【1】王トマス地獄の門へ行く
アステールの新王トマスは、黒山の岩盤に膝をついている。
一国の王がとることを許される姿勢ではない。王は神以外に跪いてはならぬ。
だがトマスはそうした。目の前には老いた門番の黒き彫刻が仁王立ちしている。
『門』を見据えたまま、ピクリとも動かずに。
側近のみを連れさらに外させたうえで、トマスはここでこうしている。
「アステール軍部旧物資調達部所属、偉大なる門番、グラハム=バーン」
目の前の高尚な男への敬意を込めて呼ぶ。
「アステールが王トマスである。そなたの長きにわたる献身、心より感謝する」
ゆっくりとトマスは頭を下げた。しばらくその姿勢を保ち、そして立ち上がった。
じっと老いた門番の漆黒の顔を見据える。
彼の周りを無数の白い花が埋めている。シャルディスの名を持つこの花は、本来は棺桶に入れられる死者への手向けの花だ。柔らかく甘そうな花弁を持つ花は地上ではまったく香らない。天の国の門に近づけば近づくほどにそれは強く香り、そのあたたかき国に行くべき善き者を門へと導くという。
彼の死を受けて多くの者がこれを手向けにここに来た。いずれも国の関係者だ。まだ彼の存在は一般には明らかにされていない。訪れた者はどの者も膝を折り、静粛に厳粛にその門と門番を見つめたという。
トマスはその先にある地獄の門を見る。さまざまな者たちの苦しむ顔が、暗く、今にも叫び出しそうにトマスを見つめている。
話に聞くだけだった地獄の門のそのあまりの禍々しさにトマスは思わず眉を寄せた。
確かにこれはこの世のものではないと、一目でわかる代物であった。
中でうごめく『何か』が今にも這い出しそうな空気が放たれているのを感じる。
老いた門番が臆することなくそれをじっと見据え、抑えている。
よくぞ、と思う。
よくぞ50年、たった一人でこんなものを狂いもせずにこの男は見据え続けた。
そしてこれからも彼はこれを見据え続けるのだ。
あたたかき光に満ちた彼のための天上の国を捨てて。
香らないシャルディスに囲まれて。門番は今日も門を守っている。
「セレンソン」
「は」
手前で背を向けさせ控えさせていた補佐官を呼んだ。
補佐官の手には、第一級の金の勲章と白き花がある。
「……グラハム=バーン。そなたがこういったものを喜ぶものではないと知っている」
トマスは勲章をセレンソンより受け取り、そっとグラハム=バーンの肩に下げた。
「だがしかし我々は愚かにもこのような形でしかそなたの偉業を称えられぬのだ。許せグラハム=バーン」
王トマスが王として与える初めての勲章が、黒き門番の胸に輝いた。
黒く硬く冷たい肩を王の手がそっと撫でる。
「許せ」
若き補佐官が、その光景を頭に焼き付けようと唇を噛み締めながら見据えている。
やがて彼が跪き、祈りながら花を供えるのをトマスは黙って見つめた。
「……文官および軍人のオリエンテーションにこの場所を入れる」
「は」
「彼の偉業はひとつの物語として我が国に残す。こういう男がいたことを、小さな子供でも知れるようおとぎ話として。歌として」
じっとトマスは門を振り向いた。
「君の目には何が見えるセレンソン。あの『門』の中に」
「……」
若き補佐官はじっとその宵闇の目で門を見つめている。
「……とても悲しく、とても愛に飢えた、何かがいるように思います」
「……」
「苦しい。寂しい。そっちに行きたい。見て欲しい、もっとよく見て欲しいと、手を伸ばしそう言っているように見えます。まるで幼子のように」
「そうか」
「グラハム=バーン氏はそれを優しく見つめておいでです。彼は見張っているのではない。見守ってやっておいでです。彼らがそれ以上寂しくならないように。父のように厳しく、兄のように優しく」
「……そうか」
トマスには腐臭のするような禍々しさしか感じられない。だがこの者がそう言うのであれば、きっとそうなのであろうとトマスは思った。
「戻るぞ。引継ぎでやることがまだまだ山のようにある。着任早々悪いが今日も泊まり込みだ覚悟はいいな」
「は」
「後悔しているか」
「しておりません」
「そうか」
トマスは歩む。補佐官がしっかりと付き従う。
トマスにはトマスの仕事がある。責任がある。感傷に浸っている時間はない。後悔している時間もない。
歩まねばならぬ。国のために。王に足を止めている時間はない。
今日もアステールのあちこちで、名もなき者たちが喝采を博することなく耐えながら、この国を守っているのだから。
歩み続ける王の背の後ろでは金色の勲章をつけた門番が、白い花に囲まれたままじっと門を見据えている。




