9皿目 ガラトンの子オリオン2
魚というのは高価な食べ物だ。
カチカチでしょっぱくて、ほとんどは大人たちが祭りのとき大切なものとしてかじるものだ。少しだけ食べたけど、美味しいと思ったことはない。
なのにこれは美味しい。魚、の匂いはこういうものだったのかと、ツミレを噛んだオリオンは目を見張った。お肉に少し似ている。でももっと持ってる隙間が繊細で、やわらかい。しょっぱいけどしょっぱすぎず、みっしりしてきしきしとした弾力がある。
ふわふわのハンペン、も魚らしい。やわらかなサツマアゲ、もだ。どうして同じ魚がこんなにいろいろになるのかわからない。ただただ全部、美味しい。
大人たちはお酒を飲んでいる。
オリオンはイナリズシを食べる。じゅわりと甘い。美味しい。こんなごちそう食べたことがない。
「よく食うね」
「……ごめんなさい」
「いいことだ。子供はいっぱい食え」
目の前に今度は三つ置かれたイナリズシにどきどきする。一人で食べていいのかと左右を見れば、大人たちはうんうんと頷いている。
オデンも盛ってくれた。たまごとじゃがいもが入っていて嬉しい。指みたいな形のは何だろう。おそるおそる口に運ぶとそれはぷちんとはじけて、しょっぱさと肉の油が口に広がった。肉だ。美味しい。夢みたいな味だ。じたばたしそうになって何とか抑えつける。お婆さんを見ればオリオンの様子を、こわくない顔で見ていた。
「ソーセージ」
「ソーセージ」
うんと頷いて、オリオンはその名前を覚えた。いつか、これがこの世にある食べ物なのかはわからないけど、いつかまた食べたい。なかったら作ろう。だってこれはこんなに美味しいのだから。
大人たちも必死で食べていた。みんな泣きそうなのはなんでなんだろう。
せっかくフーリィが来たのに。アステールの神様のお使いが。
ガラトンは大昔、アステールと喧嘩したのだという。
外が勝手にした戦争で勝手に負けて、ガラトンがある山がそれまでの国から突然アステールに勝手に『切り捨て』られて、ガラトンの男たちは怒り、ガラトンを訪れたアステールからの使者に斧を掲げ、石を投げて追い払ったのだという。
それ以来アステールから使者はこない。『うまみがないからだ』と大人たちは吐き捨てる。
おじいさんたちは外をこわいものだと言うけれど、オリオンはそうは思っていない。マリオさんがいろいろなものを持ってきたり、見聞きした話をするのを里の皆、特に子供と女の人は楽しみにしている。変わった話題がほかにないからだ。
マリオさん以外に外から来るのは定期的に布を買いに来る商人のおじさんだけだ。外の人だけど、ちょっと変なガラトンの言葉をしゃべる。めったにこないけど、ガラトン宛に届いた手紙も彼が運んでくれる。
こないだちょうどそのおじさんが来ているときに、見たこともない赤い制服のおじいさんがガラトンを訪れた。言葉は通じなかったけれど商人のおじさんが間に入って、赤い制服のおじいさんの言葉をみんなに伝えてくれた。
黒い虫が運ぶこわい病気が流行っていること、これはその薬だということ。遅くなってすまなかったと、おじいさんは謝った。よく見たら制服はボロボロだった。
オリオンは外に出たことがないからわからないけれど、外からガラトンに来るまでには危ない場所がたくさんあって、馬に乗るのがとても上手な人じゃないと来られないらしい。
『人手が足りず地方じゃ引退した配達人にまでお役目が回ってきた』と言っているらしいおじいさんはなんだかとっても嬉しそうだった。
大人たちはなんともいえない顔をして薬を受け取って、族長の家に置いたらしい。結局誰も病気にはならなかったから、誰もその薬を飲んではいない。
きっとみんなが泣きそうなのは、アステールと本当は仲直りがしたいのにできないからだとオリオンは思う。
ごめんね、ってすればいいのにとオリオンは思う。
ごめんね、いいよってすれば喧嘩なんてすぐに終わるのに。オリオンたちだったらみんなできることなのに、大人になるとできなくなってしまうのだろうか。
「族長」
「ああ」
族長も副族長も泣きそうだ。
「『ここもアステールだ』と言っておられます」
「……ああ」
「先日の薬と同じ。ここも、アステールだと。石と斧を持って追い払った我々に」
「それ以上言うな。……言うな」
「……我々も、アステールの民であると」
「……」
信じられない。族長が、白い髭に涙を落としている。ガラトンの一番偉い男がだ。
オリオンは胸がどきどきした。ここにいていいのだろうかと思った。でもここからいなくなるなんて嫌だ。こんなに美味しいものを、どうして諦めることができるだろう。
フーリィの話はお母さんが話してくれたことがある。『これはアステールの神様のお話だけどね』と、どうして寂しそうな顔で言うのかわからなかった。
「……うまいです」
「そうかい」
「……」
ううとついに父まで泣き出した。もはやオリオンには訳がわからない。だけどイナリズシは美味しいし、じゃがいもははふはふだし、たまごはぜんぜんくさくない。
「おかわりは?」
「ツミレと、ソーセージください!」
「はいよ」
ソーセージが2本だったからオリオンは飛び上がりたいほど嬉しかった。でも、これを食べられない弟のヘクターが可哀そうになった。
「……」
「何だい」
「……弟に持って帰ってもいいですか」
「……持ち帰りはダメだ。悪くなって腹でも壊されたら寝覚めが悪い」
「……はい」
「握り飯ならいいよ。今日中に食うなら」
ぱっと顔を明るくしたオリオンに、フーリィは葉っぱのようなものにくるんだ『ニギリメシ』を渡してくれた。
「今日中だよ」
「わかりました」
ずっしりとした重みのあるものを大切に膝に乗せた。きっと喜ぶだろう弟の顔、母の顔を思い浮かべてオリオンは思わずにこにこしてしまう。
「いい息子だなホセ」
「……はい」
父が鼻を鳴らした。
「俺にはもったいないくらいの、出来のいい、優しい息子です」
綺麗な杯を持っている父の手が震えている。
「……まだ人の怖さも、汚さも、なんにも知らないのに、外に出したらどうなるか。俺の目に届くところに置いておきたいと望むのは、そんなに悪いことですか」
「……賢きリャンパカはいつも群れを出て孤高をゆく。わかっているだろう。この子の聡さを。父親ならば」
「……」
「この子はここにいればいずれ族長に推されるかもしれん。だがな、そんなものではおさまらぬ大きな者になる者かもしれん。背を押してやれ。この子はお前をまっすぐに尊敬しておる。潔い父の、あたたかな手で背を押してやれ。それがこの子の父であるお前の仕事だろう」
「……」
「尻毛布、交渉は苦手だがなるべく高く売って、この子を里から出し、求める知恵を得られる道を探そう。きっと大いなるものを、将来この子はガラトンにもたらしてくれるはずじゃ」
「……はい」
父が袖で目元をぬぐった。オリオンの目からも涙がぽろぽろと零れた。
しばらくその様子を見ていた族長が、きりりとマリオさんを見た。
「『初めましてこんにちは』は外の言葉で何と言うのだマリオ。わかると言ったな」
「はいもちろん。『オトトイキヤガレ』」
「「「「「オトトイキヤガレ!」」」」
「『本日はよろしくお願いします』は」
「『コノスットコドッコイ』」
「「「「コノスットコドッコイ!」」」」
「よし」
族長が重々しく頷いた。
「過去のことがある。最初の挨拶が肝心だからな。皆で、今の我々が友好的であることを全力で伝えよう。その後の商談での通訳は頼むぞマリオ」
「任せてください」
大人たちが立ち上がったのでオリオンは皿の上のものを大慌てで片づけた。
横並びに立っている大人たちの一番端っこに並ぶ。
すっと腕を広げたのち肘から先を地面と水平に重ね、深くゆっくりと頭を下げる。ガラトンの一般的な礼だ。
顔を上げるとフーリィは消えていた。
「よし」
父が呟きオリオンの肩に手を置く。
「涙を拭けオリオン。勉強のことはよくわからんが、王様の使いが許せば外のことを聞いてみろ」
「いいの?」
「いいかはわからん。相手次第だ」
「うん」
外から声がした。答える族長の奥さんの声がする。
やがて扉が開いた。小柄な奥さんの後ろを男が一人歩んでくる。
オリオンはこんなに背の高い人を生まれて初めて見た。
長くて綺麗な、やわらかそうな髪の毛。一目で優しいとわかる、穏やかな顔。
立派な体、それを覆う襟の高いほつれひとつないきれいな紺色の服がかっこいい。
男は両手を広げたのち肘から先を地面と水平に重ね、長い髪を揺らして深くゆっくりと頭を下げた。
「初めまして。アステール王国王宮文官、ラント=ブリオートと申します」
彼はオリオンに目を留め、にこりと笑った。目元と口元に微笑みを残したまま、正しく族長に向き直り続ける。
「本日はどうぞよろしくお願いいたします」
穏やかな優しい声でオリオンたちの言葉を上手に使うその輝くような王様の使者を、オリオンは頬を染めて見上げている。




