17.基礎練習
秋良が調子がいいとこうなります。
金管楽器すべて同様だが、基本は3つのバルブを操作して音を出す。
1番バルブは開放(※バルブを押していない状態)から1音分管が長くなる。
同様に2番バルブは半音、3番バルブは1音半長くなる。(※これらを枝管と言う)
また、この3つのバルブの組み合わせも使って、1オクターブ12音(※半音階)の音が出せるようになっている。
秋良の使っているホルンはダブルホルンと言って、もう一つ4番バルブが開放の状態をB♭管にしたりF管にしたりしている。1本の楽器で2本分の機能を持たせている。当然、B♭管、F管用に枝管が用意されている。
要するに3つのバルブを操作して1オクターブ12音出すことになるのだが、当然一つのバルブで複数の音を出さなければならず、それは自然倍音という物理法則に従う。
金管楽器の練習は、ロングトーンやスケール(※音階練習)などいくつも練習内容はあるのだが、秋良は跳躍(※バルブ操作をせずに音を変えること、自然倍音に従う)練習を大切にしている。
結局はミスする可能性が一番高いのは音が跳躍するときだからだ。
今日は合奏も分奏もなく、完全に個人練習となっているので、入念に跳躍の練習をすることにした。
音を出しているうちにだんだんとコンディションがよくなり、秋良の音が本領を発揮し始める。
響きが増して、練習場に秋良の音が満ちてゆく。
ホルンはベルが客席ではなく、斜め後方へ向いている。
つまり、反射音が客席に届く。
ホルンの音の値打ちは反射板や床に反射した後の音ということになる。
もちろん、世界は広く、特にソリストとして活動しているホルニストは反射する前から良い音が出る者もいるし、様々と言えるかもしれない。
だが、オーケストラの中のホルンはやはり反射後の音が値打ちだ。
秋良は反射音が良いのだ。
調子が出てきたので、リヒャルト・シュトラウスのコンチェルトをさらってみる。
こういう個人練習のときは、秋良が本調子になってくると、他のオケのメンバが聞き入ってしまうので、秋良以外の音がなくなることも珍しくないが、今日も他の楽器の音が止んでいく。
そうなったときには、秋良は一旦休憩することにしている。
コンディションは十分仕上がっているということだからだ。
「よく響いてたよ。すごく素敵だった」
朱音が話しかけてきた。
周りでは他の団員が練習を再開し始めた。
「うん。今日は調子がいいみたいだ」
秋良は笑顔で朱音に答えた。
その優しい表情に朱音はハッとして顔を背けると
「れ、練習に戻るね」
と言って、クラリネットの席へ戻って行った。
「うん?」
秋良はぽかんとして見送った。
「今日はどうかしたの?」
秋良のアパートに来ている朱音に話しかける。
「ううん。何もないよ」
「そう。それならいいけど……」
「ねえ。ハグしてほしい」
「お易い御用だよ……やっぱり何かあった?」
「時々不安になるの」
「……何か悩んでるの?」
「もう! あなたが私を不安にするんです!」
朱音は秋良の胸をぽかぽかとたたく。
「え! 俺何かやらかしてる? ごめん」
「今日みたいな顔を他の人が見たら……」
「……あの、すいません、どんな顔ですか」
「知らないっ!」
朱音は秋良の胸を抱きしめた。
朱音も秋良の見せる表情が自分だけに見せるものがあることは十分に分かっている。
それでも、付き合っていることが発覚してからは、秋良の注目度が上がっている気がする。
いや、気のせいではない。
確かに女子の秋良へ向かう視線が増えている。
付き合う前はいっぱいいっぱいで他の人のことなど考えた事はなかった。
でも、今は違う。
自分以外に秋良を見ていた女性はいた。
それが朱音の不安の種だ。
最早秋良を失うなど考えられない。
「なんか。ごめん。不安にさせて」
「ううん。謝ることないよ。私が勝手に不安になってるの」
朱音は秋良の胸に顔をうずめて
「もうしばらく、こうしていさせて」
秋良は黙ってそしてやさしく朱音を抱きしめた。




