【8】発明家の弟子ロイス=キャロル
ロイス=キャロルは分厚い眼鏡がないと世界に出会えない。
生まれた頃から視力が弱かったらしい。ロイスは世界というものはいつもぼんやりとしていて、それが当たり前だと思いながら育った。黒板の字が見えないからずっと勉強ができなくて、友だちの顔もぼんやりとしか見えないから見分けがつかず上手に仲良くなれなかった。ロイスは自分はうすのろの、駄目なやつだと思って大きくなった。
初めて眼鏡を掛け、世界に出会ったときの感動を忘れられない。こんなにも世界は鮮明で、美しかったのだとロイスは初めて知った。文字も、勉強も、突然クリアになって頭に流れ込んできた。楽しい、美しい。ただ一つの物の存在で人生はこんなにも色を変えるのだと思った。
『遠くに声を届ける道具』に出会ったのはロイスが15歳のことだった。ロイスが通う技術者を育成する学校に突然どんと備えられたそれは遥か遠く中央の声を、鮮明にそこに運んでいた。背筋が震え、何故か涙が止まらなかった。
発明家トトハルト=ジェイソン。その名を心に深く刻みつけ、弟子入りしたいと何通も文を出したが返信がないので、卒業したその日に推薦状を握りしめて学校を出た。突然尋ねて弟子入りできるのかはわからなかったけど、下働きでもなんでも、無給でもいいからと頼み込むつもりで向かった。トトハルト=ジェイソンの住まう町は学校からそう遠くもなく、馬車を2回乗り換えれば3日で到着する場所にあった。
あっけなくロイスは雇われた。遠くに声を届ける道具は量産とさらなる改良が国に求められている真っ最中で、とにかく人手が必要だったらしい。じゃあなんで返事がなかったんだろうと首を傾げたが、どっさりと積み重なったままほったらかしになっている書類の山で理由は判明した。右も左もわからないままバタバタと、料理から掃除から洗濯から、材料をより分けたり磨いたり、あるのに何故かついていないストーブに薪を運んだりしながら、ロイスはトトハルトの仕事を間近で見つめた。もちろん書類の整理はロイスの仕事になった。
普段はただの気のいいおじいさんなのに、工房で道具と向き合うと、彼はなんというか神様みたいになる。
周りにどれだけの人がいて何をしていてもそこだけまるで別の空間のようになって、しんと静まり返る。
何をしているときでも彼の頭の中には設計図が浮かんでいて、集中すると寝食すら忘れてしまう。
『連絡機』『拡声器』の製法が確立され大量生産に切り替わった今、その制作は中央の専用の工房で、機械的に行われるようになった。工房でともに働いていた兄弟子たちはロイス以外一人残らずそちらに行ってしまった。施設も、給与も、発明家としての地位も、国から直接雇用されたほうが段違いにいいからだという。
トトハルトも当然リーダーとして国からの直接の雇用の打診を受けたにも関わらず、それには応じなかった。開発者の権利を国に譲渡し、新たな道具の開発を自分の工房で行っている。何かあればすぐにわしに連絡をくれと、大荷物を持って申し訳なさそうな顔をする兄弟子たちになんのこだわりもなく言って、トトハルトは晴れ晴れとした顔で皆を送り出した。
あんなに人がいた場所は今はロイスとトトハルトだけになって、毎日静かにかちゃかちゃ新たな道具と向き合っている。
多くの人はトトハルトを笑う。やっと得たせっかくの金を、名誉を手放すなんて大馬鹿だと。
違う、とロイスは知っている。ロイスの師匠は、根っからの発明家なのだ。
ただ一つのものが誰かの人生を大いに変えることがある。彼はそれを作り出す側、変える側の人間なのだ。いつまでも。
今2人は『遠く離れた相手に姿を届ける道具』を開発している。
完成はいつになるかわからないと言いながら、全身全霊で。おそらく彼の残りの人生全てをかけて。
ロイスは見ようと思う。何度も重ねられる失敗の数々を。ともに頭を捻ろうと思う。これが存在すれば人生が変わるだろう誰かのために。その偉大な背中を見つめ、いつの日かその横に立てるように。
わかりやすい結果が出れば誰もが称賛する。多くの人が褒め称えながら寄ってくる。
そこに留まることなく、その全てを失うことになってでも次の未知に進もうとする情熱を捨てない師を、ロイスは心から尊敬している。
王宮からは定期的に文が来る。配達人のデニスさんはいつも笑顔の明るい朗らかな人だ。金色の髪に赤い制服がよく似合っていて、颯爽と馬に乗る姿が男から見てもかっこいい。返事はロイスが、『まだできてません』を遠回しに書く。いつか『できました』とそこに書ける日を楽しみにしながらいつも封をする。
さて今日のご飯は何にしようかなと厨房に入ったとき、ノックの音がした。
「はい」
「ロレッタです」
「今開けます」
ロイスは扉を開けた。
背中に赤ちゃんを背負ったきれいな女性が微笑んでいる。同じ町に住む、師匠の娘さんだ。
「スープを多く作ってしまったから、おすそわけに」
「いつもすいません」
「……こちらこそ、いつもありがとうロイス君」
「僕は何も」
「この子が生まれてから私もあまり頻繁には来られなくなってしまって。あなたが父の側にいてくれて、どんなに助かるか」
「僕は好きでここにいます。毎日、とても楽しいです。感謝していただくようなことはしていません」
「……ありがとう。……中央に行けばお家も、食べるものも用意してもらえたのよね」
「そうみたいです」
「……仕方がないのかしら」
「はい。仕方がないと思います」
ロレッタさんは諦めたように微笑んで礼をした。
ほええとか細い声が聞こえた背中に手を回し、体を揺らしながら赤ちゃんのお尻をとんとんと叩く。
「エックハルト。大好きなロイスお兄ちゃんよ」
「やあ。……今日も可愛いね」
きょとんとした茶色い目が、ロイスを見ているような、見ていないような。
それでもやっぱり泣くのをやめた。いつもこうなのだ。不思議だなぁと思う。
ふふっと二人で笑い、挨拶をしてロレッタさんは去った。スープを作る手間が減ったので、さてどうしようかと考える。
ロイスは料理が好きだ。ここに来るまでやったこともなかったから、これは自分でも意外だった。
勧めないと何食でも抜いてしまう人だから、ちゃんと作ってちゃんと食べてもらわなくてはと思う。
最近リーゾが安くなった。味も昔よりぐんと良くなっている気がする。野菜を刻んで肉も入れて、炒めて食べよう。
牛乳とチーズがあるので、ほうれん草のグラタンも作ろう。
具材を刻み終え、皿にグラタンの中身を入れてさあ焼こうとしたところでノックの音がした。ロレッタさんが何かあって戻ってきたのかなと思い扉を開ける。
見たこともない、焦げ茶の長い髪をボサボサにした少年が立っていた。ロイスは18になったが、彼はおそらく2、3年下だ。どういうわけか全身ボロボロの泥だらけである。
「……弟子にしてください」
「……」
ぐううと盛大な腹の音がした。
ふらつき、彼は倒れる。倒れても手にしっかり何かの紙を握りしめている。
「君!」
慌てて駆け寄って助け起こした。ぐううぐううと腹の音が止まらない。
「なんでもします弟子にしてください。……あと、なんか……飯ください」
「なんて図々しい弟子入り希望者だ」
思わずロイスは笑ってしまった。
肩を貸して引きずり、他にどうしようもないのでせめて板の床に寝かせる。
残念ながらここに盗まれて困るものは置いていない。手を洗いオーブンにグラタンを入れてから、ロイスは工房に向かう。
トトハルト師匠、ごはんです。
あと、図々しい弟子入り希望者がきましたよと、今日は何回声をかけたら気づいてもらえるだろうかと考えながら、ロイスは小走りに歩く。




