【4】配達局役員ゲルルフ=ヒルトマン
定例の会議が終わった。今日はあまり紛糾することもなく、決まった時間前に解散となった。
あの『天神の涙』輸送があまりにもうまく行きすぎたおかげで、これまであっちでごつんこっちでごつんと衝突し合っていた各部署やら派閥が、今は凪いだように静まり返っている。ともに大きなことを成し遂げたという連帯感がもたらすいっときの平和。さてどのくらいこれは続くものか。
一つの場所にあり続けると必ず徒党を組んで戦うものが出るのが、人間というものの悲しいところである。
「オットー」
書類をまとめている男にゲルルフは声をかけた。
「一杯やらんか」
くいと手を動かす。
「……奥さんが怒るぞ」
「今日は泊りがけで娘の家に遊びに行ってる。つまり俺は今日独身だ」
「じゃあこんなじいさんと飲まずに、独身に相応しい場所にいけ」
「あとでばれたら妻が怖い」
「まだ怒ってくれるなんて、いい奥さんだ」
微笑む男前は二十数年前に奥さんを亡くしている。落ち着きのある、雪の中に咲く花のような、綺麗な人だった。
美しいものを、きっと天は好むのだろう。ゲルルフの妻はきっと長生きだ。
「だから付き合え。じゃないと俺は可哀想に、一人で飲む羽目になる」
「あんまりいい店はやめろよ。落ち着かない」
どうやら付き合ってくれるらしい。立ち上がり並んで歩き出した。
渋い男前が硝子杯を傾けている。氷魔法を使える人間がいるらしく、氷が彼の手のなかでからんと揺れている。
広い木のテーブル。ほどほどに混み合っているが客の年齢層が高いので騒がしくはない。穏やかで、静かな活気がある。
「落ち着いた、いい店だな」
「そうだろう。鶏の焼いたのがうまい」
「任せる。だが脂っこいのはやめてくれ」
「同い年だ。わかるさ」
笑顔のいい中年の女性にいくつか頼み、ゲルルフも杯を傾ける。
やがて到着した、薄い生地にチーズを乗せて焼いたもの、塩だけで味付けられた焼き野菜を静かにつまむ。
「君が嫌いだったよオットー」
「……薄々気づいていたさ」
ゲルルフはこの男に初めて会った日の衝撃を忘れられない。
ゲルルフだって顔は悪くない。背も高い。家も裕福で教養もある。
だがこの男はなんというかそういうものじゃなかった。真新しい赤い制服に着られるようにしている新人たちのなか、纏うべくして纏ったのだと言わんばかりにそれを着こなし背筋を正す精悍な立ち姿に、皆が息を呑んで見入っていた。
真面目で、勤勉で、寡黙。少しも浮ついたところがない。
教えられたことをすぐに飲み込み正確に実行する。地図を正確に確実に頭に入れ、正しい道を鮮やかに走り抜ける。
負けるものかと張り合ったのは数年だ。
こいつにはかなわないとゲルルフは悟った。そして方針を変えた。
この男以上の配達人にはなれないだろう。でも、立場では負けないと。
ゲルルフは口が上手い。おべっかを恥と思わない。人の弱みを嗅ぎ分けるのが上手だ。
上に取り入り出世した。そのためならときに、妻には言えないような汚い真似もした。
いつまでもオットー=バッハマンは現場の配達人だった。赤い制服の似合う、寡黙で優秀な配達人。
ゲルルフは上がっていった。上がって、上がって、上がって。
「……本当に俺たちは現場を見ていなかったんだなって痛感したよ」
野菜を噛みしめる。野菜を甘いと、うまいと思うようになったのは何歳からだっただろう。
「君の初会議での、『失礼、ファラハの馬は空を飛べるのですか?』は最高だった。確かにあの行程は無茶すぎる」
「あれを3日ではどう考えてもありえなかった。だからそういう馬がいるのかもしれないと思っただけだ」
「ああ。真剣に、本気で不思議に思っているのがわかったから誰も怒れなかったんだ。……体面や、派閥の名誉ばかり見て、現場を見ていないと、お前の上げた当然の疑問が長年会議室で椅子にくっついてた重鎮たちの横っ面を引っ叩いた。正直言って痛快だった」
ゲルルフは酒を飲む。
「……君が発言すると、蹄の音が響く。耳を通り過ぎる風の音が、手袋を通して指先に染み渡る冷たい雨が蘇る。俺たちだって昔は、赤い制服を着て走っていたのだと思い出す。……俺たちだって配達人だった。いつ、それを忘れてしまったのだろうと、皆が噛み締めながら思っていた」
「お前が先に手を回して、あとからフォローしてくれるのが実にありがたかった。悪かったな」
「楽しかったよ。目の前にいきいきとした明るい道ができていくのを見ているような心持ちだった」
焼いた鶏肉が運ばれる。皮がカリカリでいい具合に油が抜けているので、うまいのだ。
「こうほぐしてな、パンに挟むとうまい。そのままでも、野菜と一緒にでも食ってみろ。うまいから」
「そうか」
静かにそれを食い、静かに微笑む。
「うまいな」
「そうだろう」
そしてまた静かに飲む。
「……天神の涙。オットー=バッハマンがそこにいたからこそあれはあんなにもスムーズに、何者も取りこぼすことなくアステールの隅々に運ばれた」
「違う。運んだのは全国の勇気ある赤き配達人たちだ」
「そうだ。でも君が彼らに道を作り、背を押した。横で見ていた俺がどんなに誇らしかったと思う」
「何度でも言う。あれは俺のやったことではない。彼らを褒めてやってくれ」
「頑固者め」
「彼らの勇気が、勤勉さが国を救った。俺じゃない。絶対に勘違いしないでくれ」
「頑固者」
もう一度ぐびりと酒を飲み、ゲルルフはポケットから紙を取り出しオットーに渡す。
「なんだ」
「受け取ったな。オスカー=バッハマンの住所だ」
「……」
渋い男前は目を見開いて声を失った。
「オスカー=バッハマン。君のただ一人の息子」
「……何故」
「先日君の休みの日に配達局を訪れた男がそう名乗った。聞くまでもなかった。君とアルベルタ嬢にそっくりだ」
「……」
「今回の話を聞き、君が中央にいることを知ったらしい。会いたいと、ひどいことを言ったことを謝りたいと泣いていた」
「……」
「何故言ってやらなかった。アルベルタ嬢の死に目に会えなかったのは、赤と難所ばかりのエストトールで、配達人が2人死んで1人病気で、つぶれそうな新人達をかばい昼も夜もなく働かなくてはならなかったからだと」
「……言い訳だ」
「言い訳を聞きたいんだ。わかってくれと必死になって説明してほしいんだ。君は寡黙すぎる!」
「……」
「『母さんはあんたが殺したようなもんだ』『俺は配達人になんて死んでもならない』。そう言って家を飛び出してそれっきりだというじゃないか。そこを訪ねろオットー。一つの店で下積みから根気強く勤めて、遅い結婚をして、今は子供が三人だというぞ。仕事を持ち、家族を持ち、初めてあのときの父の気持ちがわかった気がすると、彼は言っていた」
「……」
「嫌だというならそれを破れ。住所を見れば君なら一瞬で地図に印がつくだろう。見ずに破れ」
「……手紙を?」
「……」
「配達人の目の前で?」
「……」
目を合わせ、やがてくっくと笑った。二人で。
鶏肉と野菜をフォークで刺し、口に運ぶ。
「もちろん、君ができないとわかっているから言っている。俺から策略と手回しをとって何が残る」
「……丸くなったなゲルルフ」
「……油っぽいものが食えず野菜の味が分かる程度にはな。どんなに汚れてもくたびれても張り合っても、結局男は、かっこいいものが好きなんだ」
「……」
「必ず訪ねろよオットー。いつまでもかっこいいままでいられると思うな。目尻を下げた孫バカの爺さんになってしまえ」
「ありがたく受け取ろうゲルルフ」
「そうか」
「……役員に俺を推してくれたこと、感謝する。きっと俺の知らないところで色々動いてくれていたんだろう。君が先に道を作っておいてくれたから、俺はそこを旗印を掲げて走れた。……先ほどの発言を訂正する。天神の涙は現場の皆と、道を開こうとあちこちで尽力してくれた君を含む、届けたいと心から願う全ての者の尽力で国の隅々にまで届いた」
「……」
ゲルルフはちょっと目頭をつまんだ。
あの日頭に焼き付いた精悍な赤色は、何年経っても、何十年経っても色褪せてくれない。
「やめてくれ」
「そうか」
「いやもうちょっと言ってくれ」
「もうない」
「あるだろう」
「今ので全部だ」
「あるだろう」
「ない」
うまいものをゆっくり食い、ゆっくりと酒を飲む。
もう若くはない。だが枯れ切ってもいない。
かつて大嫌いだった男前を眺めながら、あと数年。会議室で、後進たちのための道を作って行こうではないかとゲルルフは思う。




