21.金星 平和をもたらす者
茜色の空に、宵の明星がひときわ明るく輝いている。
隣の朱音に目をやると、頬がピンク色に染まってとても美しい。
彼女は本当にきれいに、可愛くなった。
秋良はそう思いながら朱音に見とれていた。
朱音は夕日をじっと見つめている。
「そろそろ晩御飯にする?」
結局、秋良が朱音のマンションに転がり込んでいる。
短期間とは言え秋良のアパートで暮らすのはさすがに朱音が気の毒だ。
「そうだね」
二人はベランダから部屋へ戻った。
リビングには秋良の寝床であるエアマットが立てかけてある。今回購入した。
なかなか寝心地が良い。
秋良がバイトや授業などで遅くなる時には朱音が寝ていることもあるくらいだ。
小さなテーブルをはさんで二人で食事を取る。
愛情込めて作られた食事は食べていて幸せを感じずにはいられない。
「私が作ってあげてたたご飯ちゃんと食べてたの?」
「うん。食べてたよ」
「じゃあ。その前までの食生活が響いてるのかしら」
「そうなのかなー。分かんないけど。うん。この煮物おいしい!」
秋良は口の中で咀嚼して飲み込んだ。
「よかった」
朱音がにっこりと微笑む。
食事を終えて食器を片付けた後、席に戻って秋良が話し始めた。
「朱音に負担かけてるようで申し訳ないんだよね。家にまで転がり込んで」
「倒れられる方がよっぽどしんどいわよ! あの時は本当に心臓が止まるかと思ったんだから」
「二人とも死にかけてるね」
「もー。そんな冗談言って。洒落にならないー」
朱音が秋良の二の腕をバンバンとたたいてくる。
「ごめん。ごめん。許してください」
「だめ。ゆるさない」
朱音はむくれている。
「すいませんでした」
秋良は朱音の後ろに回ると両手で抱きしめた。
「……秋良がいなくなるとか、いや」
朱音はか細い声で言った。
泣いている様だ。
「軽口言ってごめん」
秋良は自分の頬を朱音の頭にくっつけた。
「俺も、朱音がいないとか考えられない」
翌日、授業を終えて秋良が練習場へ入ると、
「先輩。おはようございます(※オケの団員も挨拶はこれです)」
フルートの後輩の出雲碧が声をかけてきた。
「おはよう」
「今日は『火星』の初合わせですね! 楽しみです」
「ああ、よろしく」
ふと、視線を感じて振り向くと朱音がこちらを凝視している。
秋良と視線が合うと、朱音は視線を楽譜に落とした。
「相棒、今日はよろしくな」
一貴が声をかけて来た。
「お、よろしく」
秋良と一貴はそう声を掛け合うと曲をさらい始めた。
TUTTIが終了して、練習場はがやがやと騒がしくなっていた。
あちらこちらで、楽譜を指さしながら何か確認したり、さらったりしている。
一曲目から精神的にも、肉体的にもすさまじくスタミナを消費する。
「あー。今日はこれからバイトなんだけどきついなー」
秋良はだいぶ疲れていた。
「先輩! お疲れ様でしたー」
碧が後ろから秋良たちに声をかけて、手を振りながら帰って行った。
「ふーっ」
隣で一貴がため息をつく。
「疲れたな」
秋良が声をかけた。
◆
「ウーン」
秋良は建物を出ると大きく伸びをした。
今日はくたびれた。
「先輩!」
振り向くと碧がいた。
「え。あ。なんで?」
「先輩とお話しがしたくて。だめですか」
「よくバイト先がわかったな」
「こんな有名な予備校すぐ分かりますよ」
「あ、そっか」
秋良と朱音はファミレスで向かい合わせに座り話をしている。
「先輩! 今日はお時間取って頂いてありがとうございます」
碧は明るく振舞っている。
「うん」
「どうですか、『火星』」
「思った以上にタフな曲だった。慣れるしかないね」
「金管はきつそうですね」
「きつい」
「でも、この次の曲が『金星』なのがすごくいいんだ」
「ほっとしますよね」
「うん」
「先輩。私は、無理を承知で言ってます。私は……先輩のヴィーナスにしてもらえませんか」
「……」
秋良はうつむくと
「ごめん」
と言った。
「そりゃ無理ですよね……」
「ごめん。俺の」
「ありがとうございました!」
碧は遮るように言うと、席を立ち、店を出て言った。
◆
「今日は碧ちゃんは練習は早退だそうよ」
朱音が秋良の所に来て言った。
朱音には昨日帰ってから、碧との一件は伝えてある。
「何かあったのか」
一貴が聞いてきた。
「昨日ちょっと……」
一貴は何か気づいた様だ。
周りを見回して、帰ろうとしている碧を見つけると、追いかけて行った。
秋良は目を見開いてその後姿を追った。
そして、朱音の方を見ると視線が合った。
朱音も目を見開いていた。
◆
アルバイトを終えて秋良は朱音のマンションに戻った。
朱音は待ちくたびれてエアマットの上で寝息を立てている。
やっぱり秋良のヴィーナスは朱音以外考えられない。
頭の中で、静かに『金星』のホルンソロが流れ始める。
そこにスウスウ寝息を立てて眠っているヴィーナスは秋良にとってまぶしいほど美しく、そして愛おしかった。




