【6】補佐官たちのティータイム2
「……トマス公に御子がなければ、ザントライユは別の方法で後継者を立てれば良いだけのことであった。どんな高位貴族にも重婚を認めない分、星の承継にはさまざまな抜け道が用意されておる。……だがフランソワーズ様は、どうしてもトマス公に、血を分けた自らの御子をその手で抱いて欲しいと願ったのだろう。周囲には静かで、淡々と見えても、彼女はトマス公を深く愛しておられたのだと、私は思っている」
トマス公は彼女の失踪を明らかにしなかった。伴侶の失踪から1年経てば、申立により婚姻は解消されるというのに。
彼女の生家ベランジェールにのみその事実を密かに語り、今後もそれを決して明らかにしないことを彼は誓った。娘が嫁ぎ先で家出したとあれば、ベランジェールの名は地に落ちる。
現在も彼女はかつてトマス公が領主を務めていたホルツの地で妹夫婦に見守られ、病気療養中ということになっている。中央は空気が合わず、病が悪化するためやむなく、と。
怪しんだところで追及するものはいまい。王とザントライユ、ベランジェールをまとめて敵に回してまでそれを成すほどの理由のある者がまず、いない。
『やはり私のような男に結婚は向いていなかったようです。ベランジェールには一生分の恩が売れ、私は内々の気苦労もなく何よりです。しかし、こうなるとは。なるほどどうやら私は確かに、王家の血を継いでおりますね』
悲壮感すら見せず皮肉っぽく吐き捨てた若き日のトマス公に、不敬にも程があるぞ若造と立場を忘れて怒り出しそうになったジョーゼフを、女王は片手で静かに制した。
あの頃まだジョーゼフは、トマス公の性格を、存じ上げていなかった。あれは彼の見せた陛下への最大限の甘えであり、彼があのときに吐ける精いっぱいの泣き言であった。
「……続きがあるだろうジョーゼフ」
「……フランソワーズ様失踪から3年ののち、ホルツ領の隣ベルト領のある孤児院で、彼女に瓜二つの女性が職員として働いているとトマス公のお耳に入れた家臣がいた」
トマスは足を運んだ。
そして戻り、言った。
『別人だった。あれはフランソワーズ=フォン=ザントライユではない』
そのとき彼はいつも通りの、静かなお顔をしておられたという。
「……きっとその孤児院で働く、フランソワーズ様に瓜二つの女性は、満ち足りたお顔をされておいでだったのだろう」
自分ならばどうしただろうとジョーゼフは考える。
生まれながらに足に金の鎖を、外側に宝石のちりばめられた籠を置かれ、歌うべき歌のみを歌っていた美しき鳥。今その鳥は鎖を引きちぎり籠を出て、汚れることを初めて知りながらも空を飛び、自由な歌を歌っている。
かつてつがいであったもののその姿を見て、未だ籠の中の鳥は、籠に戻れと言えただろうか。籠の中、一羽で歌うのが寂しい。どうかもう一度籠に戻り足かせを嵌め、ともに歌ってくれないかと言えただろうか。
知られているだけでも二度の死産。母体が無事だったのは、単なる幸運でしかない。出産で命を失う女性の数は、いまだ驚くほどに多い。だが命あり生める年齢であるうちは、命を賭してでも生むことがいつまでも、務めとして期待され求められる。トマス=フォン=ザントライユの妻であるならば当然によりそれは強く。きっと彼女の心か体のどちらかが壊れるまで、ずっと。
籠の中一羽で鳴くことを、トマス=フォン=ザントライユは選んだ。
彼は今でも彼女を、近づかぬことで守っている。
彼女の働く場所をひそかに見守り、隣にいつでも彼女が逃げ込むことのできる席を空けたまま。己が在るべき籠のなか、己に定められた歌を歌っている。
彼はもう傍らにないその人に、傍らにないからこそ贈ることのできる形のミネットを捧げたのだ。
全ては、想像だ。ひょっとしたらかつて彼が女王に語った通り、婚姻の義務を果たしベランジェールの弱みという利を得、気楽でよいというのが彼の本心なのかもしれない。
彼は心を語らない。
だが本心を隠したいとき彼は皮肉を言うと、ジョーゼフはもう知っている。
「……後継者は……」
「順当に行けばフィリッチ公の御子になろう。少なくとも陛下はそのおつもりだ。ここまでザントライユの一人勝ちゆえ、のちのちのアステールに争いの火種を残さぬために、今のうちにルードヴィングの顔も立てておきたいとお考えのようだ。上皇陛下も、ザントライユも今のところ否やはない」
「フィリッチ公は今御子が一男一女、現在も奥様がご懐妊中だったな。まったく、かの方は実に優秀であらせられる。生物としては」
はあとジョーゼフはため息をつく。
「まあ正直なところ、私は不安しかないがな」
「なあにジョーゼフ。こういうのは、案外順繰りにいくものだ。優秀な者の子が優秀であるとは限らん。逆もまた然り。他人の子の方が目を曇らせずお育てすることもできるというものかもしれん。血を分けたものの愚かさは、何故か親の目に見えぬもののようだからな。最悪暗愚の王でも政治は回る。でなければ王国は今日の日まで続いておらんわ」
「今のはすべて聞かなかったことにしようベルトルト。……ルードヴィングとの頭の痛い話し合いが必要だが、時期を見て御子を引き取り王宮で教育することになるだろう。出来るなら可能な限りルードヴィングに染まる前にな。そのとききっとお寂しく、ご不安でいっぱいだろうまだお小さい方のお心を、御傍でお慰めして差し上げてくれセレンソン。その頃私達は、もうここにはおるまい」
「……はい」
「トマス様の御子を抱きたかったか。トマス様の御子が冠を戴く姿を見たかったかセレンソン」
「はい」
「そうだろう。それを飲み込み、今後一切言葉にも顔にも出さぬように。誰よりもそれを望んだ陛下とフランソワーズ様が飲み込んだものを、君が飲めぬわけがあるまい」
「はい」
新たな決意の目で涙を拭く若者をジョーゼフはじっと見た。
このフランソワーズ様に係る一連の騒動のなか、トマス=フォン=ザントライユは表に一切の乱れを見せなかった。
彼はこれまで常に己の運命を受け入れ、飲み込んできたのだろうと思う。
もし今後王の婚姻が政治の大いなる武器になると判断する日がくれば、おそらく彼はそれを涼しい顔で為すだろう。
そのときはベランジェールの名を傷つけぬよう、フランソワーズ様はきっと、長い闘病の末ついに天の国にお渡りになったということにされる。
彼女の身に何かが起きたとき、逃げ込める安全な場所を己の隣に用意していたいという、トマスという男の秘められたミネットは、そのとき彼女の空の棺とともにこの世から永遠に葬り去られる。まるでそこには初めから何もなかったかのように。
何故なら彼はアステールの王だからだ。
彼は常に己の立場を理解し、全てを飲み込み為してきた。これからもきっとそれに変わりはない。
彼はいつも凪いでいる。いっそ冷たいと思えるほど静かに。
どこか人らしさを捨てたような、何があっても乱れぬその御御足に、この若者や多くのものが人らしいものを思い出させ添えながら遅れること無く付き従ってくれると、ジョーゼフは信じたい。
その道に光を、風を、あたたかさを添えてやってほしい。自分には叶えられなかった夢を、この若者に託して数年もせずにこの制服を脱ぐことになる自分の勝手さに苦く笑う。
「ところでセレンソン、君がミネットを挿す女性の髪は何色だ」
「残念ながら今のところまったくその色が見えておりません。何かご存じありませんかジョーゼフ補佐官」
「まだ若い。自分で探しなさい。君にフーリィの前足の導きがあらんことを」
「私は黒だったもう白いがな。君にフーリィの前足の導きがあらんことを。さて休憩終了、続けるぞセレンソン」
「はい。その前に先程の箇所で2、3質問してもよろしいでしょうかバルテル補佐官」
「聞こう」
再びペンを手に取る若者の真剣な横顔を、ジョーゼフは苦く、眩しい思いで見つめた。




