【5】白歌の民オリヴィエ=アルロー2
ロラン先輩が優しい瞳でオリヴィエを見ている。
わかるよ、と言ってくれているようで、オリヴィエは目頭が熱くなった。
憧れのソリストだったロラン先輩があっさりとテノーラに鞍替えしたと聞き、内心オリヴィエは先輩に失望し、軽蔑したものだった。そんな安易な歌は聞きたくないと耳にするのも避けた。
パンダンティフを手放したあと。久方ぶりにこの二人の歌を聞いたときの感動をオリヴィエは忘れられない。
二人とも音が凄まじく正確。声の質の相性がとんでもなく良い。安定感のある重厚なフレデリク先輩のバッソ。甘やかで艶のあるロラン先輩のテノーラ。それは対等な立場で寄りかかることなく互いの音を支え合い、溶け合ってまろやかに地から天上に向かって昇っていた。
自分もいつかこんな風に歌いたい、と己の両の目から涙が滴るのを感じながらオリヴィエは思った。
「……馬鹿でした」
「僕も馬鹿をしたよ」
「先輩をはるかに超える馬鹿です」
「一緒だ。多分みんな、きっとどこかで一度はそれをやるんだよオリヴィエ」
静かな水のような透明なロラン先輩の目が、穏やかに凪いでオリヴィエを見ている。
『同じことをしている若者に寛容な、大人らしい大人にきっとなれる』
そうだねおばあちゃん、とオリヴィエは思った。いつか、馬鹿をした後輩をこんな穏やかな目で見られる人間に、オリヴィエもなりたいと思う。
どこかのテーブルで声が上がった。『再会』だ。
ちょっとテノーラが弱い。オリヴィエはロランを見た。
この歌は序盤しばらくテノーラとバッソが重なったのち別れ、交互に各パートを歌う中盤を経て、終盤にまたふたつが重なる。だって『再会』だから。
今は序盤。ロランとオリヴィエは頷き合い立ち上がりわずかな息継ぎのあとを狙って同時にテノーラに加担した。おっ、と店の中が揺れる。負けるなと数人が立ち上がり、バッソが加わり重なって響く。
中盤。ロランとオリヴィエは更に声を響かせた。更に一人加わって、テノーラ優勢になる。
そこにおもむろに立ち上がったフレデリク先輩の重厚なバッソが加わり、その見事さに思わずといった様子の笑い声が上がっている。
後半に入り全ての声が一斉に重なった。
二つの音が気持ちよく均衡している。ビリビリと腹の底から震える。ああ、これぞ『再会』だとオリヴィエは思う。
歌は最後の部分の一番のふくらみある大盛り上がりを経て、余韻を残して消えた。
沈黙。
「「「「トレーッセレンテ!」」」」
互いの健闘を称える大きな声と、拍手。ア・ラ・スラッテの声と杯をぶつける音。ここにいる皆が、美しい音と歌を心から愛している。
「……外は素敵だと、さっき随分と僕は語ったけれど」
座って葡萄酒を飲む、頬が赤くなったロラン先輩が微笑んでいる。
「この先どこに行って何を見ても、きっと僕はここが一等好きだ。何度外に出ようと、僕はここに戻る。絶対に」
オリヴィエと同じ水色の瞳が窓の向こうの霧を追う。
「この霧を、大樹と湖が吐いた潤いある空気を胸の奥まで吸うことで、きっと僕は歌えている。白歌も、きっとそういうものなのだと僕は思ってる」
そうかもしれないな、とオリヴィエも思う。世界を知らないオリヴィエもだ。
「外に出て歌って、また戻ってこの町の空気を吸い込んで、またここで、外で歌う。……楽しいよオリヴィエ。僕はきっと今、世界に僕らの町を自慢して回ってるんだ。僕はこの町が大好きだから。ここに住む人たちが大好きだから。素敵だろう、素敵だろうって生涯歌いながら自慢し続けるんだ。……今ここに居られて、激情のままに大切なものを捨てなくて、本当に良かった」
「……」
「僕は世界を見て、この町に持ち帰る。話して、広めて、一緒に外に出て、一緒に自慢してくれる人を増やそうと思う。ここにいるよ、僕たちはここにいる。こんなふうに歌ってるよって、外の世界にもっともっと、僕たちのことを紹介したいんだ」
突然バアンと扉が開いた。
小柄なおばあさんが走りこんでくる。
「はいおくつろぎのところ皆さん失礼するよ。奥さんは?」
「2階です。まだ予定日じゃないのに、急に産気づいて」
「3人目だね」
「3人目です」
「そういうこともあるさ。あんたも3人目ならもっと落ち着きな。湯沸いてるかい? まだなら沸かしとくれ。今回は結構早いかもしれないよ」
「はい!」
バタバタと音が上に上がっていく。思わず3人とも目を見合わせて笑った。
産声が響いたら、きっと今度はここに誕生の喜びの歌が満ちるのだろう。
白歌の民は歌う。喜びも、悲しみもすべて音にして。
どんなに泣かれても、今度こそ母を説得しよう、とオリヴィエは思っている。
外に出るのはここを捨てるためじゃない。この町に溢れる美しいものを、世界に分けてあげるためだ。
オリヴィエも歌いたい。自慢したい。こんなにも美しいものがここにあるよと。
やがてほぎゃあと声がした。良く通るいい声だ。きっとこの子はいい歌い手になるぞとオリヴィエは思う。男たちは微笑み合い、おのおの杯を置き、口を拭って椅子を引いた。
誕生を喜ぶ歌の導入部分の細いソロが、オリヴィエの隣からきらきらした光の筋のように美しく天に昇っていく。




