38.愛の挨拶(クライスラー)
「椎木先輩は練習来れないんですかね」
2年になった田上祐一郎は一貴と話している。
「あいつ工学部だからなー。厳しいよな」
「梅香崎先輩は時々来てますよね」
「ああ、彼女は文系だからそこまでじゃないみたいだな」
「一貴先輩も文系ですよね」
「そう。だから時々来れる」
「まさか椎木先輩、定演に乗れないとかはないですよね」
「どうだろう」
「えー。最後の定演なのに」
研究室では、秋良を含めた数人が実験データを見ながら議論している。
取れたデータが想定と違っていたからだ。そもそもの想定が間違っているのか、それともデータがおかしいのか判断する必要があった。
「この時期になって、困ったことになった」
教官も険しい顔をしている。
「実験の手順は問題ない様です」
「機器の不調ではないのか」
「それは、同じ測定器を使っている他の実験では問題ないので、大丈夫です」
「で、あれば、我々の想定が間違っていたという可能性が大きいな。もう一度前提から見直そう」
研究室のメンバーはすぐに確認を始めた。
今日はこのまま日付が変わるまでに終われる目途がつかない。
早く方針を決めないといけない。再度データ取りを行う必要があるためだ。
一つ一つ、計算式などを確認して行く。
「あっ、今の計算式」
「どうした」
「プログラムが間違っています」
パソコンとにらめっこしていた学生が言った。
すぐに周りに人が集まって行く。
「ほら、ここで値を代入するところが、この値と、この値が入れ替わって代入されています」
「あー。確かに」
「すぐ修正して再計算しよう」
「よろしく頼む」
結果はすぐに出てほぼ想定通りとなった。みなホッと胸をなでおろした。
22時を過ぎてようやく解散となった。
今回はラッキーな事にプログラム修正で事無きを得ることができた。
秋良はそーっと玄関を開けて小声で「ただいま」と言った。
予想通り朱音は秋良のエアマットで寝ていた。
起こさないように朱音が用意してくれている夕食を食べ、エアマットの横に座って朱音の寝顔を眺める。
秋良はペットボトルから緑茶を朱音とペアのマグカップに注ぎ、飲み干した。
スースーと寝息を立てて眠っている。
朱音もこのエアマットはお気に入りで、秋良が遅く帰るときにはエアマットに寝ていることが多い。
秋良は朱音の頬に軽くキスをした。
朱音はゆっくりと目を開き、寝ぼけた様子で秋良を見つめる。
「おかえりなさい」
朱音は手をゆっくりと秋良の頭に回し、口づけする。
「ただいま。今日もいつも通りの状況でした」
「毎日大変ね。体を壊さないか心配」
「実験はもうすぐ終わるから。やっと論文に入れそう。君も自分のベッドで休んだほうがいいよ」
「うん。でも秋良の顔を見ないと不安だもん」
「大丈夫だよ。食事はちゃんと朱音が作ってくれたの食べてるし」
「でも」
「前、倒れた時のこと?」
「そう」
「あの頃は食事は食べたり食べなかったりで、倒れた時は受験生の味方のやつ食べることがが多かったかも」
「あれ、補助食品よ」
「ハハハ、とりあえず何か食べとこうと思って食べてた」
「もう、だから心配なのよ。見ておかないと不摂生になるから」
「ごめん。ありがとな」
秋良はそう言うと朱音と軽く口づけた。
「先にや休んでて、お風呂に入ってくるよ」
「はーい」
秋良は風呂から上がると、水を一杯飲み、洗面所へ行き歯磨きを済ませた。
部屋の明かりを消して、朱音の部屋をそーっと覗くと予想通り眠っていた。
「お休み。いつもありがとう」
そう言うと、秋良は静かに扉を閉めた。
秋良はエアマットにごろんと横になり、天井を眺めていた。
ぼうっとしていると1年生の頃からの朱音との事が思い出されて来る。
初めて出会った時、木管五重奏の時、朱音が酔って気分が悪くなった時、クリスマスの時……。
改めて、朱音と出会えた事、そして周りが二人の事を見守ってくれていた事。
すべての事に感謝をした。
そして秋良はいつの間にか眠ってしまった。




