2皿目 女王の御髪係ヤン=バダンテール
髭の手入れの行き届いた爺さんが、おでんを食っている。
大きな荷物を椅子に乗せ、静かにはんぺんを噛み締めている。
「……ふう」
派手な顔のわりに口の重い爺だ。猪口に注いだぬる燗の表面を、じっと覗いている。
「……おかわりをよろしいでしょうか。ダイコンをもう一度お願いします」
「はいよ。他はどうする」
「お任せいたします」
「はいよ」
大根、昆布、こんにゃく。
ほかほかと湯気を出す皿をやはり爺さんはじっと見つめている。
皿を置けば食う。汁を飲む。
そうしているうちに重い口が、アサリの殻のようにぱくりと開いた。
「……わたくしは長年女王陛下の、御髪係を務めておりました」
「そうかい」
「はい。陛下ご戴冠の朝も。トマス王ご戴冠の朝も、エリーザベト様の御髪はわたくしが」
爺さんは自分の両手を見た。
「わたくしのこの手が陛下の御髪を編み上げ、整えました。わたくしのこの手が」
「へえ」
「……」
爺さんは大根を割った。ぱくりと食べ、汁を飲み、酒を噛み締めるように飲む。
「……酒なんて何十年ぶりに飲みましょう。うまいですなあ。実にうまい。濃厚で、複雑で、柔らかい。なんて澄んだ、なんて薫り高い酒か。……このような酒、きっと一生に一度しか味わえますまい。今日という日にこれを頂けるとは、わたくしは果報者です」
「ただの安酒だよ」
「……感謝いたします」
すんと鼻を鳴らして男が昆布を噛む。
「……御髪係は本来御髪を整えることだけが仕事ではございません。軽快な語りでお心を和ませ、楽しませ、有事に向かう陛下をお慰めするのもまた仕事。わたくしにはその技はございませんでした。口が重く、おべっかも言えず。ただただ手を動かすだけのわたくしを、陛下はなぜか長年用いてくださり、お傍に置いてくださった。感謝してもしきれませぬ」
「……」
唇を酒で湿らせ、爺さんは続ける。
長年、胸にあったものを吐き出すように。
「……あれほどの美貌を持ちながら、陛下は常にご自身を律しておられた。生花を飾り付けるような華やかな髪形が貴族に流行ったときも、華美を嫌い過度を嫌い、常に清廉であることをお望みであられた。……わたくしは飾りたかった。我が君のお美しさを、もっと華やかに。ご自身のご結婚式のときでさえあの方は浮かれず、騒がず、やはり律し続けておいででした。あの方のその清廉な美に最期まで気づかなかったかの男の愚鈍さには呆れるばかりでございます」
「……」
そこまで言って爺さんは猪口の酒を干した。
無口な男ほど酔えばよくしゃべるのはどこもいっしょだ。
「おかわりいるかい」
「はい。ちょっと熱くなりすぎました。冷たいのをお願いします」
「はいよ」
とっとっとっと……一升瓶がいい声で鳴きながらコップに酒を吐く。
「はいおまち」
とんと置いたコップを爺さんが唇を尖らせながら迎えに行く。
「……っあ゛――……」
はいはい極楽極楽。
「……御髪係などいつ必要になるかわかりませんので。酒はずっと、ずっと自らに禁じてまいりました」
「へえ」
「……陛下に休日などないのだ。突然の有事に、陛下を乱れた御髪で国民の前に立たせることなどできません。常に、いつでも陛下を間違いなくお美しく飾れるよう、ずっとずっと控えておりました。わたくしの人生は常に、陛下とともにあった」
「へえ」
「……だがそれも終わった」
赤らんだ頬を、涙が落ちていく。
「陛下は最後までご立派であらせられた。トマス公に冠を授ける女王陛下の御尊顔の、なんと晴れやかで、美しかったことか。あのお顔を見られたわたくしどもは幸せであった。トマス王万歳、トマス王万歳の声の中、わたくしは心で叫んでおりました。エリーザベト様万歳、エリーザベト様万歳、我らが永遠の女王陛下万歳! いくら冠を脱ごうと、かの方こそが我が人生の唯一の女王陛下であることは変わりございません。陛下御退位に際しわたくしも職を辞すことをお伝えいたしました。わたくしは歳で、新王は御髪をお結いにはなられませんから。高位の貴族からの御髪係への声掛けはございましたがすべてお断りいたしました。女王の御髪係ヤン=バダンテールは、永遠に女王エリーザベト様の御髪係なのだから」
噛み締めるように爺さんは泣いた。
酒のコップを持つ指は、爺さんらしくなく滑らかだ。
「幕が開き、そして美しく降りた。そのすべてを御髪係ヤン=バダンテールは見たのだ。なんの後悔もありはしないはずなのに、やはり寂しい。終わりとは常に、どんなに美しくとも、いや美しいからこそ寂しくて切ないものです。それがまた誰かの、別の物語の始まりだと知っていたとしても。トマス公はきっと良き王になられましょう。心よりのご信頼を置けるトマス公がいらしたからこそ陛下はああもお美しく微笑みながら幕を引けたのだ。無論かの方を恨みはしておりませぬ。どうかそのご治世に光あれと心より願っております。……それでもやはり、胸が寂しい。爺さんとは困ったものですな」
そしてゆっくり、ゆっくり爺さんは食う。
酒を飲む。
ときどき息を吐き、おでんを見て、遠くを見る。
ちらりと春子は爺さんの横の大きな荷物を見た。
「これからどうするんだい」
「実家に帰ります。もう誰も生きておりませんが家だけはありますので。自分で言うのもなんですが、すさまじい田舎でございます。これまでの労を労うと、もったいなくも破格の退職金を頂戴いたしましたので、あとはゆっくり、のんびり畑でも耕して死を待ちましょう」
ハンと春子は笑った。
爺さんがぱちくりする。
「何か?」
「夢見るのもいいかげんにしな。そんな手で畑が耕せるかってんだ。ハサミと櫛より重いもん持ったことがあるのかい」
「……」
男は自分の両手を見た。
「……」
春子を見る。
そして吹き出す。
「……無理ですなあ」
「無理だろうねえ」
くっくっく、そしてわっはっはと笑った。
ひとしきり笑って、爺さんは肘をつく。
「ああ困った。ではさてどうしよう。どうやって残りの時間をつぶそうか」
「爺さんになってからが長いんだ。あんたみたいな口が重いのが家にこもってるとすぐ惚けるよ」
「……趣味もない、できるのは髪結いだけ。さてどうしたものか」
「なら髪を結うしかねえだろうよ。どんな田舎でも、奥さんたちと子供はいるだろう」
「……陛下の御髪係が、田舎で髪結いを?」
「悪いかい」
じっと爺さんは己の手を見た。
その手でコップをつかみ、酒を飲む。
「悪くありませんな」
そうして笑った。
「これもまた幕開けでございますか?」
「そうらしいよ。『終わりは始まり』だとよ。酔っぱらいの戯言だけどね」
「……さようでございますか」
爺さんは酒を揺らしている。
「……望む者の髪を結い、見込みのある弟子でも取って、未来の御髪係を育てるのも悪くはございませんね」
「金があるならできるだろうよ」
「ええ。ございますとも。果たして使い切れるかどうか」
「死にゃあ持ってけないんだ。生きてるうちに使っちまいな」
「そうですね」
爺さんは吹っ切れたかのように笑って立ち上がり、大きな荷物を背負った。
「ご馳走様でした。実に美味でございました。お代はいかように」
「他からもらうからいらねぇよ。多分な」
「そうですか。それでは」
背を向けて爺さんが歩き出す。
春子はおでんに蓋をする。
気が付けば新しいお狐さんの前だった。
ぎりりと歯を噛み締めながらにらみつけ、サッと振り返ってお代用のざるを見る。
きっかりさっきの爺さんが飲み食いした分の金がそこに置いてあった。
「……きっちり引継ぎしてるじゃねぇか」
さらに腹立たしくなって舌打ちし、新しいお狐さんを睨みつける。
だがやっぱり何も言わないので、春子は屋台を引きずって、今日も仕事に向かった。




