8皿目 下級役人ホルガー=ベルツ2
「っか~……」
体の薄い若者はランドルという名らしい。うまそうに冷たい酒を飲んでいる。
ごきゅりと自分の喉仏が動いたのをホルガーは感じた。このところ節約のために家で酒を出してもらえないのだ。
「……」
「そんなに見ないでくださいよ。飲みにくいじゃないっすか」
全然飲みにくくなさそうに若者はもう一口酒を飲んだ。
「うっめぇ」
「……君も仕事中では……?」
「いやぁたまには油差しとかないといざってときにうまく動かねぇですから。ねえジェイソンさん」
「ああ。いいこと言うじゃねえかランドル」
「……」
恨みがましくホルガーは酒を飲む二人を見た。職人って、自由でいいなあと思う。
ちらとバーナー老人を見る。小さな杯を、舐めるようにしてあけている。頬が赤い。
なんのとホルガーは皿の上のたまごを食う。くさみがない。今までで食べたなかで一番に上等の、まろやかで奥深い味がする。
串に刺さった肉を食う。こんな上等な肉なんていつぶりだ。柔らかくて、噛み締めると味が出て、うまい。
よくわからない茶色い丸。噛み締めたら汁があふれ出してきた。基本的に柔らかいがときどき歯に当たるちょっと固い何か。あとこれは豆だろうか。いろんな味と食感がする。うまい。汁も飲む。うまい。酒があったらどんなに染みたことか。うまい。酒があったら。ああうまい。ああ今ここに酒があったなら。
「ねえお爺ちゃん」
「……バーナーさんと呼べ若造。最近の若いもんは礼儀も知らんのか」
「バーナーさん」
「なんだ」
「お仕事は?」
「……細工職人だ」
「その顔で?」
「ツラで彫るわけじゃねぇ」
おや、と思った。バーナー老人が普通にしゃべっている。
まあ、わからないでもないなとホルガーは思う。こんなうまいものを食いながら酒を飲んでいたら気持ちも口も緩むだろう。酒を飲んでいたら。
「薔薇とか彫るんでしょう? その顔で?」
「依頼がありゃ彫るさ。なんだってご婦人方はああも薔薇が好きかねえ。なんともこう自慢たらしくて俺ぁあんま好きじゃないね。もっといい花がいっぱいあるだろうに」
「派手でわかりやすいからな。女ってのはどうも派手な方が上だと思っていやがる。男には理解できねえ世界だ」
「まったくだ」
三人とも酒をちびりちびりしながら、まるで昔馴染みのようにゆったりと話している。
酒を飲んでいるからだ。うまい酒を。
「バーナーさん奥さんは? この花壇の花の名前の看板、女の人の字でしょう?」
「……3年前に」
バーナーが手元の酒をじっと覗き込んだ。
「消えた」
「お婆さんは消えないでしょ」
「……消えたんだ。俺はその日風邪をひいて寝込んでた」
「……」
皆がバーナーを見ている。
じっとバーナーは手元の杯を見ている。
「……冬で、雪が降ってた。俺は冬のトノ茸の入ったシチューが大好物で、あいつはたぶん探しに出たんだ。俺の寝ている間に。それで、そのままだ。……帰ってこなかった」
「……」
突然がばと椅子から降り、バーナーは這いつくばり地に額をこすりつけた。
「家をつぶさねえでくれ! もしかしたら、ひょっとしたらそのうちひょっこり帰ってくるかもしれねえだろう? ここに家がなかったら、あいつはどこを探せばいい? 道路が大事なのも、それがあんたらの仕事だってのもわかってる。でも頼むよ。俺はここであいつを待たなきゃなんねえんだ。あいつが帰るところをなくさねえでくれ。頼む。頼む。……頼む」
「……」
「……バーナーさん顔を上げな。ったく、骨と皮じゃねぇか。こんなことしたら体に響くぜ」
「お年寄りにここまでさせるなんて、ホント、役人さんってひどいね」
「待ってくれ。俺がやらせたんじゃないぞ」
「なあバーナーさん。こんなことしたって役人が話を聞いてくれるわけねえだろう。まして下っ端役人なんてお上の言いなりになるしか能のねえ首輪のついた犬なんだ。何かしてくれるかもなんて期待するだけ無駄ってもんだ」
「言いすぎだ! さっきから君たちは何か役人に恨みでもあるのか!」
ダンとホルガーは板を力強く拳で叩いた。
「抜けるだろうが!」
「すいません!」
フーリィにすごく怒鳴られた。すぐに謝る。
二人がバーナーを立ち上がらせ、椅子に座らせている。
3年前の雪深い冬に突然消えた老女が、もう一度ここに生きて帰ってくるはずがないと、本当はここにいる誰もがわかっている。
だが、どうしてそれをはっきりと言えるだろう。これはこの老いた男の、最後の夢なのだ。
目の前に現実を突きつけられるのと、叶わぬ夢を見続けるのは、いったいどちらが酷なのか。楽なのか。
考えたって答えは出ない。正解はきっと誰にもわからない。
「……冷たい酒をください」
「はいよ」
たんと置かれた精緻な硝子杯を持ち上げた。
「おいおいお役人、大丈夫か」
「立場ってもんがあるでしょ」
「役人をなめるな。君たち、頼むから絶対に誰にも言わないでくれどうかお願いします」
「小せえなあ」
震える手で曇り一つない硝子杯を持ち上げ、曇り一つない酒に口をつけた。
鼻にすうっと香りが抜ける。喉を気持ちよく走り抜ける。
ああ、うまい。
そのままごっごっごっと硝子杯を逆さまに傾けるホルガーを、男たちは見ている。
ぷはっと息を吐き、ポケットから出したハンカチでぬぐった。よしもう何も怖くない。
いや訂正する。妻は怖い。上司も怖い。免職も怖い。
だがホルガーは慣れている。妻に怒られるのも、突然の理不尽な命令にも、人々から恨まれ文句しか言われないのにも。理不尽なのが上だとしても、現場でその理不尽を実行するのはいつだって下々の役人だ。税を搾り取ってこいと言われれば搾り取りに行き、ちゃんとやってるかどうか農民を厳しく監視せよと言われれば畦道に張り付いて日に焼かれながら厳しく監視する。罵声や恨み言を浴びて薄くなった髪、出てきた腹。積み重ねてきた報われなかった水の泡になった努力たち。そのなんともしょっぱいもの全てが下級役人ホルガー=ベルツを形作っている。
「よし油は差した。今から俺は役人らしいことをする。ジェイソンさん、あんたのとこの若いのを貸してくれ」
「何するんだ」
「何年この地で下っ端をやってると思う。トノ茸の生えるところはだいたいわかる。ご高齢の女性だ。そう、遠くまではいけなかったはずだ。……皆で彼女を探そう。俺の指示に従うように」
「……」
「……老人の最後の夢を、叩き壊す気か」
「ああ叩き壊すとも。俺は役人だ。安い給料で、みんなから嫌われ憎まれながら、役人らしく上に言われたことにヘコヘコしながら従う。今回俺はここに道を作るため、住人に立ち退きをさせよと命じられた。俺はバーナーさんを説得し、その職務を全うする。責めるなら俺を責めろバーナーさん! 君たちもだ。さあ動け。役人ホルガー=ベルツが職権をもって君たちに命じているぞ!」
「……」
「……」
立ち上がる男たちを、バーナーが呆然と見上げている。
「……見つかった」
ジェイソンが言った。
沈黙のまま、男たちはその場所に向かう。
木の下だった。
上には崖があった。
そのままじゃ忍びないと誰かが包んだのだろう。きっと見つけた彼らの持っていた中では一番に綺麗だったのだろう布に、白いものが包んである。
「……これを手にしていたそうだ」
「……」
ジェイソンがバーナーに鎖の着いた銀細工を手渡した。
鳩と、小さな花が彫ってある。
ホルガーは目を見開いた。そこに刻まれた鳩があまりも活き活きとしていて、今にもポウと鳴いて飛び立ちそうだったからだ。
「……七色鳥でも、天上鳥でも彫ってやると言ったのに、あいつは鳩がいいと言いやがった」
バーナー老人がその表面をじっと見ながら、ぽつりと言う。
「……花だって、なんだって彫ってやると言ったのに、地味なエスニダがいいと。……そういう女だった」
バーナーの年老いた皺だらけの頬を、涙が伝い落ちていく。
彼は布に包まれた妻の骨をじっと見る。
「……寒かったな。怖かったなあ。……ずっとこんなところで、……ひとりで、ずっと、寂しかったなあ……」
バーナーが膝をつき、そのまま皆に向かって頭を下げる。
「本当なら俺が探してやらにゃならなかったのに、見つけちまうのが怖くて、できなかった。……妻を見つけてくださって、ありがとうございました。これでようやく、こいつも天の国に上がれる。俺もそのときが来たら安心して、なんの心配も、心残りもなく行ける。あいつならきっと、門のところで俺を待っててくれるから。……ありがとうございました」
ずっ、と男たちは鼻をすすった。
バーナーがホルガーを見上げてまた礼をする。
「ご面倒をおかけしました。すぐに立ち退きます。荷物をまとめるのに、1日もらってもいいですか」
「……ジェイソンさん、このあたりにかかるのはもうすぐですか?」
「まだまだ。一週間はかかる」
「だそうです。ゆっくりまとめてください。……思い出がいっぱいの、大切な家なんだから」
「……」
ずっと鼻水をすすり、妻の骨を両手に持った老人はまた礼をした。
「……ところで、本当にそれ、爆弾だったんすか」
ランドルが遠慮がちに聞く。
「ああ、ちょうど家に火薬があったから」
「あっぶな」
「なあ、一服していいか?」
「火、いりますかい」
「やめてくれ! どかんする!」
冗談だ冗談だと男たちは涙目を隠すように笑う。
お役人さんってのは冗談が通じねえなあと馬鹿にされて、うぐぐとホルガーは拳を握りしめる。
でも不思議だ。胃が痛まない。
むしろなんだかぽかぽかとするのはあの汁と酒のおかげかなのかな、と役人ホルガーは思う。




