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廻呼

作者: 曽雌康晴

第2回日本ホラー映画大賞連動企画の「3日でホラー映画をつくろう!」で『廻岐』という作品を書きました。

そのお話の前日譚です。

映画にご興味を持たれた方には小説を。小説にご興味を持たれた方には映画を。

双方向性で楽しんでいただけたら嬉しいです。

よろしくお願いします。

https://live.nicovideo.jp/watch/lv337948427

 急に降り出した深夜のゲリラ豪雨に車のワイパーは役に立たず、仕方なく車内でやりすごしていた。来年に定年退職を控えた佐々木和夫にとって徹夜作業はやはり身体に堪えるものであった。その一方で若いころを思い返されるようで身体はきついが嫌いな感覚ではなかった。和夫の勤める門沢書房は伝統のある大手出版社であり、映像制作も手掛けていた。学生時代に自主映画を創っていた経験を買われ部下たちに頭を下げられ本職ではない編集作業に忙殺されている。何日もずっと同じ個所をやり直させられ永遠に終わらないのではという錯覚に陥ることもしばしばだった。そういえば昨晩も雨だったな。そんなことを思いながらカーラジオをつけ流れるクラシックに身を委ねしばしの仮眠を採るためリクライニングを後ろに倒した。

トントントントントントントントン!

突然、背後からの音に眠気が飛びかけたがすぐにクマのぬいぐるみからの音だと気づく。近々長女の美恵子が出産をするので後輩たちからプレゼントされたクマが太鼓を叩いて音が出るおもちゃだ。プレゼントといっても映画の撮影で使った小道具なのだが。美恵子の意向で性別は調べていなかったが、これなら男の子でも女の子でも関係ないですよと半ば強引に押し付けられる形で車の後部座席に放り投げられていたのだった。リクライニングを倒すたびに毎回驚かされているがさすがに今ではそんなに驚かなくなった。苦笑いを浮かべスイッチを切ると助手席にクマのぬいぐるみを移動させる。

「毎回毎回、驚かすの止めてくれよな」

クマのぬいぐるみの頭を撫でると意識を失うかのように眠りに落ちていった。

・・・・・

 最近、なんだか疲れが取れない。妊娠すると皆そうなのだろうか?母がいたらいろいろと聞けたのだろうが佐々木美恵子が中学生に上がるときに母は高層ビルの屋上から身を投げ出し亡くなっていた。周りは突発的な事故のようなものだから自分を責めないでと慰めてくれたが心の傷は癒えることはなかった。母が亡くなる日に「お父さんをよろしくね」と抱きしめられた記憶が今でも鮮明に残っている。あれはきっと母の遺言なのだ。母は突発的なんかではなく明確な意思を持って身勝手に自らの死を選んだのだ。そして今でも母の「お父さんをよろしくね」という言葉が呪縛のように心に残っている。母は父を私に任せ無責任に死んでしまったのだ。見捨てられた、とまでは行かなくとも重荷を背負わされたような怒りににも似た感情を抱いていた。どこか母に対しての意地もあったのだろう。もしかすると母親の死という悲しみから逃れるために怒りに似た感情をもって対処していたのかもしれない。

母は何から逃れたかったのだろうか。

両親は母の勤めていたラジオ局で出会い、父からの猛烈なアプローチで結婚に至ったという話を聞いたことがあった。親の馴れ初めはどこか気恥ずかしく何となくしか覚えていないが、そういえば母はよくラジオを聞いていた。あの日、母が自ら死を選んだ日も。

 美恵子は中学校に入学してからというもの部活動のバスケットボールに夢中になっていた。小学校から仲の良かった友人たちが多く所属していたことも理由の一つだったが何よりバスケットボールというスポーツの魅力に取りつかれていた。その日は初めての練習試合ということもあり気合が入っていた。アメリカのプロバスケットボール選手で世界的なスーパースターであるマイケル・ジョーダンが試合前にパスタを食べているということを先輩から聞いた美恵子は母に頼んでお弁当はパスタにして貰っていた。小学校の運動会や遠足で使っていた可愛らしいお弁当箱は使わず、可愛らしさの欠片もないタッパーにパスタを詰めて用意していた。父に「そんなに食べるのか!?」と驚かれることがなんだか大人になったようで嬉しくもあった。ラジオからはいつものクラシック音楽が流れていた。

「今日は雨降るから二人とも傘持っていきなさい」

「そうなんだ?」

直後にラジオから天気予報が流れ午後から雨が降ることを告げていた。

「あ、本当だ」

タイミング良く流れたニュースに父の呑気な呟きとなぜか口ごもり狼狽える母の姿とが対照的で二十四年も経つというのに妙に鮮明に覚えている。そんな母の様子に気が付いていない父はぐずり出した二歳の瑞希の面倒を看に奥の部屋に行ってしまった。

玄関に腰掛けスニーカーの靴紐を結んでいた美恵子を背後から母が抱き締めた。

「お父さんをよろしくね」

「え?あ、うん」

特に考えもなく軽く答えた後に母は妙なことを言った。

「あと、最後のシュートは自分で打った方がいいよ」

普段から学校であったことなどをよく母に話していたがバスケ部の試合の話をしたことはなかった。なぜなら今日が初めての練習試合だからだ。しかし母は何度も話を聞いてきたかのようなアドバイスをしてくれていた。

「うん!じゃ、いってきます!」

いつもと同じ感じで同じように家を勢いよく飛び出した美恵子が「最後のシュート」という言葉の違和感に気が付いたのは実際に試合で最後のプレイでパスを選ばずシュートを打って決めた後だった。

そして、それが母との最後の会話になるとは夢にも思わなかった。

・・・・・

 眠い目を擦りながらいつもと同じ職場で同じモニターをみつめ同じ個所の修正をしていた。もう何日も同じことを繰り返しているのだが後輩ディレクターからのオーケーという言葉は貰えなかった。これ以上、どこをどう直せば良いのだろうと途方に暮れていた時に広沢亮介がホットコーヒーを持ってきてくれた。相変わらず気の利くヤツだなと和夫は感心しながらお礼を言った。中途採用の広沢の前職は不動産業だった。採用面接を担当した和夫は広沢のお金お金の世界からエンターテイメント業界で夢を与える楽しい仕事をしたいという言葉を気に入り採用の後押しをしていた。亡くなった妻の涼子にプロポーズをした時に「楽しそう」だからと結婚を了承されたことから和夫は楽しいという言葉に特別な感情を持っていた。そして涼子からの「ごめんね」というたった一言の最後のメールは何に対しての謝罪なのか…未だに和夫の心に根深くこびり付いたままだった。

「夜から雨が降るかもしれませんね」

答えの出ない問答に割って入ってきた広沢は人懐こい目を向けている。広沢から長女の美恵子と交際をしていたことと結婚をしたいことを同時に言われたときは驚いたが、人柄を知っていたので祝福する気持ちの方が強かった。義理の息子である人物を広沢と苗字で呼ぶのは変だとは思うが部下であることに変わりはないので今でも広沢と呼ばせてもらっている。自宅では美恵子から「私も広沢なんだけど」と言われてしまうので気をつけてはいる。結婚するにあたり美恵子から強く同居をせがまれ、あまりにも固辞するのも何だと思い二世帯同居をさせてもらった。こうして家でも会社でも顔を突き合わせて窮屈ではないのかと心配になるが当の広沢はありがたいことに屈託なく接してくれている。

「そういえば、昨晩の雨はすごかったな」

「え?雨降ってたんですか?」

「だいぶ遅かったから気づかなかったか?」

他愛ない会話を交わし互いの仕事に戻る。そろそろ孫が産まれるのだ。頑張らなければなと気合を入れ直し再び同じような作業に没頭する。

・・・・・

 病院からの電話で起こされた。疲れが溜まっているのか、しっかり眠ったはずなのに午前中から眠くなってしまう。昨日、定期検診を受け赤ちゃんが順調に育っていると聞き、安心していたが今日も定期健診の予約が入っているとのことだった。すっかり忘れていたことにも焦りを覚えたが何よりも昨日の今日でまた受診するということに何か見つかったのかと不安を抱えながら病院に行くと昨日と同じことを言われ拍子抜けする。そもそも元々定期健診の予約が入っていたようなので昨日の診断結果は関係ないということに帰りのバスで気が付いた。比較的高齢出産ということもあり過敏になりすぎているのだろうか。なんだか最近記憶も覚束ないようだった。もう何日も連続で定期健診という名の受信を続けている気がする。本当は何か深刻な病気が見つかったが私にだけ告げられていないのだろうか…。不安は募るばかりだがネガティブな思考は胎児にも悪い影響をもたらすらしいので気分転換に一つ前のバス停で降りて少し歩いて帰ることにした。

なぜか最近よく母のことを思い出す。年の離れた妹の瑞希が一人暮らしを始める際にいろいろと家の中を整理していたときに母がよく聞いていたラジオが出てきた。懐かしさもあり付けてみるとまだちゃんと聞こえたので自分でも使うようになっていた。正直母には文句の一つでも言ってやりたい気持ちはあった。急に母を亡くし二歳の妹の面倒を看ながら生きていくのは十三歳の中学生には厳しすぎた。当時好きだったバスケ部を辞めざるを得なくなったことも辛かったが、家に大好きな母がいないことの方がもっと辛かった。毎日泣きながら過ごしていたが父の前では決して涙は見せないようにしていた。

「お父さんをよろしくね」

この言葉を母との約束のように感じていた美恵子はいつか母に頑張ったね、ありがとうと言ってもらえる気がして父に心配をかけまいとしていた。

途中で素敵な花屋さんを見つけ可愛らしいお花を見繕ってもらった。一つ前のバス停で降りてみて良かった。

・・・・・

 すっかり日も暮れていたため社内にほとんど人はいなかった。もう何日も家を空けていたのでさすがにそろそろ帰らなければと帰宅の準備を始め、何となしにデジタル時計のカレンダーを見て目を疑った。日にちが経過していない。繁忙期に曜日感覚が狂うことはしばしばあったのだが、日にち感覚が狂うことはなかった。故障しているのかと自分の携帯電話を確認してみると同じ日にちだった。訳が分からず動揺した和夫は一旦冷静になるため顔を洗いにトイレに向かった。疲れすぎか。年齢も考えずに働きすぎたか。自問しながら顔を洗う。取り敢えず帰って寝よう。考えるのはその後だ。顔を拭きながら駐車場に向かっている途中で男女が揉めている声が聞こえた。盗み見るつもりはなかったのだが、角を曲がったところにその人物たちがいたので図らずも目撃してしまった。

広沢と瑞希だった。

なぜ長女の夫の広沢と次女の瑞希がこんな暗闇で二人きりでいるのだ?何やら揉めていたようだったが何だ?なぜ?なぜ?

嫌な想像をかき消そうと次々に疑問を湧き上がらせ結論を先送りにする。広沢は見られたことに気が付いたようだったが確認する前に逃げ出してしまった。なぜ自分は逃げ出したのか。和夫には分からなかった。広沢と瑞希の間に何があったのか。追及してしまうと全てが終ってしまう気がした。もうすぐ美恵子に子どもが産まれる。涼子に孫が産まれたよ。美恵子は幸せだよと報告できなくなってしまう。

どうやって辿り着いたのか覚えていないが和夫は車の中にいた。外は昨日と同じぐらい激しい雨が降っている。気持ちを落ち着かせるためエンジンをかけカーラジオをつける。考えることを放棄するようにリクライニングを倒し、横になる。

トントントントントントントントン!

突然、背後からの音に思考が吹き飛ぶ。例のクマのぬいぐるみだと気が付くのにだいぶ時間を要した。後部座席からクマのぬいぐるみを取りスイッチを切ったときに妙な感覚に襲われた。

同じことをしたことがある。

このぬいぐるみには毎回同じように驚かされてはいた。しかし、決定的に違うのは昨日、このぬいぐるみを確かに助手席に置いた記憶があったのだ。勘違いか?いや、確かに助手席に置いた記憶がある。混乱する和夫の耳に懐かしい声が聞こえた気がした。

「…れか…聞いて…すか」

カーラジオから聞こえてくる声はノイズに紛れて途切れ途切れだが忘れるはずがなかった。二十四年前に亡くなった涼子の声だった。

ノイズをクリアにするために慌ててチューナーを合わせながらもどこかで冷静だった。自分はどうかしてしまったのだろうか。二十四年も前に亡くなった妻の声がカーラジオから聞こえるはずなんてないじゃないか。頭では分かっていながらも溢れ出る涙を止めることはできなかった。

「…たし…佐々…涼子と…しま…」

やはり涼子だ。幻聴だろうか。幻聴でも構わない。涼子の声だ。涼子がいなくなってから和夫の世界はモノクロだった。心から笑えることはなくなり何か楽しいことがあっても涼子がいてくれたらと考えずにはいられなかった。ラジオから再び自らを佐々木涼子と名乗る声が聞こえる。今まで抑えていた気持ちが一気に溢れるかのようにいつの間にか声に出していた。伝えたいことはたくさんあるのに出てくる言葉は自らの死を選ばせてしまった苦しみに気が付けなかったことへの謝罪と、出会って一緒に過ごしてくれたことへの感謝だった。もしまた出会えたら、話すことができるなら、あり得ない妄想だと知りながらいつも考えていたことなのにいざとなったら全く言葉にならなかった。

そうだ、娘たちのことも教えなければ。そう考えた瞬間に先ほどの広沢と瑞希の光景が思い浮かんだ。少し冷静になる。どういうことか分からないが亡くなった妻の声がカーラジオから聞こえてきている。これはラジオだ。電話じゃないから自分の声は届いていないのかもしれない。では、涼子が話していること、伝えたいことを正確に聞かなければ。荒唐無稽な話だと頭では分かっていながら何か意味を見出そうと和夫は耳を傾けた。

「どうし…も伝えた…ことがあっ…」

やはり涼子だ!僕だよ!こちらの声は届いていないと思っていても返答に応じてしまう。

「今…ら…うこと…聞いて…さい」

・・・・・

 また5月3日だ。もう何度目だろうか。同じ朝を迎え、同じ一日を繰り返す。どうやら他の人は誰も気づいていないらしく、それが涼子を一層孤独にさせた。いつから始まったのか、何がきっかけなのか。いつになったらこのループから抜け出せるのだろうか…。わからないことばかりで思い切って誰かに相談しても一日経つと全てがリセットされている。途方に暮れ、無為に時間だけが過ぎていく…。そんな手詰まり状態の中で偶然気づいたことがあった。何かの拍子でラジオが落ち、ノイズが流れた。元に戻すのも億劫でしばらくノイズを流していたら、人の声が聞こえてきた気がした。周波数はどこの局にも合っていない。この奇妙な声に耳を傾けていると、飛び降りろ!飛び降りてこのループから抜け出せ!と盛んに叫んでいた。飛び降りろ?確かにこの世界は和夫や美恵子に八つ当たりをして喧嘩しても一日が終わると何もなかったことになっている。しかし、ここで死んでしまったらどうなるのだろう。生き返ってそのままループが続いていくのだろうか?それともループから抜け出せるかわりに死んでしまうのではないだろうか…。そもそもこの声の主は何者で何の目的でこんなことをしているのか。どうやってラジオから伝えているのだろうか。それらの答えを知る術は美恵子にはなかった。だが、現状を打破する手段も他にはない。この世界で美恵子を殺害することのメリットがあるようには思えない。が、罠ではないとも断言できない。このループから抜け出す唯一のヒントをくれる味方かもしれない…。いくら考えても正しい答えを導き出す自信はないが、自分がやるべきことが限られていることは分かっていた。あとは勇気だけだった。

ラジオから奇妙な声が聞こえる時間帯は毎回同じようだった。もう何度も聞いたので分かったことが幾つかあった。話しているのは男性。おそらく三十代か四十代。こちらからの呼びかけには応じられない、若しくは応じたくない。そして、飛び降りろという言葉の後には続きがあった。この男性も同じようにループに囚われていたらしい。そして、今は抜け出せたらしいがループしていた世界と抜け出せた先の世界はパラレルワールドのようだと分析していた。涼子にはほとんど理解できないことだったがループから抜け出せるという一縷の希望は見出すことはできた。

ラジオの男曰く、どうやら時速100kmに達するとこのループから抜け出せることを確認できたようだった。自由落下における距離と時間と速さの関係について話し始めたのだが、こちらの話も涼子は理解しづらかった。学生時代にもっと物理学を勉強していれば良かったと後悔したが、およそ四十メートルの高さから飛び降りれば自由落下で時速100kmに達することができるので空気抵抗を考慮したとしてだいたい十四、十五階相当のビルから飛び降りれば良いと教えてもらえた。回りくどい言い方しないで結論だけ教えてくれればいいのにと涼子は少し反感を覚えた。

すでに二十階立てのマンションを見つけていたので後は飛び降りるだけだった。だが、このループを抜け出せたとしたらこの世界にいる佐々木涼子は飛び降りで死んでしまっているのではないか。もしくは跡形もなく消滅するのではないだろうか。どちらにせよ、和夫や美恵子、瑞希の家族の前から消えてしまうことに違いはない。飛び降りる勇気なんかよりもこの世界に残してしまう家族にお別れをする勇気の方が全然足りなかった。

・・・・・

 カーラジオから聞こえる涼子の声に全神経を集中していた和夫の耳に外の豪雨の音は入らなかった。パラレルワールドにループする世界。都市伝説やフィクションで聞くワードに困惑したが涼子がどこかの世界で平和に幸せに暮らしているかと思うと心が和んだ。ループから抜け出せた人間はループに囚われている人間に何かしらの方法で脱出方法を告げることができるらしい。どういった手段で伝えているのかなど全く想像にも及ばないが、涼子らしいなと和夫は思った。気味悪がられて話自体を聞いてもらえないことも十分に考えられる。自分が感じていた恐怖や孤独感を共有することで警戒心を和らげ解決方法を教える。自分が知っている優しく聡明な涼子を和夫は誇りに感じていた。安心したのか和夫はリクライニングに横たわったまま眠りについた。

気が付くといつものデスクのモニターを見つめていた。涼子から聞いた話のようにループの始まりは布団から目覚めるものと思っていたので少々面食らった。改めてモニターを見て何度も同じ個所を直させられていると思っていたのはループしていたからかと納得した。

「お疲れ様です」

広沢がホットコーヒーを差し出してきた。昨晩、瑞希と会っているところを見られていると知っていたらこんな風にコーヒーを差し出すことはできないだろう。ぶん殴って全部白状させてやろうか。どうせまたループすれば全てリセットされるのだ。万が一、誤解ということもあるかもしれないなと思いながら努めて冷静にコーヒーを飲む。

「夜から雨が降るかもしれませんね」

何も知らない広沢が呑気に言ってくる。その呑気さが裏切られていたという怒りを増幅させる。美恵子を騙し、瑞希を誑かしているという怒りも綯い交ぜになって拍車がかかった。

…そうか。どうせまたループすれば元通りなのか。

涼子からの話では時速100kmに達すればループから抜け出せるらしい。涼子は二十階立てのマンションから飛び降りることでスピードに達したようだ。だが、時速100kmに達しさえすれば高い建物から飛び降りなくても良いのだ。例えば、車でも。

「広沢、ちょっと車で行かなければならないとこがあるんだ。付き合ってくれ」

・・・・・

 やはり何かがおかしい。昨日、買ったはずの花が見当たらない。確かに花瓶に入れた記憶があった。昨晩は亮介も父も会社に泊まりで帰ってきていない。私が処分した?気に入っていた花を?妊娠をすると精神が不安定になるとは聞いていたが皆こんなになるのだろうか。お腹の赤ちゃんもずっとこのまま同じような気がしてきた。考えれば考えるほど不安が大きくなる。母に会いたい。大丈夫だよと抱きしめて貰いたい。美恵子はすがるように母のお気に入りのラジオを付けてみた。穏やかな曲が流れ始め、美恵子はその場で胎児のように丸まって眠りについてしまった。

・・・・・

 助手席に座った広沢は恐縮しきりだった。

「やっぱり僕が運転しますよ。お義父さんに運転させるなんて…」

「たまにはいいじゃないか」

このまま高速道路に入って時速100kmに達したらどうなるのだろうか。ループを抜け出してどこか他の場所に自分だけ移動するのだろうか。そうしたら運転席には誰もいなくなる。高速道路を時速100kmで走っている車から突然運転手がいなくなったらどうなるのだろう。助手席に座っている広沢はどうなるのだろう。知ったことか。自業自得だ。

「瑞希ちゃんに何か聞きましたか?」

不意に瑞希の名前を出されて熱くなる。努めて冷静になろうとするがアクセルを踏む足には力が入った。ちょうど高速道路に入っていて良かった。少しカマをかけてやるか。

「聞いてるよ。全部」

「え?そうなんですか?」

「あぁ。だから隠しても無駄だ」

「なんだー。サプライズするって言ってたのになー」

「サプライズ?」

「はい。定年退職を会社でお祝いしたいって言ってお義父さんに見つからないように下見までしてるんですよ。なんだか大掛かりなことをやるみたいで、会社の許可が必要になるのはちゃんと教えてねって言ってるんですが、中々聞いてくれなくて。こないだもちょっと口論みたいな感じになって…」

ささくれ立っていた疑惑が晴れた安堵感で広沢の声が遠のいていく。瑞希と広沢には何もなかったのか。俺は何をしているんだ。恥ずかしい。勝手に疑心暗鬼になって。ふと我に返りスピードメーターに目をやると時速100kmに迫っていた。しまった!急ブレーキを踏んだ瞬間に車が急速にスピンし車体ごとはじけ飛ばされた。

・・・・・

 カーテンが閉め切れられ薄暗いリビングのテーブルに突っ伏して寝ている美恵子。玄関で鍵を開ける音がするが気が付かない。足音が近づきリビングの扉を瑞希が開けると糞尿の匂いが鼻をつく。

「…ちょっと、お姉ちゃん」

「あ! ごめんなさい…また寝ちゃった…」

「…ねぇ、アレ、臭いんだけど」

また寝てしまっていた。私がしっかりしなきゃいけないのに。あれから何年経ったのだろうか。父と夫の亮介が高速道路で事故に遭い、父は奇跡的に一命を取り留めたが植物人間になってしまった。そして亮介はそのまま亡くなってしまった。事故のショックからかお腹に授かっていた赤ちゃんも死産してしまった。もう私には父しかいない。母によろしくと頼まれた父を守っていくのだ。リビングの隣の寝室で父のオムツを取り換える。ごめんね、臭かったね。

「もうどこか施設に預けたら?」

「何言ってるの。実の父親でしょ。家族が面倒看なくてどうするの」

母にお父さんをよろしくねと頼まれたのだ。私がずっと面倒を看なければ。これからもずっと。ずっと。ずっと…。

・・・・・

 広沢は無事だったろうか。微かな記憶を頼りに事故を思い出すと無事だとは到底思えない。申し訳ないことをした。せめて別の次元では事故に遭わずにいてくれと願うことしかできなかった。

あの時、時速100kmに達していたのだろう。ループから抜け出すことができた。だが、涼子のいる世界に行くことはできなかった。それどころか、今度は別の空間に閉じ込められてしまったようだ。定年退職する予定の会社のビルで今はたった一人で同じ時間と場所をループしている。駐車場の車の中でカーラジオをつけても今は何も聞こえない。

このお話の続きは短編映画になってます。

ご興味を持ってくださった方、是非ともご覧いただけたらなと思います。

よろしくお願いします。

https://live.nicovideo.jp/watch/lv337948427

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