【6】補佐官たちのティータイム1
ミネットは赤い星型の、小さな愛の花である。
王の補佐官ジョーゼフ=アダムスがその花を女性に贈ったのは人生で一度だけだ。
贈られた女性は奥ゆかしく頬を染め微笑んで、ジョーゼフの愛を受け入れてくれた。
今でもジョーゼフは、降り落ちる星の光のなか微笑んでくれたその女性を心から愛している。
開いた執務室の中、補佐官の服を着た者が二人。
一人はもはや見慣れた若者アントン=セレンソン。頭から水をかけたらきっと瞬時に全て弾くのだろうなと思わせる若さ溢れる瑞々しい男である。
そしてもう一人。こちらは大分くたびれた、もはや一滴すらも弾く力がないだろう爺さん。顔を上げた拍子に、丸眼鏡についた銀色の鎖がしゃらんと揺れる。
「戻っていたかベルトルト」
「ああ。しばらく行き違いであったなジョーゼフ。元気か」
「そこまで久しぶりでもあるまい」
「お互いもういい加減爺だからな。私は健康なので、一応お前を心配してやっただけだ」
「そうか。痛み入るな」
ベルトルト=バルテル。ともに長く女王陛下の補佐官として務めてきた、ピンとした髭を蓄えた、水鳥に似た痩せた男だ。冷たそうな印象の顔立ちで見た目の通りの固い性格だが、医学・薬学の知識が非常に深く広い。ジョーゼフは、椅子に腰掛けて何か紙を挟んで話し合っていたらしい二人に歩み寄った。
「何をしていた?」
「セレンソンに少々指導をな。各地各領主の、医に対する考え方の違い、その所以と歴史を説いておった」
「はい。お恥ずかしながら初めて触れる知識ばかりで、私は今感動に打ち震えております」
「各地の歴史に関してはしっかりとした素地がある。ぽんぽんと上に乗せればよいだけなので、教えるのが楽でよろしい」
「歴史の授業がとても好きでした。ですがまだまだです」
「……」
セレンソンの手元で真っ黒に書き込まれた文字を覗き込む。この男たちは勤勉である。
「……そうか。陛下はどちらへ」
「オルゾからお戻りの上皇陛下と、語り合っておいでです」
「今回は仲間外れにされたかセレンソン」
「お忙しいバルテル補佐官の貴重なお時間を頂戴し、少しでも知識を身につけよとの仰せです」
「そうか。だが少し休憩しよう。君は昨日も泊まり込みだろう。一体月に何回寮に戻れておる」
「今月は、3回ほど」
「働きすぎだ。若いうちはいいが、年を取ってから急にあちこちにガタが出るぞ」
「実体験に基づく真のある忠告だなジョーゼフ。働きすぎるのは若者の特権だが、この男に同感だ。少し休もうセレンソン。私も少々喉が渇いた」
セレンソンが表に行き外に向けて茶を頼んだ。やがて三人分の茶と、薄い焼き菓子が運ばれる。
補佐官たちはそれぞれにカップを傾けた。王の影たる補佐官たちがくつろげるのは急な用がなくて王の居ぬ、わずかなひとときのみである。
「……」
「なんだセレンソン」
若者が何か聞きたげなのでジョーゼフは尋ねた。一度は上げた白い面を俯かせ、セレンソンは言葉を選んでいる。
「お二方に、お伺いしたきことがございます」
「言ってみよ」
「……」
よほど言いにくいらしい。促さず言葉の先を待った。
「……ホルツ領におわします陛下の奥様のご体調は、そんなにもお悪いのでしょうか」
「……」
「……」
ちらとベルトルトが視線をジョーゼフに向けた。
「言っていないのか?」
「……そのうちにと思っておった」
「ならば今がそのときだ。お前から語れ。この男は若いが愚かではないし、何より誰よりも永くお側に侍るだろう彼の生涯の補佐官だ」
優雅にカップを傾けベルトルトがつんとする。彼はこう見えて意外と人情家である。
「……そうだな」
ジョーゼフはカップを置いた。
「陛下は語るまい。私から話そう」
そうしてジョーゼフは語りだした。
王位継承権を持つ最高位の五星貴族ザントライユ家の長男が、四星貴族の令嬢フランソワーズ=フォン=ベランジェールと婚姻したのは、トマス公が20歳、フランソワーズ嬢18歳の年だった。
聡く、物静かな、高位貴族らしいお二方であった。
いついかなるときも下々のものの前で感情を表に出すことなく、己の身分というものをよくわきまえ、今己に求められていることが何かを正しく把握しながら、為すべきことを為すべきときに為す。
傷ひとつなき者同士の、教科書通りの貴族の結婚であった。
若い二人の間にどんな感情があったのか、当事者でないジョーゼフにはわからない。陛下の前に跪き婚姻の報告をするまだその面を隠していた高貴な青年は、やはりいつもどおり淡々としているようにジョーゼフには感じられた。
きっと教科書通りに進むと思われた二人の結婚生活への暗い影は、婚姻から2年後に落ちた。待ち望まれたザントライユ家世継ぎの誕生の喜びに湧くはずのその日、そこには人々の歓声も産声も上がらず、ただフランソワーズ様の悲壮な忍び泣きの声のみが流れることとなった。
死産。どんな高貴な方にも起こることである。母体になんの障りもなかったことを喜ぶべきであった。
次の御懐妊の知らせはそれからさらに2年後であった。今度こそは、と誰もが思っていたに違いなかった。誰もが気を張り、彼女を壊れ物のように扱い、月が満ちるのを待ち望んでいた。
だが月は満ちる前にまた陰った。ふたたび響いたのは、前と同じ、子を失った母の堪えきれぬ慟哭であった。
二度の深い悲しみは、それまで麗しい花の上しか歩んでこられなかったフランソワーズ嬢の心を、深き暗闇のなかに突き落とした。
母としての悲しみとともに、真面目で勤勉な彼女はきっと、己を長き刃で刺すように日々責め続けていたことだろう。やがて王になるかもしれない男に嫁ぎながら、その世継ぎを生み出せない自分自身を、何度も何度も、深く深く責めただろう。
きっとトマス公も、その重圧を知る彼の父母も、心から彼女を労わったに違いない。だが周囲の者がどれだけの慰めの言葉を吐こうとも、悲しみと責任感に押しつぶされた真面目な女性の心には届かなかった。
「約半年の間、傷心のあまり彼女は寝台から降りられなかったそうだ。何かあるごとにお心は乱れ、……特にトマス公のお顔を見ると、微笑みながらほとほとと涙を落とされたそうだ」
「……」
「ある日の朝、彼女は消えた。ただ一行、トマス公に宛てた謝罪の文を残して」
「……」
「室内に乱れはなく、何枚かのご衣装、ご生家からお持ちだった宝飾品が消えていたそうだ。為すべきことを誰よりも知りながらそれを為せぬご自身の存在を、フランソワーズ様はその日この世から消してしまわれた。トマス公に、為すべきことを為させるために。貴族の教育しか受けていない本物のご令嬢が、己のご身分を、全てを捨てて、誰にも相談することなくきっぱりとそれを為した。そうすることでご生家の名がどれほど傷つくか知る聡き女性が、己を決して責めず離縁もせず、慈しんで見守り続ける公のその傍らを空けるためにそれを為した」
「……」
門を内から開くとき、彼女は何を思っただろうか。
出歩くときは常に馬車。あるいは伴のものを連れてしか歩んだことのなかったご令嬢が、その夜ただ一人で外に出た。これまで己を作り上げてきたものすべてを捨てて。
よほどの決意、強い思いがなければ、そんなことをできるはずがない。
セレンソンの黒い目が潤んでいる。彼は今誰の心を想っているのだろう。子と夫を失った女性か、子と妻を失った己の主か、その両方か。




