ジェイドが死んだ
「外を見てごらんよ、綺麗な蝶々が飛んでいるよ」
部屋の中からジェイドの声が聴こえた。その声に誘導されるように、ジェイドの双子の妹が窓辺に立つ。
ジェイドと同じ翡翠の瞳、同じ月色の銀の髪、同じ月下美人のような儚く美しい顔立ち。
王太子と友人たちから妹の紹介をねだられ、妹は病弱で人見知りだからと断ったものの、何度も断り切れず、姿だけならば、としぶしぶジェイドが譲歩したのだ。
ジェイドに指定された木々の陰から王太子と友人たちは、初めてジェイドの妹を見て、あまりのそっくりぶりに驚愕した――ジェイドが13歳の夏のことだった。
王太子たちはジェイドの妹を見た瞬間、太陽が君臨する夏の風が星のように煌めいたみたいに感じた。
思春期となり身長が伸び体格も声も変わりつつある中、ジェイドだけは華奢なままであった。成長期には個人差があるさ、と慰めたが、身長差から頭ひとつ下から見上げてくる翡翠の瞳に胸がざわついた。こそばゆいような。ドキドキするような。甘酸っぱい気持ちに翻弄されることさえ、くすぐったくて照れくさくて。
それを庇護欲だと王太子たちは思っていた。
幼い頃は、穏やかで芯の強いジェイドに支えられていたから、今度は自分たちが逆にジェイドを守る立場になったのだ、と。
けれども、けれども、ジェイドと同じ顔の妹を見てジェイドがもしも女の子だったら、と――。
そしてジェイドが14歳の春。
「みな知っていると思うが」
王太子が、彫像めいた感情を削ぎ落とした表情で側近たちに言った。
「ジェイド・マリースが亡くなった」
側近たちも悲痛な表情で顔を歪めている。しかし、その底にあるものは溶岩が噴出するような怒りであった。
「わたしたちが別れたのは、たった7日前だというのに……」
「きっとマリース伯爵が、ジェイドを殺したんだ!」
「証拠がないのに、そんなことを言っては」
「証拠? 愛人の子どもを屋敷に入れるために、ジェイドを後継から外し、長年に亘り領地を管理してくれていた妻と離縁して、妻と子どもたちが実家に帰る途中での落石事故だ。タイミングがよすぎて後顧の憂いを断つための事故としか考えられない!!」
迸るように吐き捨てられた言葉は、誰もが考え、唇を血が出るほどに噛みしめて耐えた言葉であった。地位ある身分ゆえに証拠もなく軽々しく言ってはならない、と。
が、少年らしい正義感と、津波が押し寄せるみたいな後悔が、疑惑という名となり王太子たちに魔のようにとりついてしまった。何よりも、心の奥底で蕾をつけた花が開花することなくむしりとられて、王太子たちの心には、花をなくして刺と茎だけになった残骸が残されてしまったのである。
ジェイドを喪った故に自覚した、初恋という花の骸が。
ジェイドも王太子の学友兼側近のひとりだった。
幼少時から切磋琢磨して、競いあい高めあい時にはお互いに労りあい、ともに育ったライバルであり親友であった。
ジェイドは、澄んだ水のような清廉な少年だった。
その生まれ故に何事も完璧に出来てあたりまえを求められる王太子の、水面下での努力に寄り添ってくれて。
友人たちは、ある者は兄弟との折りあいの悪さを。ある者は勉学や剣術の悩みを。ある者は挫折を味わい。いつもいつも、世話焼きなジェイドが優しく話を聞いてくれて、親身になって手を引いてくれた。
ジェイドの前では、王太子も側近たちも友人として弱音を吐けた。ジェイドは、つけこんだり悪用したりしないから。嘲ることも諭すことも謀ることもしない。ただ受け入れてくれる。
ジェイドの纏う空気は、まるで森のような静かなあたたかさで心を落ち着かせて。滝のような清々しさで安らぎを与えてくれたのだった。
そのジェイドが――死んだ。
7日前。
「殿下、今までありがとうございました」
ジェイドは王太子に頭を垂れた。
名門マリース伯爵家の嫡子の立場があってこその側近の席だった。両親の離縁によりマリース伯爵家の籍から抜かれたジェイドは、もう側近ではいられなかった。
「ジェイドは優秀だ。父王にお願いして必ず戻ってこられるようにするから」
「いけません。殿下は公明であり公正であらねば」
「ほら、そういうところ。ジェイドは私欲なく、私のために忠言をしてくれる」
王太子はジェイドに別れの抱擁をした。腕の中にすっぽりと入るジェイドの小ささが切なかった。
「必ずだ。私のもとに」
だと言うのにマリース伯爵は、ジェイドの異母弟を王宮に連れてきて、ジェイドの代わりの側近候補として王太子に面会させたのである。
明るく純粋な性格の息子とマリース伯爵は自慢げにしていたが、純粋と無知とは異なるものだ。礼儀作法も最低ラインで貴族のしきたりも覚えておらず、王太子に対して馴れ馴れしく話しかける異母弟に、側近たちは即行でマリース伯爵と異母弟を部屋から叩き出した。マリース伯爵家よりも側近たちの家柄の方が高い。爵位による序列が法となる王国において、上位貴族がなした下位貴族への振る舞いは是とされる。
王太子からも側近たちからも睨まれたマリース伯爵家に、未来はない。
「殿下、申し訳ございませんがお側を離れる許可を頂戴してもよろしいでしょうか?」
王太子の従兄弟である公爵家の嫡子アルヴィオンが頭を下げる。
「アルヴィオン、もうジェイドの葬儀は終わっているぞ。駆けつけたかったが……、急なこととて我らの誰ひとり参列できなかった。怪我をしたジェイドの母君と妹が心配なのだが……」
「はい。ですので見舞いも兼ねて様子を確認し、王宮を動けぬ殿下に報告をしたいと。それにジェイドの墓にも……」
王太子もアルヴィオンも、どうしてもジェイドを思って言葉が喉でくぐもる。人前で泣かぬように目に力を込めないと、涙がこぼれてしまいそうだった。
王太子とアルヴィオンは視線を窓の外に向けた。側近たちも。
やわらかな春の風が木々の葉を揺らしていた。
木漏れ日が五線譜のように幾筋も葉の間から落ちている。光の音楽が奏でられているような美しさに、去年の夏の風が甦った。
ジェイドとそっくりな双子の妹。
ジェイドと同じ翡翠の瞳と銀の髪。
窓辺に立つ儚い幻のような少女に、誰もが一瞬で――。
「私も行きたい……」
ポツリ、と王太子が呟く。
「わたしたちも同行したいです」
側近たちの声にアルヴィオンが首をふる。
「殿下は隣国の王女殿下とのお見合いが来週にあるではないですか。側近の君たちは、準備のために多忙中だろう?」
アルヴィオンは同年齢の従兄弟として役割的には王太子の学友として側にいた。王太子の許可を求めたのは体面上であり、自由に動ける地位にいる。
王太子が肩を落とす。
ジェイドを喪ったばかりの今、見合いなどしたくないがこれも政略である。王太子の責務として隣国の王女を笑顔で迎える必要があった。
ガックリと嘆息して消沈する王太子と側近たちの様子に、アルヴィオンは即座に馬車の使用をやめた。
馬車では遅い。馬を疾走させて一刻も早く行かなければ、とアルヴィオンは決断した。
少女の翡翠の瞳が驚きにみひらかれる。春の風に吹かれて、細い首筋に滑る銀の髪をおさえる指先が震えていた。
目の前には、髪を乱したアルヴィオンが馬に跨がり笑っている。立派な駿馬だ。アルヴィオンの背後には、公爵家の揃いの制服を着た騎士たちが整列していた。
黄金のような蝶々が翔んでいて。
あまりの珍しさに少女は、侍女も伴わずに祖父の屋敷から蝶の道をたどるみたいに飛び出したのだ。蝶々を追って、走って、すると前方から大地を揺らす蹄の音が響き。騎馬の集団の中に、アルヴィオンの黄金の髪が太陽を浴びてキラキラ輝いていて。アルヴィオンと入れ違うみたいに蝶々は、竜の鱗のように連なる雲が長く伸びた空へと高く翔んでいってしまったのだった。
ひらり、と馬から下りたアルヴィオンが少女に近づく。
アルヴィオンは歓喜にとろける笑顔を浮かべていた。
「ジェイドだ……! 去年は遠くから見ただけだからわからなかったけれども、近くで見ればハッキリとわかる。ジェイドだ、生きていてくれたんだね」
確信を持って言いきるアルヴィオンに、少女は、いや、ふんわりとしたシフォンドレスを着たジェイドはふっと細く息を吸いこみ声をかすれさせる。呼吸が喉元で引っかかった。
「やっぱりアルヴィオンは、僕のことがわかるんだね。アルヴィオンだけは騙されない、と思っていたんだ……」
ジェイドの長い睫毛に縁取られた翡翠の瞳を濡らす水滴は、半透明に輝く蜘蛛の糸にかかった朝露のようだ。
「アルヴィオンだけは、僕のこと見分けるだろうと……、男とか女とか関係なく僕のことを間違わない、と」
「ジェイド!」
堪らないとばかりにアルヴィオンは、きつくジェイドを抱きしめた。
「ジェイドが死んだと聞かされて凄くショックで。けれども泣くよりも先に、残されたジェイドの妹を守ろうと、守らなければと、それがジェイドの一番の心掛かりだろうと思って。王都から騎行してきたんだ」
王都では爪の先まで艶やかに手入れされた優美な貴公子のアルヴィオンであるというのに、急ぎに急いで馬を駆けさせて来たのだろう、汗と埃の匂いがした。それがジェイドには嬉しくて。胸がつまって、ジェイドもアルヴィオンの背中にぎゅっと手をまわした。
「アルヴィオン、ごめん。ごめんなさい。つらい思いをさせてしまって」
「ジェイド、いいんだよ。死の偽装には理由があるのだろう?」
「うん、アルヴィオンならば話してもいいって、もしアルヴィオンが気付くならば。母が許してくれているんだ」
ちらり、アルヴィオンは周囲に視線を流した。
連れて来た騎士たちとは少し距離があるので、アルヴィオンたちの声は届いていない。可愛らしい恋人の逢瀬と思っているのか、ほほえましそうに目を細めている。
しかしアルヴィオンは念を押した。
「彼女のことは誰にも喋ることを禁止する。これは命令だ」
サッと騎士たちは胸に手をあて、主の命を拝して頭を下げた。
アルヴィオンの目に、青い花が咲く小さな丘が映った。
「私たちは丘へ行く。おまえたちは丘の下で警護を。王都から走りづめで疲れただろう、交代で休め」
アルヴィオンはやんわりと掴んで離れていかないように捕まえ、ジェイドの手をひく。
丘には青い花が一面に咲いていて。
青い花で埋め尽くされた丘と澄み渡った濁りのない青い空との境界は曖昧で、透き通るみたいな青の中の青が溶け合い行き交じり、まるでひとつの世界のようで。
アルヴィオンとジェイドは空中散歩のように花と空との間を歩いた。
愛らしいドレス姿のジェイドだが普通の令嬢のように華やかな香水ではなく、香るのは森の木々のような爽やかな香りであった。男の姿の時と同じく清涼感の漂う清らかな水みたいな空気を纏う少女に、アルヴィオンはジェイドが生きていることを実感して密かに頬をゆるめた。
ジェイドが繋がれていない右手を、花が織り成す青い花の絨毯の中に入れてしょんぼりする。
「どうしたの?」
「あまりにも綺麗な青色だから、花々の中へ手を入れたら爪が青色に染まるかな、と思ったんだけど」
「ジェイド、それは無理だよ」
幼子のような試みの失敗に落胆して、キスするみたいにきゅっとすぼまるジェイドの唇が可愛くて、アルヴィオンは自分の胸元に引き寄せた。ジェイドはされるがままに身を委ねる。
「あれ? 抱擁されることを避けていたのに抵抗しないの? そう言えば王太子殿下にも許していたね」
「王太子殿下の時は最後だと思って。アルヴィオンには心配をかけたし、今日はアルヴィオンのしたいことには従うつもり。こんなことで罪滅ぼしにはならないだろうけれども」
アルヴィオンの双眸の奥底が光る。
「なんでも?」
「うん、なんでも従うよ」
迂闊だよ、信頼する親友だからと言っても上位貴族にそんなことを言ってはいけないよ、とアルヴィオンは口の中で密かに呟いた。薄く開いた唇からチロリと舌が蠢く。
アルヴィオンも、ジェイドを喪って自分の気持ちに気がついたひとりだった。
しかしジェイドは少女だったのである。もはや障害は何もない。王太子の顔が浮かんだがアルヴィオンは自分の悪辣さと狡猾さには自信があった。悪いな、ジェイドは渡さない、と王太子の顔を消しさったアルヴィオンだった。
ジェイドを喪った、あの絶望感。
この好機を逃すようでは魑魅魍魎が蔓延る王宮で生き抜く上位貴族の名前が廃る。アルヴィオンは、二度とジェイドを放す気も離れる気もなかった。
「あのね、アルヴィオン。僕は本当は双子ではないんだ。男のジェイドは嘘の存在で、僕は女の子として生まれたんだ。でも母が父親を嫌っていて、貴族家には嫡子が必要だろ? 嫡子のために再び父親と閨をともにすることが苦痛過ぎて、生まれたのは僕だけなのに男児と女児の双子だと嘘の届け出を貴族院にしたんだ」
ジェイドは勇気をかき集めて真実を話し始めた。こわい。欺いていたのか、と罵られる覚悟はあるが、アルヴィオンに軽蔑されるかも知れないと思うと背筋に震えが走った。
ジェイドが王太子の学友に選ばれた時。
ジェイドよりも身分の高い公爵家や侯爵家でありながら学友に選ばれなかった子息たちから、人目のない場所で虐げられていた時期があった。幼い、伯爵家のジェイドは耐えるしか方法がなかった。それを救ってくれたアルヴィオンを、しかもここまで来てくれたアルヴィオンを、もう欺き続けることはジェイドにはできなかった。
「父親は母と結婚する前から愛人がいて、生まれた僕に興味がなかったし。母は成長期になって僕が男のふりをするのが不可能になったら、男のジェイドを病死させるつもりだったから、落石事故は好都合だったんだ」
綴る言葉とともに身体が冷たくなっていく。こわい、嫌わないで。
「母は最初から父親と離婚する予定で結婚したんだ。浮気三昧の父親にうんざりしていたから。でも父親には散財で傾きかけた家のために母の莫大な持参金が、母の実家は領地に鉱山が発見されて加工技術が欲しくて、それぞれの目的があっての結婚だった」
罵倒されてもいい。でも、嫌わないで。
わかっている、それは自分のわがままだ。
わがままなんて言ったことはない、だって許されなかった。泣いている母を困らせたくなかった。
「父親は愚かでね。伯爵家の若様とチヤホヤされて育ったから、妻は夫に従順で反抗なんてしないと考えていた。誰しも自分に逆らわないのが当然と。だから自分が楽をしたいがために母に領地経営を任せて、王都で愛人と贅沢に暮らしていた。その間に母は15年もかけて伯爵家の職人たちを少しずつ引き抜き、代々の秘伝の技術まで根こそぎ奪ったんだ。父親は王都へ送られてくる書類の数字しか確認していなかったから」
でも、初めて、わがままを言わせて。
「母的には、持参金と働きもしない父親の王都での贅沢な生活費を15年間くれてやったから技術料の代金は支払った感じらしいけど。で、母は用無しとなった父親と離婚した。嫡子である僕のことで揉めるか、と予想していたけれども、父親は愛人に結婚をねだられていたし愛人の子どもを新しい嫡子にしたかったしで問題はなかった」
嫌わないで、アルヴィオン。
丘の上でアルヴィオンと並んで座って、ジェイドは全てを話した。下にはアルヴィオンの着ていた上質なマントが敷かれている。
「ずっと王太子殿下や友人たちや、アルヴィオンを騙していることが仲良くなればなるほど苦しくて悲しくて。ナイショだけど祖父の屋敷に行くことになった時、ちょっとだけホッとしたんだ」
お願い、アルヴィオン。
泣きそうな顔でうつむくジェイドの手をアルヴィオンは強く握った。あやすみたいに真綿でくるみ、大切に守り、もう誰からも傷つけられないように。至宝を育てる真珠貝のようにジェイドを大事にしようと、自分勝手な大人たちに煮えくりかえる腸の底でアルヴィオンは決意した。
「ジェイドは悪くない! 赤子の時に将来を勝手に決められて、その中で必死に頑張ってきたんじゃないか! 私たちに謝罪したいならば謝罪してもいいけれども、むしろ私はジェイドが男として育てられたから出会えた運命に感謝しているよ!」
「アルヴィオン……」
ジェイドはアルヴィオンの手を握り返した。ジェイドの翡翠の瞳にはアルヴィオンの姿だけが映っていた。冷たくなった指先に熱が戻ってくる。
「僕もアルヴィオンに出会えて、いっしょに勉強していっしょに遊んで、毎日が凄く楽しくて幸せだった」
「私もだよ、ジェイド。私も毎日が楽しくて幸せだった」
「だからジェイド。これからも私に幸福な毎日をくれないか?」
アルヴィオンは、ジェイドの手に触れるだけのキスを落とした。百花の花など足元にも及ばない唯一の花は、いたずらに想いをぶつけて乱暴に手折ってはならない。手を尽くして、心を尽くして、言葉を尽くして、アルヴィオンだけの翡翠の花を愛をそそいで育てるのだ。
「好きだよ、ジェイド。愛しているんだ。私と婚約をしてほしい」
ジェイドの長い告白の次は、アルヴィオンの熱い告白であった。
「身分とか大丈夫だから。ジェイドの祖父殿の家からでも、私の叔父夫妻の養女になってでも、手段は幾らでもあるし」
ジェイド、君のまえでは私はただのアルヴィオンでいられるんだよ。
「公爵夫人の仕事も、王太子殿下の優秀な側近だったジェイドならば容易いものだよ。淑女としての社交が心配だけど、もともとジェイドの妹は病弱設定だったから、それで押しきって社交界には最低限の顔見せだけにしよう。情報収集は私がするし」
愚痴を言って、弱音を吐いて。
だらけて昼寝をしたり、大声で笑いあったり。
「だから、ね? 結婚しようよ。今日は私のお願いをなんでも叶えてくれるのだろう?」
公爵家の嫡子ではなく、アルヴィオンという個人として君は私を受け入れてくれる。
「ジェイドを愛しているんだよ、心から」
私が君にどれほど救われてきたか、君は知らない。
ジェイドは真っ赤に染まってプルプルと震えていた。もしも立っていたならばヘタヘタと腰を抜かしていたことだろう。まあ、座っていても卒倒寸前であったが。
男として育てられたジェイドには、男女の色恋の免疫がまったくなかったのである。
あー、これは初夜で息絶えそうなほど真っ白だな、……ちょっと滾るけど我慢我慢、まずは初心なジェイドに歩調を合わせて清く正しい交際からだな、と瞬時に思考をアルヴィオンはめぐらしたが、とりあえず今、息をとめて硬直しているジェイドの呼吸の方が先決であった。
「ジェイド、息を吸って。はい、吐いて。もう一度、吸って吐いて」
背中を軽くポンポンたたいて、アルヴィオンはジェイドの呼吸をうながした。
「よーしよし。呼吸が戻ったな、びっくりさせないでよ。もうジェイドを失うのは絶対にごめんだからね」
「だって、だって、アルヴィオンが結婚なんて言うから……」
「言うとも! 今日はジェイドになんでもお願いしてもいいんだろう?」
「だって、僕……」
「ジェイド、考えてごらんよ。女の子に戻ったら誰かといずれ政略で結婚することになるんだよ? マリース伯爵みたいな相手だったら? ね、イヤだろう。それならば私の方がマシだと思わないかい」
ゆらり、とゆらぎながら冬の匂いの残り香を宿す春の土の冷気が足元から這いのぼってくる。ジェイドは今度は青くなって震えあがった。
「やだやだ! 父親みたいな相手なんて。アルヴィオンがいい! アルヴィオンのこと好きだもん、結婚する!」
アルヴィオンの口角がわずかに上がる。初々しいジェイドを手のひらで転がすなんて腹黒のアルヴィオンには容易なことであった。
「よし、決定! 今日からジェイドは私の愛しい婚約者だ」
我、勝利せり!! ドーパミンとかエンドルフィンとか脳内麻薬をドパドパ分泌させて幸福感に麗しい顔面をほころばせるアルヴィオンであったが、ふと以前からの疑問をジェイドに尋ねてみた。
「ねぇ、去年の夏のからくりを教えて? 確かにふたり部屋にいたよね」
ジェイドが得意満面で笑う。かわいい。
「思いこみのトリックだよ。女の子の姿は窓辺にあったけど、男の僕の声は部屋から聞こえただけでしょう? でも、みんなは部屋から僕の声が聞こえたから僕も部屋にいると思った――簡単な錯覚を利用しただけだよ」
「なるほど。言われてみれば」
「それと女の子のジェイドの名前も教えて?」
「ジェイドだよ。男はジェイド・レオン・マリース。女の子はクリスタル・ジェイド・マリース。あっ、もうマリースじゃあないや」
「ジェイド?」
「うん、アルヴィオン。ジェイドだよ」
「ジェイド」
「うん、アルヴィオン」
アルヴィオンは流れるような仕草でジェイドの片手を取ると、残る片手でジェイドの細い腰を抱いた。翡翠の瞳に甘く視線をあわせて。レッスンとばかりにジェイドの指先に口づけをして、ぴったりと身体をくっつけて優しくささやく。
「ジェイド、はい、息をして。吸って吐いて吸って。徐々に私との恋に慣れていってくれたらいいからね。ゆっくりふたりで恋をしよう」
〈ちょこっと〉マリース伯爵
マリース伯爵は後悔していた。
元妻に丸投げをしていた領主の仕事が山積みとなった上に、代々領地収入の主となっていた加工技術の質が低下して、収入が激減したからだ。
熟練の技術者の大多数が他領に移住しており、しかも有能な使用人は全員辞職しているありさまだった。調査すれば他領を経由地として最終的に元妻の実家の領地へと流れていることが判明するのだが、マリース伯爵は形式的な書類を見ただけで調べもしなかった。
減った収入のかわりに元妻が領民のために蓄財していた財産に手をつけて贅沢な生活を続け、底をつくと安易に借金を重ねた。
王太子たちに睨まれているので王宮での地位もなく、社交界での友人たちも手のひらを返したように離れていった。
とうとうマリース伯爵は、王国で定められている税金以上の重税を領民に課し、その罪により現在、貴族牢に入り項垂れている状態であった。
判決は明日である。
「離婚さえしなければ今も贅沢に楽しく暮らせていたのに、どうして離婚してしまったのだろう……」
どこまでも自分のことしか考えないマリース伯爵であった。
〈ちょこっと〉王太子
「アルヴィオンから手紙が届いた。ジェイドの妹と婚約を結んだそうだ」
王太子の言葉に側近たちは驚愕の声を上げた。
「「「ええ!? ジェイドの妹と……!」」」
見合いの成功により自身も隣国の王女と婚約したばかりの王太子は、眉間に皺をこしらえて苦笑をもらす。内心の喪失感に気付かぬふり知らぬふりをして。
「これで我ら全員が婚約者持ちとなったな」
「はい。しかし、ジェイドの妹では公爵家として何の旨味もない婚約なのでは?」
貴族として政略ありきの婚約を結んでいる側近たちは首を傾げる。
「そうだな。おそらくアルヴィオンはジェイドの妹に恋をしたのだろう。公爵家は力を所有しすぎた故に、どちらかと言うと無力な家との繋がりを望んでいた。国王陛下に恭順の意を示すために。公爵家としてもジェイドの妹は都合がよかった、ということだ」
「「「恋ですか……」」」
花を咲かせることなく喪った初恋の残滓が胸の奥底で疼く。
「アルヴィオンが少し羨ましいな」
と王太子が言うつもりのなかった気持ちを思わず吐露してしまった。あわてて、
「我々の婚約者とて素晴らしい女性たちだ。我らも婚約者を大事にして、まずは信頼関係を育てなければな」
と朗らかに笑った。
しかし、自身の婚約披露パーティーでアルヴィオンがエスコートをする少女の姿を見て王太子は気付いてしまった。
「……ジェイド……だ」
アルヴィオンに向かって開きかけた口を王太子は意志の力で閉じた。息をスッと呑んで、それから口を開く。
「アルヴィオン、幸せにしてやってくれ」
「もちろんです、殿下」
王太子とアルヴィオンは視線をあわせ、お互いに腹に一物を抱いて薄く笑ったのだった。
読んで下さりありがとうございました。