その言葉を受けた途端食い縛り軋む歯牙の間から、チリッ、と火の粉が飛び散った。そして次の瞬間、律の身体から高熱の蒸気が溢れ出し、忽ちその熱は周囲の地を焦がす。
「なんだよそれ…!こ…こわぃ…!」
ここまで来てやっと男は事の重大さを思い知らされ、四肢をパタパタと動かしながら慌てふためく。しかし、その時にはもう全ては遅かった。
徐々にその灼熱は一点へと凝縮され始め、果てに少年の掌へと帰還する。そして、いよいよ解放の時が訪れた。
「よくも……よくも武をぉぉぉお!!!」
刹那、律の掌から蒼き閃光が解き放たれ辺りを眩く照らした。そして、その閃光は地面を抉る程の威力を誇りながら男を、木々を、空をも呑み込んだ。
跡に残された木々は燃える間もなく灰と化し、抉れた地面は少年の想いの強さがどれ程のものであったかを物語っていた。
そして、友が為に溢れ出た涙は、感情のあまり一粒も流れることはなかった。