9皿目 ガラトンの子オリオン1
リャンパカという動物がいる。
高い山を好んで群れで住むおとなしい動物で、深い響く声でバア、バアと鳴く。
毛は白銀。光に透けるととってもきれいだ。
リャンパカから毛を刈って織物にして自分たちの服を作り、余った分を外に売る。野菜を育て、狩った肉を食べる。そうやってオリオンの住む山脈の里ガラトンの民は生きてきた。
数年前オリオンの父が新しい織物を開発した。
なんとリャンパカの尻の毛だけを集めて織った織物だ。
リャンパカのお尻は柔らかい、とまだ幼かったオリオンが言ったのを聞いて、試しにそこだけ集めて織ってみたらしい。
これが不思議なことに他のどの織物よりも滑らかで美しく、保温性の高い布が織りあがってしまい皆でびっくりした。
柔らかで、うっとりするような肌触りだ。光に当てると、やっぱり白銀色に輝く。
最初は『リャンパカの尻毛布』と名付けたらしいが女性陣に猛反発を食らい、新雪布に名前を変えた。
そしたら、売れたらしい。とっても高い値段で。
売るたびにどんどん売値が高くなっていって、信じられないことに王様までその評判を聞きつけて、今日王様の使者が視察に来るそうだ。朝から父さんはソワソワソワソワ落ち着かない。
伝統のかっこいい服で正装している父を、オリオンはかっこいいなあと思いながら見つめている。父の跡継ぎの長男だから、オリオンも子供の正装をして、王様の使者が来るところを見ていいらしい。お祭りのときにしか着ない、立派な赤の衣裳だ。
自分もいつか父のように、たくさんのリャンパカを育て、毛を刈り、糸をつむいだり布を織ったりする女の人たちをまとめて、一枚の布を作り上げる人になるのだと思う。
だけどオリオンには最近気になることがある。ガラトンと外を行ったり来たりして外から食べ物やおもしろいものを持ってきてくれる、なんでも屋さんのマリオさんがくれた本だ。
字は読めない。ガラトンは大昔戦争に負けたときにアステールになったところで、使っている文字も言葉も、アステールの一般的な言葉とは違うのだという。
その本にはたくさん数字が書いてあった。数字の書き方は一緒だ。
数字がたくさん横並びにずらずらと書いてあり、次の頁に一見同じような数字の列が書いてある。
地面に書いてみて気づいた。次の頁で前の頁より増えている数字は、前のページの数字の列が出した数字なのだと。
簡単な計算くらいオリオンはできる。もう7歳だ。数が数えられなければリャンパカの管理もできないから、ガラトンの子は数を足したり引いたりするのはみんなできる。
でもこれはそんなものじゃないとオリオンは気づいた。もっと難しい、もっとすごい、何かだ。
よくわからないのに見ているとドキドキする。規則性に気づくと鳥肌が立って震えるくらい嬉しくなる。
きっと数字の説明をしているのだろうこの文字が読めればいいのに、とオリオンは悲しくなる。マリオさんはきっと外の言葉を話せるはずだから、今度聞いてみようと思う。
父はよくマリオさんのことを『半端者だ』と言ってけなす。昔からリャンパカの管理も毛刈りも下手で、飽きっぽくて何をやらせても適当で、『事の重要性も前後も考えないホラ吹き』で、すぐにどこかに飛んでいく綿毛のような男だという。でも馬に乗るのだけは誰よりも上手なのだそうだ。この里しか知らないオリオンは、ここと外を行ったり来たりしているというだけですごいとマリオさんをこっそり尊敬している。
今日はせっかく遠くから偉い人が来るというのに、族長と、副族長と、父と、なぜかマリオさんのいる部屋の中は、誰かが死んだ日みたいにしーんと静まり返っている。
どうしてだろうとオリオンはそわそわした。きっといいことのはずなのに。
「……やっぱりやめよう」
「怖気づくなホセ」
「やめよう。きっといい話なんかじゃない! ずっと放っておかれた土地に、なんで今更王の使者が来るんだ!」
「お前の尻毛布のおかげだろうて」
「族長、女たちに袋叩きにされます。新雪布とおっしゃってください」
「うむ、そう新雪布。あれをまとめて買いたいという話だろう」
「そんなのわざわざ使者を立てずともただ書で命じればいいだけの話ではありませんか。きっと何か良くないことだ。外から来るものは、悪いものだけだ」
「落ち着け。決めつけるなホセ。息子が見ておるぞ」
「……」
立ち上がっていた父が座った。じっとオリオンを見ている。
「……駄目だ。これは子供たちのためでもある。きっと良くないものがくる! 子供たちを守らにゃならん! 扉に鍵をかけろ誰も入れるな! 外からは魔物しか来ない!」
「そんなことないよ父さん。外にはきっと、面白いものがたくさんあるよ」
思わず言ったオリオンを父は睨みつけた。
「お前が暇さえあれば地面に書いているあの妙な数字のことを言っているのか? あれこそまさに魔物だ。小さな頃からよきリャンパカ使いでよき毛の見分け手だった俺の息子はあれに魅入られ、この月だけで散歩中のリャンパカを2頭も見失った。こいつなら間違いなく俺のあとを継いでくれると信頼していた、俺の真面目な息子がだ! 王の使者など入れてみろ。きっとこの子の心は今度こそ外にとらわれここを捨て綿毛のように飛んでいくに違いない! そんなことさせるものか! オリオンは俺の息子だ! 俺のリャンパカを継ぐ男だ!」
「……」
オリオンは泣きそうになった。確かにありえないことにオリオンは2頭、自分の番のときに大事なリャンパカを失っている。
族長も副族長も、何も言わずにオリオンを見ている。
マリオさんに文字を教えて欲しいなんて言えそうな状況じゃなかった。そんなことを言えばきっと父は激怒して、もうマリオさんを家には入れなくなることだろう。
「……」
涙が落ちた。リャンパカを見失ったのはオリオンの落ち度だ。責めはオリオンが受ける。でも新しいことを知りたいと思うこと、ここにないものを欲しがることは、そんなに悪なのだろうか。
こんなふうに言われていても、オリオンはどうしてもあの本を読みたい。どうしてそんな答えが出るのか、そこに書いてある文字さえわかればすぐにわかるのにと悲しくなる。
「ガラトンの男が涙など流すな!」
「……勉強したい」
「あ?」
「アステールの文字を勉強したい! 言葉を勉強したい! あの数字の意味がわかるようになりたいんだ!」
「……」
父の顔が真っ赤になって、拳がブルブルと震えている。
父の言う通りオリオンはずっと真面目だった。父の言葉に歯向かおうとか背こうなど一度も考えたことがなかった。
確かに魔物に魅入られたのかもしれない。オリオンはガラトンが好きだ。家族が好きだ。リャンパカが好きだ。だけど今オリオンはどうしてもこの胸に灯った炎のようなものを手放そうとは思えない。信じられないほどの熱が体のなかを巡っている。
「なんで『わかりたい』って思っちゃダメなんだ! 僕は知りたい! ここにない何かをもっと知りたい! もっとたくさんのことをわかりたい!」
「……この……」
父が右手を上げた。ぶたれるのだと思った。弟のヘクターはいたずら者で、よく悪さをしては父に叩かれているが、オリオンはよほどのことがない限りぶたれたことはない。
今ぶたれたならどうなるだろうとオリオンは思った。
なんだか胸の熱のなすままに、父の言うように、綿毛になって、火の粉になって飛んでいくような気がした。父の子の立場も、名誉の衣装も脱ぎ捨てて。
ぎゅっと目を閉じた。ぼんと音がした。
嗅いだことのない不思議な匂いがして目を開けた。お婆さんが立っていた。背中が見える。
肩越しにお婆さんはオリオンを振り返り、驚きに尻もちをついている父を見た。
「……何者じゃ」
「おでん屋だよ」
漂う香りにくううとおなかが鳴った。




