【2】薬学研究者リーンハルト=ベットリヒ
「エミール」
「……」
「エミール=シュミットさん」
「……」
「エーーミーールーー」
「……」
無視ではない。聞こえていないのだ。
エミール=シュミットは物事に集中すると音が聞こえなくなる習性がある。多分。
目の前で乳鉢で何かをすりつぶしている友人を、リーンハルト=ベットリヒはじっと見た。
『熱雷』の収束とともに、エミール=シュミットは妙薬再生部と新薬開発部の兼務になった。なのでリーンハルトは今エミールと週の半分は同じ部署の隣の席で働いている。
エミールが元いた部署は『妙薬再生部兼相談室』に名を変え、三老人は天神の涙以外の妙薬の再生を探求しつつ、相談役としてそこを訪ねる者たちに日々知識を与えている。
「もう昼過ぎだ。飯行こうエミール」
「……」
「……こないだの痛み止めの助言の礼に、一枚肉ランチをおごろうか」
「よし終わった。行こう」
「……?」
随分とタイミングよく返事があった。
まあ、いいかとリーンハルトは思う。
もともとひょろひょろだったエミールはあの大騒ぎで更に痩せた。白衣の袖から寒そうにのぞく手首など、リーンハルトから見ればもはや骨である。
無理もないと思う。あの激動のときが終わったのは、つい二月前だ。
第一級の緊急指令を受け『天神の涙』を作っているときのエミール=シュミットは、どこか神懸っていた。
王の命の重みか、先輩たちに任され託されたというプレッシャーか。薬学研究者としての責任か、エミール=シュミットとしての使命か。それらの何が彼をそうさせたのかはわからない。とにかく傍で見ている者が息を飲むほどの集中を切らすことなく常に張りつめ、正確に、素早く手を動かし、全国の薬師からの質問に連絡機で答えながら彼は製薬を進め続けた。
作業のように食べ、休みながら、妙薬作成の責任者として問いに答え続けながらも手を止めない彼のその姿は、声は、王命というものを背負う重責に擦り切れそうな研究者たちに迷う余地を与えなかった。
緊急指令が解除され久々に各自家に戻ったあと勤務日に出所しないので、上司に言われて家を訪ねたら、彼は寝ていた。帰宅後は飯も食べずに、ひたすら、糸が切れたようにただただ寝ていたらしい。
身分証を見せて家主に鍵を開けてもらって部屋に入り、眠っているエミールを見たリーンハルトは、正直最初彼が死んでいると思った。
何故だかはわからない。ただ生者ならば持っていて当然のエネルギーのようなものが、そこに何一つなかったからだと思う。
熱々の一枚肉ランチをうまそうに頬張るエミールをリーンハルトはじっと見る。
「何か?」
「いや。……給料は上がったんだろう?」
「ああ。人の給料袋から分けてもらわなくても生活できるくらいには。でも、最近家で試作を繰り返しててやっぱり金がない。ヒルクンの蕾は高すぎる」
「……ってことは咳止めの薬か」
「……」
しまったという顔を彼はした。
「……言うなよ」
「誰にだ。喘息の薬なら、今はいいのがあるだろう」
「……高すぎるんだ」
ぼそりとエミールが言う。
「……もちろん、素材が希少で、それを採ってくれる人たちに相応の対価を支払うべきことはよくわかってる。でも、今のあの値段じゃ庶民にはなかなか手が出せない。あれは対症薬だから一回で済む薬じゃない、体が強くなるまで、発作が起きるたびに飲み続けなきゃいけないものなんだ。無理に買い続けたとしても、自分の病が家族を経済的に苦しめていると、今度は患者が苦しむことになる。ただでさえ自分が辛いのに。ごめんなさい、ごめんなさいって思いながら必死で咳を飲み込もうとするようになるんだ。患者の多くが子供なのに。……僕はそれがとても嫌だ。もっと安価な材料で、同じ効果を出す薬ができたらって、あれこれ試して、夢見てるところだ」
「……」
「……こっちの研究は趣味だ。研究所ではちゃんと指定の新薬を研究しているんだから、問題はないだろう」
「ああ」
エミールが茶を飲んだ。
ヒルクン、ヒルクンとリーンハルトは頭の中の本棚を検索する。
「確かサボリラと何かの組み合わせで代用できなかったか?」
「……僕が参照したどの文献にもそんなことは載ってなかった」
「なんだっけなすごく古い文献だ。確か……ああそうだなんでか表紙でヤギが草食ってる本。……ひょっとすると本ですらなかったかもしれない。誰かの覚書のようなものだったかも」
「それは君の家にあるのか」
「ある。うちは本類は絶対に捨てないからな。探せばあるはずだ」
「是非読みたい。探して持ってきてくれないか。できれば今日」
「今日か。わかった」
「給料日だしもう帰ろう君はすぐにそのヤギの本のようなものを探してくれ。これとその本のお礼に夕飯はうちでご馳走する。何食べたい」
「あ、じゃあこないだのシチュー」
「そうか。最近あたたかいし何か冷たい麺料理にしよう」
「なんで聞いた」
「肉も食べたいな……試しに薄切りのを湯通しして乗せてみるか。そうなると味は濃いめがいいね」
「なんで聞いた!」
「じゃあよろしく。僕は乳鉢を洗って、食材を買ってから帰る」
「……ああ」
リーンハルトはエミールをじっと見た。
「何か?」
「……『お前の勘違いじゃないか』とは言わないんだな」
ふっとエミールは笑った。
「言っただろう。小さな頃から筋金入りの英才教育を受けた君は、知識の量はダントツに多い。君が厳格な父から童話すら与えられずに背負わされたそれを、僕は結構信用してる」
「……」
なんだろう。リーンハルトは泣きそうになった。
『医師薬師よアスクレーピオスにはなるな、エミール=シュミットとなれ』
若くして先頭に立たざるを得なくなって一人で皆を率い、そんなふうに言われたエミールは、今少し、なにかとてもすごいもののように皆から一歩引かれて見られている。
でも今ここにいるエミール=シュミットは神でも伝説でもない。彼はただの腹の減った人間で、いつも貧乏な同僚で、わからないことを聞けばなんでもないように教えてくれる、リーンハルトの友人だ。
次に何か事が起きたとき、リーンハルトはもうあんな風に彼を、孤独な神様みたいにさせたくない。
放っておけばどんどん一人で歩いていこうとするこの友を、リーンハルトは追いかけようと思っている。いつかちゃんと横を歩めるように。持っているもの、手にあるものを使って、まだ持ってないものをこれから手に入れて。
一人の薬学研究者として。薬学研究者エミール=シュミットの友として。
『天神の涙』を先頭に立って作る神懸った彼を見て、体中の全ての力を使い果たした死人のように眠る顔を見て、リーンハルトはそう決めたのだ。
「何をしているんだ早く食べたまえ。今日は馬並の速さで帰ってくれることを君に期待してる」
「無理だ」
「しゃべってないで噛む! はい噛む!」
「今日のデザートが俺の好きなトトンだ」
「わかった。仕方がない僕も手伝おう」
「好きなんだトトン!」
「ならはい噛む! しゃべってないで噛む!」
「……」
薬学研究者エミール=シュミットの友として。
合ってるよな? とリーンハルトは嚙みながら首をひねった。
「何を首をひねってるんだそれじゃあまっすぐに落ちないじゃないか。どうした口がお留守ださあ急いで噛もう!」
「……?」
合ってると思う。
多分。
その後家に帰ったリーンハルトは書庫から古いヤギの本を見つけ出し、友人の家に向かった。
この国の製薬史にこれから新たな1ページが加わるかどうかは、若者が持つ本の表紙に描かれたヤギみたいな動物ですら、まだ知らない。
これから向かう部屋に真新しい椅子が一つ増えていることを、道の途中で買った葡萄酒をちゃぷちゃぷ揺らして小走りで歩む若者も、まだ知らない。




