23.木星 快楽をもたらす者
四月に入り、新入生も入部して、オーケストラは活気がある。
あちらこちらで、新入生のオリエンテーションが行われ、各パートに割り振られている。
今年は弦楽器の経験者が数名いるようだ。
初心者には3年の指導担当がついて、楽器や楽譜について細々指導を行う。
初心者は定期演奏会で1曲演奏できるようになるのが目標となる。
秋良のホルンパートにも経験者が2名入部してきた。
吹奏楽の経験しかないので、まずは楽譜の読み替えを覚えてもらわなくてはいけない。
「先輩。頭がどうかなりそうです」
新入生の田上祐一郎が困惑した表情で言った。
「まあ、慣れだから。何曲かこなせば、普通に読めるようになるよ。これはホルン吹きの宿命だからしょうがない」
秋良は肩をすくめて言った。
吹奏楽でもinE♭の読み替えはできる必要がある。
「オケだとinFで書いてある事の方が珍しいから。移調読みに慣れると、inFで書いてある方が違和感を感じたりする事もあるし」
「そうなんですか?」
「基本的には何の調でもありだから、ブラームスのシンフォニーでinH(※インハーと読む)があったぞ」
「inH?」
「うん。さすがにinHは読めるようになるのに苦労した記憶がある」
「どうやって読めるようになったんですか?」
「俺の場合は最初の頃は一旦inCで読んでそれから半音下げてた」
「僕はまだinCも読めません」
祐一郎は遠い目をしている。
「大丈夫だよ。慣れだからほんとに。意外と早く読めるようになるもんだよ」
「はあ」
「ホルンはさ、弦楽器や木管楽器みたいに音の数自体は多くないから」
「そう、ですけど……」
「基本は数をこなすことで慣れるから」
「わかりました」
祐一郎は楽譜をじっと眺めては、音を出し、じっと眺めては、音を出ししながら曲をさらい始めた。
今日は『木星』のTUTTIがある。
『惑星』の中で、最も有名な曲で、第四主題は日本語の歌詞がついて歌われている。
ノリがいいので演奏しやすい曲でもある。
おそらく『惑星』の中で最も演奏しやすいのではないだろうか。
inFの曲でもあり、新入団のホルン二人も演奏に加えている。
曲は快楽的な旋律と太陽系最大惑星を思わせる壮大な旋律が再現されつつ進行する。
各メロディにはホルンがふんだんに使われており、なかなかにスタミナとテクニックが必要だ。
「お疲れ!」
秋良は新入生を労った。
「お疲れ様です!」
「どうだった?」
「まだ、必死です」
「うん。だんだんオケに慣れていってくれ」
練習終了後、秋良と朱音は二人で家路へ向かっている。
「今日はホルンの新入生もTUTTIにいたね」
朱音が話し始める。
「うん。あの二人には期待してる」
「早くオケに慣れるといいね」
「そうだね。まだ、音の立ち上がりのタイミングが取れていないみたいだ」
吹奏楽とオーケストラの一番の違いは、当たり前だが、弦楽器の存在だ。
吹奏楽では、ほぼ管楽器なので、音を出す前に皆息を吸う。
しかし、弦楽器の音の立ち上がりはそもそも管楽器よりも速いにも関わらず、発音するために息を吸う必要もない(※あくまで楽器から物理的に音を出すためには、だが)。
吹奏楽の感覚でオーケストラに加わると、音の立ち上がりで弦楽器に後れを取ることになる。
ただでさえホルンは発音が遅れがちの楽器であるので、かなり弦楽器を意識しないといけない。
しかも、ホルンは弦楽器と絡むことが多い。
結局オーケストラ初心者のホルンが特に気を遣うのは、音の立ち上がりを弦楽器に合わせる事だ。
指揮者にもよく入りが遅いと指摘される。
「5月の連休には、帰省するって両親には伝えてあるよ」
朱音が話し始めた。
「うん。ありがとう。ちょっと緊張するなー」
「うふふ。頑張ってね」
朱音が秋良の腕に自分の腕を絡めてくる。
「彼氏連れて来るって言ってあるから」
「うん」
「そういや背広、まだ着れるかな。入学式以来着てない」
「秋良の背広姿見てみたーい」
「そのうち見れるよ」
「楽しみー」
朱音は楽しそうに笑っている。
夕食のあと、朱音はベランダで夜空を眺めている。
「今日は星がよく見えるね」
秋良がベランダに出て朱音の横に並ぶ。
「きれい」
「今さ、木星が衝になってるから明るく見えるよ」
「え?」
「衝っていうのは、太陽、地球、木星が一直線に並ぶこと。明るく見える理屈は要するに月の満月と同じ」
秋良は指を指す。
「ほら、あの明るくて大きく見える星。少しオレンジがかってる。あれが木星」
「あ、わかるわかる。ほんとだ、明るくてきれい」
「木星が大きい星っていうの分かるね」
「ねえ、これってマンモク?」
「マンモク?」
「だって、満月って言うでしょ。木星だったら、マンモクじゃないの?」
(か、かわいい)
「そ、そういう言い方はないかな」
「え、無いの?」
「うん。無い。だから衝っていう言い方する」
「あ、そうなの……。確かに変だよね『マンモク』」
フフフフフッと朱音は笑った。
朱音が、ちょこんと秋良の肩に頭をのせる。
「いよいよ来週だね。実家に行くの」
「ん」
秋良は朱音の肩に手をまわし、抱き寄せるとキスをした。
「どうしてかな。私、こんなに幸せなのに……。不安になる」
朱音が秋良の胸の中でつぶやく。
「心配ないよ」
「うん」
「ねえ、今夜は安心したい。だから……」
「俺も朱音が欲しい」
「秋良……」
秋良は朱音を抱きしめ、唇を犯す。
夜空には満ちた木星がオレンジ色に輝いている。




