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33/50

33.月の光(ドビュッシー)

秋の強化練習終了後のある日。

 朱音は一人マンションに居る。

 秋良がバイト先の予備校の授業を急遽頼まれ、帰りが遅くなると連絡があった。

 急に体調を悪くした講師が出たため、ちょうど出ていた秋良が頼まれたそうだ。

 遅くなるので、夕食は先に食べておいてとの事。


 朱音は一人で夕食を済ませると、ソファーに座っていた。

 手持無沙汰となり、所在無く過ごしていた。

 テレビをつけてみるが、特別興味もわかず、すぐに消してしまった。

(一人だったときは私はどうやって過ごしていたのかしら)


 一人だと部屋が静かで、広く感じる。

(あーあ。秋良早く帰って来ないかなー)


 すると、茶色い生物が朱音の足元をカサコソと横断した。

 朱音はびくっとして身を縮めた。

「秋良ー、お願いー」

 思わず声が出る。

 が、すぐに「ああ、秋良居ないんだった」事を思い出した。

 自力で何とかするのは無理に思える。怖い。

 その生き物はカサコソと好き勝手に床を這いまわっている。

 その音も姿も聞きたくも見たくもない。

 そしてなぜか視界から消えそうもない。

(なめられてる?)


 朱音はモップがあることを思い出し、さっそく手に取ってドライシートをつける。

 ベランダの窓を開けて茶色い生物を外に出してしまおうとおっかなびっくり格闘を始めたが、朱音の思う方向とは逆に行ってしまう。

 それでもしばらく右に左に格闘していると、外に追い出せた。


 ふう。

 朱音はため息をついた。

 何の気なしにベランダから外を見ると真ん丸の月が空に浮かんでいた。

 青白く輝くきれいな月だった。

 思わず見とれてしまった。

 秋良の笑顔が思い出される。

 しばらく眺めていると、さっきの騒ぎで乱れた気持ちもすっかり落ち着いてきた。


 やがて秋良から授業が終わってこれから帰るとメッセージが届いた。

 ほっとして思わず笑顔になる。


 スマホに着信があり、もう駅を出て歩いている旨と、

『今日はきれいな満月だね』と秋良から。

『うん。すごくきれい』

『朱音もいつもきれいだよ』

『もー。お上手なんだから』

『それに、かわいい』

『どうしたの。褒めすぎですよ』

『どうしたんだろうね。朱音が愛おしくなってる』

『さては私にべた惚れしてますね』

『はい』

 朱音は顔が真っ赤になった。


『さっき、歩いてたらどこかでドビュッシーの月の光を弾いてた』

『その人も今日の月が素敵だと思ったのね』

『そうだと思う。それを聞いてたら朱音の顔が浮かんで来て』

『あらあら』

『ピアノを弾いていた人も誰かの事を思いながら弾いてたのかな』

『そうかもね』

『これまでのいろんな事が思い出されてさ、なんだかジンと来てる。今日の月には何かある』

『私も秋良の事考えてた』

 と話したところで玄関のドアが開き「ただいま」と秋良の声がした。

 朱音は思わず玄関まで駆けて行き、秋良に抱き着いた。

「寂しかった」

「朱音」

 二人はしばらく抱き合っていた。


「お腹すいたでしょ。今用意するね」

「よろしく頼みます」

 秋良は朱音がキッチンで夕食を温め直している間も、朱音を後ろから抱きしめていた。

「今日は俺、どうかしちゃったな」

「火のそばだから、もう終わり」

 朱音は振り向いて秋良とキスをして、そっと秋良の手をほどいた。

 秋良は名残惜しそうにテーブルへ向かう。


「いただきます」

 秋良は用意された夕食を食べ始めた。

「おいしい。いつもありがとうね」

 秋良は微笑む。

 朱音は頬杖して、ふにゃりとした表情で微笑みながら秋良が夕食を食べている姿を見ている。

 お腹がすいていたらしい秋良は、すぐに食べ終わった。

「ごちそうさま」

 そう言うと秋良は食器を片付けにキッチンへ向かう。

 その間に朱音はテーブルをきれいに拭いた。


「あのね、今日ね……」

 秋良が食器を洗い終わっていつも通りソファーに来ると、朱音は話し始めた。

 学校での事、手持ち無沙汰だった事、茶色い生物が現れた時の顛末など、堰を切ったように話し始めた。

 秋良は相槌を打ちながら、うんうんと笑顔で朱音の話を聞いている。

 すると、秋良は不意に朱音を抱いて膝の上に乗せた。

「あっ」 

 朱音は黙ってしまう。

「それで、続き聞かせて」

「ううん。もういい」

 朱音は秋良に身を寄せた。

 秋良の首に手をまわす。

 もう、言葉は要らなかった。


 ベランダの窓の外には二人の事を優しく見守る様に月が浮かんでいた。


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