始まりのやらかし
「最悪だ……」
煙が薄く漂う部屋で、アオスト・アダマスは呟いた。彼の正面には、絢爛な装飾が施された衣装が、山のように積まれている。その中央部は、立体的に盛り上がっていた。
何故彼が絶望的な表情をしているのか。それはこの衣装の山が、彼の主であり師である魔王、ディヴォルだからである。
現在アオストが居るのは、普段高度な魔術の実験などを行う部屋だ。そこである魔術の実験をし、失敗した。暴発した魔術は、その時偶然部屋に入ろうとしていたディヴォルに当たってしまったのだ。
アオストが実験していたのは、とある変身魔法の一種である。つまりディヴォルは、アオストが想定している姿に変えられ、この服の山の中で気絶しているのだろう。しかしアオストには、現在のディヴォルの姿を確認する勇気が無かった。
兎も角、早急に元に戻さなければ、と、アオストは術式生成用の魔法陣を振り返る。しかし暴発した魔法はあくまで実験として作ったもの。魔術についてはまだ見習いであるアオストには、直ぐに術式を解除するのは難しいだろうというのは、明白だった。視線を魔法陣からディヴォルへと戻す。
さてどうしたものか、と、思考をしているのか、あるいは混乱の末茫然としているのかよく分からない時間が、既に数分経過していた。一先ず分からないなりに試せることをやろうと心を決め、アオストは再び魔法陣に向き直る。
次の瞬間、入口の扉がノックされた。
アオストは光速で振り返る。
「アダマスさん。少々宜しいですか」
その声は、アオスト同様ディヴォルの側近である者の声だった。
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて応えるアダマス。そしてディヴォルを服の山ごと物陰に隠した。ディヴォルは本来、ドラゴンや悪魔、人が混ざったような身体で、巨大な体躯を持っている。しかし今は、アオストが余裕で引きずれるほどの重さになっていた。
「ど、どうぞ」
しっかりディヴォルの姿が隠れていることを確認し、アオストは扉の向こうの存在に声を掛ける。
扉を開いたのは、眼鏡をかけた竜人。名をズメイグという。
「実験中に失礼します。魔王様に用があるのですが、こちらには来ていない……ようですね」
ズメイグは室内を一瞥した。
アオストは一瞬ドキリとしたが、すぐに平静を装う。
「ここには来てないよ。居場所はちょっと……僕も心当たりは……ないかな」
ほんの少し外に漏れる動揺。
幸いなことに、それがズメイグにバレることは無かった。ズメイグは一言礼を言うと、立ち去る。
アオストは胸を撫でおろした。そして隠していた衣服の塊を、物陰から出すために引っ張る。
しかし少し引っ張って、アオストはその手を止めた。表情に一気に緊張の色が戻ってくる。
彼の目には、半分引っ張りだされた衣服の塊が見えていた。中心の山が、少し動いている。
ディヴォルが目を覚ましたのだ。
最早、ディヴォルに気づかれる前に元に戻す手立てを考えるという道は無くなってしまった。彼は今、自身の衣服の山から抜け出ようとしている。出てくるのは時間の問題だろう。
苦渋の表情で、アオストは逡巡した。ディヴォルに大目玉を食らうのは、避けようがない。しかし今なら、まだアオストとディヴォルの間だけで話を済ませられる。ディヴォルの側近達には話がいかずに済むかもしれない。
アオストは、衣服のディヴォルの上に被さっている部分を、思い切って持ち上げた。
突然視界が開けたディヴォルが、う、と小さくうめき声を出す。
その姿は、全身に鱗を生やし、角や翼を付けた禍々しい姿とは一変していた。
十数歳ほどの、男児のような姿になっている。
「アダマス。一体何があった?」
ディヴォルはアオストを見つけるやいなや、そう言った。口調は普段のディヴォルそのものだが、声は容姿相応のものになっている。
それを見たアオストは、思わず目を閉じて項垂れた。そして
「なんでこんな可愛くなってるんだ……」
と、声にならない声で呟く。
残念ながら、アオストが実験していた術式は、彼が望む形になっていた。術の対象を除いて……。
衣服の中の暗闇から抜け出し、視界を確保したディヴォル。徐に自分の胴体や腕を見下ろし手で触れていた。
そしてその時、突如入口の扉が開かれる。
「すみません、アダマスさん。他の者が、魔王様はこの部屋に向かったと言っているので……」
ズメイグが扉から顔を覗かせた。
アオストは扉の方向を振り返り、固まる。見るとズメイグは目を丸くし、現状を凝視していた。アオストは、恐らく自分も同じような表情をしているのだろうと、ぼんやりと考えていた。
この場で動いているのは、ディヴォルただ一人。自身の身体を確かめている。そして再びアオストに顔を向け、
「なるほど、変身魔法か。ここまでやれるとは思っていなかったぞ」
と声を掛ける。
しかしその声は、アオストには届いていなかった。
――
アオストが実験していたのは、魔物を人間の、少年の姿に変身させる術式だった。
なぜ彼がそのような術式を実験していたのか。それは偏に、彼の嗜好故だ。彼はかねてより、特定範囲の年齢の少年が好きという性癖を持っていた。当然、現実の少年に対しそれを表にすることはできない。
そこで彼は、いつか自分も持つことになるであろう部下の魔物を、好みの姿に変身させるということを考えたのだ。現在彼はディヴォルのもとで魔術を学ぶ、ただの見習いに過ぎない。いつとも分からぬ将来を妄想し、ただ実験だけをするつもりだったのだ。
「なるほど……」
経緯を聞いたズメイグは、何かを思案しつつ、眼鏡を軽く押した。
その次にどのような言葉が出てくるのか、アオストはそれを暗澹たる心持で待つ。流石に変身後の姿と性癖との関連は伏せて話したが、間違いなく軽蔑されるだろう。
「経験のない魔法の実践となると、暴発はままあることなので、その点は仕方のないことだと思います。ただ、少々理解に苦しむ点が……」
アオストは頬を引きつらせ、身構えた。
「部下を変身させる為の魔法というのは、それを試そうとする心境も含めてまあ理解ができます。しかし、何故このような非力な形態に?」
「い、いやあ、この姿はなんというか、その……ん……?」
ズメイグの言葉を脳内で処理しきる前に、アオストは口を開く。そして途中で、違和感に言葉が遮られた。
魔物の部下というのは、人の上司と部下という関係とは少し違う。部下となった魔物は自意識こそあれ、従事する者の命令に一定以上逆らうことができないのだ。
人の社会において、そのような存在を幼い子供の姿として欲している、と知られたら、どのような反応をされるか。例え真っ当な理由があったとしても、如何わしい勘違いは避けられないだろう。
しかしズメイグは、非力な形態という点を俎上に載せた。
「あ、ああ、生産性の話なの?」
アオストが確認すると、ズメイグは頷く。
想定外の質問に、アオストは戸惑った。返答に困り、間が空いてしまう。
「まあ、細かい話はいいだろう」
次に口を開いたのは、会話の外にいたディヴォルだった。
ディヴォルは、今に至るまで自身に掛かってしまった魔法についてや、自身の現在の身体についてを調べていたのだ。変身前の衣服は完全に役に立たなくなってしまったので、現在はあり合わせの布と紐で簡易的な貫頭依を作り、身につけている。
アオストとズメイグは、ディヴォルの方向に振り返った。
手を開閉させ挙動を確かめながら、ディヴォルは二人の傍に歩み寄る。
「一つ、面倒事が判明した」
「面倒、と言いますと?」
ズメイグが聞くと、ディヴォルは顔を上げた。
「この変身魔法だが、暴発というのもあって、どうにも絡まったような術の掛かり方をしているようだ。絡まった糸を考えてもらえば分かりやすいが、元に戻すのに少々時間が掛かるだろう」
「え……」
アオストの背筋が一気に冷えていく。
「じゃ、じゃあ、魔王様は暫くその姿で居ないといけないと……? それって、城の防衛とか、凄くマズイんじゃ……」
自分が引き起こした実験の失敗で城が落とされるようなことがあれば、それは最早責任をとれるような話ではない。
ズメイグも同様の想像をしたらしい。アオストの手前口には出さなかったが、当惑の表情を浮かべる。
しかしディヴォルは、あっけらかんとした表情をしていた。
「まあ、今は情勢も安定している。私以外の戦力についても申し分ないし、問題ないだろう。ただ、流石に他の者にも話を通しておく必要はある。ズメイグ、もし今手隙なら、伝令を頼めるか?」
その様子に改めて困惑しつつも、ズメイグは指示を了承する。そして、魔術部屋から退出していった。
室内には、アオストとディヴォルが残る。
アオストは、未だ不安そうな表情を浮かべていた。
「魔王様、その、本当に大丈夫なのですか……?」
退出するズメイグの背を見送っていたディヴォル。アオストの声に反応し、身体を彼の方向に向ける。
「今しがた言った通りだ。ただの事故で、何も問題はない」
その言葉にも、あまり納得がいっていないアオスト。
「じゃ、じゃあせめて、解術の手伝いを……」
「私が解くのに手間取るんだ。お前が手伝ってどうにかなるものではないよ。まあ、これも経験の一つだと思えばいい」
言葉と共に、ディヴォルはアオストに笑みを見せた。
その表情に、アオストは一瞬身体が硬直した。普段のディヴォルも、このように優しい言葉を掛けてくれることは多々ある。しかしこのような表情は、未だかつて見たことがなかった。
そして、純粋に可愛い。
アオストの内心には一切気づいた様子もなく、ディヴォルは身を翻した。
「さて、私はこれから暫くここで解術方法について探ってみる。また事故が起きても良くないし、アオストも席を外してくれないか」
そういって、気合を入れるかのように両腕を上げ、伸びをする。
その時、ディヴォルの脇がアオストの視界に入ってきた。腰で布を纏めただけの貫頭衣のため、身体の側面は脇から腰に至るまで露出している。
またも、アオストは硬直した。
しかし頭を振り、邪念を飛ばす。色々な感情が綯交ぜになっているが、ここはディヴォルの言う通りにするしかない。
アオストは、部屋を退出した。
一人残されたディヴォル。
扉が閉じられるのを見届けると、踵を返して部屋の中央、魔法陣の傍へと歩いていく。
その途中、一度立ち止まり、ふと顔を横に向けた。その先には、魔術用の鏡が置かれている。現在のディヴォルの姿が映し出されていた。
ディヴォルは少しの間、鏡の中の顔を見つめる。そして、徐に頬に手を当てた。
「表情か……」
思わず漏れた呟きは、誰に聞かれることもなく室内の薄闇に消えていった。