4皿目 令嬢カロリーナ=フランチェスカ
今日も今日とて新しいお狐さんを睨んでいる。
供え物をちくわと厚揚げに変えたのは、なんとなくである。
春子は睨む。睨みつける。
初めが肝心だと春子は思っている。
パン、パン
目を開ければ夜だ。立派なお屋敷の門の前だった。
大きな荷物を持った若い娘が、これから門にかけようとしていたのだろう手袋に包まれた腕を伸ばしたまま、呆然と春子を見ている。
「……どちら様?」
「おでん屋だよ」
ちいっと放った高らかな舌打ちに、近くの木からギャアと鳥が飛んだ。
高そうな服を着た高校生くらいの娘がくるんくるんの茶の髪を揺らし、長いまつ毛を瞬いて物珍し気におでんを見ている。
「本当はこんなことしている場合じゃないのだけど……でも仕方ないわよね。素通りしたらなんだか罰が当たりそうだし」
「そんなに暇じゃねえや。食わないならお家に帰んな」
「いいえ帰らないわ。私これから家出するのだもの」
けろりと娘は言った。体の横に置いた大きな荷物をポンポンと叩く。
「とっておきの服も、ちょっとした金目の物も、執事のスチュアートのへそくりもしっかり入れてきたわ」
「えげつねえ」
「一人娘だもの。これくらいもらったって罰が当たらないと思うの。このあたたかそうなものは、いただいてもいいの?」
「食いたきゃ食いな。1度に3種までだよ」
「ええっと……たまごと、この白いのと、この野菜」
「はいよ」
ひょいひょいひょい、とたまご、はんぺん、大根をよそう。からしを付けて、汁を注ぐ。
「甘いもんは好きかい」
「もちろん。嫌いな女の子なんてこの世にいるのかしら」
「どうだろうね」
いなりをつまんで皿にちょん。
春子はこの娘を子供だと判断している。
不思議そうに大根を割り、ぱくりと食べ、娘は頬を赤くした。
「おいしい!」
「そりゃよかった」
「お魚のお味がするわ。それに深くて、複雑な何か」
「舌が肥えてるじゃないか」
「当たり前じゃないの。フランチェスカ家のご令嬢だもの」
「ふうん」
「まあ、それも今日までだけど。明日から私はカロリーナ=エイマーズになるんだから」
ふふっと髪を揺らして笑って娘は頬を染めた。
春子は先を促さない。
こんなのは黙ってろと言っても勝手に話し出すからだ。
恋に溺れてる最中の若い娘のぴいちくぱあちくした口を止めることなど、お釈迦様にも閻魔様にもできやしない。多分舌を抜いたってしゃべるだろう。
「アルバートとは、半年前に出会ったの。短いと思うかしら? いいえ時間なんて関係ない。一目で運命の相手だってわかったわ。アルバートもそうなんですって。彼の横にいると彼しか見えないの。彼の声しか聞こえないの。どこで、何をしていても楽しいの。地面に足がついていないみたいにふわふわするの。私、こんなの初めて」
目をきらきらと輝かせ頬を染め、うっとりと娘は言う。
「こんなものしか贈れなくてごめんって恥ずかしそうにしながら、石のついたペンダントをくれたの。私、こんなにうれしいプレゼント貰ったことないわ」
自慢するように襟元から、小さな赤色の石がぶら下がった鎖を取り出し春子に見せる。
「ご存じだと思うけど、ランスリズマという石なの。決して割れない愛の石。彼の三月分のお給料がかかったそうよ。あ、仕事は今はどこかのお店で下積み中だけど、いずれは服のデザイナーになりたいらしいわ。まだお金がないから高い服は着ていないけど、才能がある人ってやっぱりセンスがあると思うの。普通の服を着ていてもどこか垢ぬけていて。そのへんの貧乏人とは違うわ。目元も、鼻筋もすうっとしていて涼し気で、品があるのよ」
「へえ」
娘は嬉しそうに語りながら、はんぺんを噛んだ。そして驚いたように目を剥く。
「魚の味なのに……どうしてしゅわってするの? こんなに中が真っ白なの?」
「白い魚のすり身に、山芋と卵の白身を混ぜて作るらしいね」
「……どうしてそれを混ぜようと思ったのかしら」
「さあね」
「……それを混ぜてこのしゅわしゅわを作ろうと思った人の気持ちがわからないわ……まあ、ただの人には無理よね。発想がとっても不思議」
「そうかい」
「美味しくて、楽しい」
はんぺんをぱくぱくと娘は食べた。
「……お父様とお母様に言ったの。心から愛している方がいるから、父の勧める相手ではなく、その方と結婚したいと」
「……」
「駄目ですって。私はフランチェスカ家の一人娘だから」
「……」
ぽんぽん撫でていた鞄を、今度は切なげに撫でた。
「父の選んだ、フランチェスカ家を継ぐにふさわしい夫と、私には結婚する責務があるのですって。人生経験の少ない私ではなくお父様の目が選んだ殿方こそが私を必ず幸せにしてくれるのですって」
「……」
悲しげな顔で娘はたまごを割り、食べ、汁を飲んだ。
いなりをひょいと食べ、今度はにっこり笑う。
「甘くておいしい」
「そうかい」
「もう一つ食べてもいいかしら?」
「はいよ。おでんはどうする」
「白のしゅわしゅわをもう一度。なんだか空気を食べたみたいで、騙されたような気がするのが楽しいから。あとはお任せするわ」
「はいよ」
はんぺん、こんにゃく、昆布。
いなりをちょん。
若い娘らしい旺盛な食欲で、娘は食った。
「……だから今から家出して駆け落ちするわけだけど、明日の朝、屋敷の中がどうなるか私わかるわ」
「へえ」
「空っぽのベッドを見てメイドのメアリーがまず叫ぶでしょうね。ニワトリみたいに。髪をセットしていない寝起きのお母様が駆けつけて、執事のスチュアートがそれでも起きない父を揺さぶって起こすの。メアリーがお父様に私の書置きを差し出す。お父様は蝋をちぎって中身を見て真っ青になる。『ああ、なんてことだカロリーナ! 私の娘! お前がこんなに思い詰めていたなんて! ああどうしてあのときもっと話を聞いてやらなかったんだろう! カロリーナ、帰ってきてくれ私の娘!』」
手振り付きでやってから、娘は皿からこんにゃくを選んで口に運んだ。
「……お母様はメアリーとスチュアートに言って私のクローゼットを確認させる。そして叫ぶわ。『ああなんてこと! どうしてあのネックレスも持って行かなかったのカロリーナ! あれはお前に譲るつもりだったのに! ああ、おなかの薬も置いていったのねカロリーナ! あなたはすぐにおなかを壊すのに!』……あんな大きな宝石のついたネックレスを若い娘が売ったら怪しまれるに決まってるじゃない。おなかをすぐに壊したのは小さな頃だけなのに、お母様は今でもすぐ私にあの苦い薬を飲ませたがるの」
昆布を口に運ぶ。噛みしめ、眉を上げる。
「あら、どうやらこれが黒幕ね」
「ご名答。種類は違うけどね」
「当たった」
嬉しそうに娘は笑う。若い娘の表情は、くるくる変わって忙しい。
「スチュアートが自分の部屋の引き出しを引いて、こつこつ貯めたへそくりがないことに気付く。代わりに彼がずっと欲しがっていた素敵なネクタイが入ってる。『やったなあのいたずらお嬢様!』と彼は叫ぶ。次の日から皆、私の部屋で立ち尽くすでしょうね。そうすれば、私が帰ってくるような気がして。お母様はきっと泣きながら、家族の肖像画の私を撫でるわ。お父様はあの日娘の願いを聞き入れなかったことを一生、きっと死ぬまで後悔し続ける。スチュアートはネクタイをきっと一度も使わない。私の世話係だった親切なメアリーは大きな荷物を持って里に帰るの。兄夫婦の暮らす実家に、彼女の居場所なんかないのに」
さっきまで笑っていた娘は、泣き出した。
泣きながらはんぺんを割り、口に運ぶ。
「……本当に、不思議。しゅわしゅわ、真っ白。騙されてるみたいで、楽しくて、浮かれた気分になる」
食感を楽しむようにはんぺんを食べきり、汁を飲んだ。
娘は皿を置きしばし空を見て、やがて手を後ろに回し、首からそっと小さな赤い石のペンダントを外した。
「少しこちらを失礼いたしますわ」
「はいよ」
板にハンカチを広げ、ペンダントを置き、娘は足元から拾い上げた石を持ち上げた。
「真実これがランスリズマなら、どんなに小さかろうとも石なんかで割れるわけがない。硬い愛の誓いの石なのだから」
だん、と石が打ち付けられる。
娘はもう結果を知っているようだった。悲し気に微笑んでいる。
どけられた石の影から、粉々に割れた赤いものが現れた。
「……ただの硝子でできた偽物だと、本当は私、最初に見たときからわかっていた」
娘はぼろぼろと泣いた。
「お店で真面目に下積みをしている人間が頻繁に、あんな時間に女と遊べるわけがないことも。私を愛していると言うときの瞳になんの熱も真実もないことも。たびたび無心されたお金が、病気の妹のためなんかじゃないことも、本当は私、ずっとずっとわかっていたわ」
「……」
無言で春子は汁をかき混ぜる。
娘は嗚咽せず、ただ涙を流している。
「……一度でいい。夢を見てみたかったの。騙されてみたかった。ふわふわと浮かれてみたかったの」
ふわふわ浮いてる灰汁をすくって捨てた。
「……恋を、してみたかった。身を焦がすような、ほかの何もかもを忘れてしまうような恋を。フランチェスカの名がなくともできる私だけの恋を」
「……」
「……誰よりも彼こそがフランチェスカの名だけを見ていたというのに。馬鹿でしょう」
「気づいてるだけ、だいぶ上等な馬鹿だろうよ」
「……」
すんと鼻を鳴らして娘は荷物を撫でた。
そっと目を閉じ、息を吐く。
「……お代はどうしたらいいのかしら」
「他でもらうから、いらないよ」
「そうなのね……楽しくて、不思議で、とても面白かった。ごちそうさまでした」
娘はそう言って荷物を背負い、自分の家の門を見る。
「あのままここを開いていたら、私はどうなったかしら」
「さあね」
門の外をもう一人の自分が行くように。その背中を見るように娘はそこを見た。
その横顔の頬からはもう浮かれた『娘』は消え、どこか大人びたように見える。
そうして女はくるりと門に背を向ける。
「さあ、お家に帰らなくっちゃ。早くしないとメアリーがニワトリになってしまう」
「そうかい」
「ええ。私はフランチェスカ家のご令嬢。いなくなったらみんなが困ってしまう大切な一人娘。顔と口だけの、本物の宝石の小道具すら用意できないちゃちな詐欺師に騙されていい娘じゃないわ。すやすやといつものようにベッドで眠り、朝を待ちます。もちろん結婚も、父の選んだ相手と。……ええ、悪い人じゃないわ。何故かお恐い顔で私を見るけれど、私を大好きなお父様の選んだ方だもの。こわがらずにちゃんとお話すればきっと穏やかに、愛を育めるわ」
娘の独り言を聞きながら、春子はおでんに蓋をした。
顔を上げれば目の前にはお狐さんがいる。
えへんと胸を張り、相変わらずにっこり笑っている。
ちくわがない。我慢しきれず食っちまったのか、カラスにとられたか。
なんにせよ
「……お前さん、適当にやってるだろう」
じいっと睨みつけても何の返事もしないので、春子は今日も屋台を引っ張って仕事に行った。




