1皿目 春子と爺さん1年生
「や」
「ああ。まいど」
常連の白髪のサラリーマンが白い息を吐きながら暖簾を上げる。
「いつもの頼むよ。ぬる燗で」
「はいよ」
今日は随分早いじゃねえかと言いかけて、春子は客が大きな花束の入った紙袋を持っていることに気づく。
ああ、そんな歳だったかと春子は察した。客はふっと笑う。
「うん、今日で定年だ。気を使われる邪魔者はとっとと花道を渡って来たよ。ここにもなかなか来れなくなるなあ」
「お疲れさん」
大根、昆布、玉子にたっぷりの汁とからしをつけた皿と箸を渡す。
ちょうどよく温まったところでとんと銚子、猪口を置く。
「最後くらい美人に注いでもらえないかな」
「見当たらねぇなあ」
「50年前ならいたかなあ」
「どうだろうね」
男は手酌で酒を注ぎ、くいと空けた。
はあ、と息を吐く。
肩が落ちて、一気に歳をとったような風情である。
「……これにておしまい。サラリーマン人生の幕引きだ。こんな気持ち、若いもんにはわからないだろうな。みんなつるつるでピカピカで。夢に満ちていて。無邪気で。これから何かが始まって、だんだん良くなるって信じて期待してる。体のどこも痛くなくて、酒を飲んでも次の日は朝から元気。若いってのは本当にいいね」
「……」
男が大根を割り、口に入れてはふはふする。
酒を飲む。
「取引先を若手に引き継いできたけど大丈夫かな……まあ、大丈夫なんだけどね。会社なんて誰が抜けたって回るもんだ」
箸が玉子を割る。
汁に黄身が広がる。ずっと男が皿に口をつけて飲んだ。
また酒を飲む。
はあ、と湿った息を吐いた。
「……明日からスーツも名刺もいらないんだな。何度も見送って来たけど、見送られる側はこんなに空しいもんなんだね。いずれ終わることなんてわかり切っていたのに、いざ終わればこんなに寂しい。さて、明日から何をしようか。仕事しかしてこなかったから、明日からは妻の掃除機の邪魔にしかならないだろうなあ」
「邪魔になってないでてめえがかけな。暇なんだから」
「……それもそうだ」
「爺さんになってからが長いんだ。せいぜいうまくやんなよ」
「……そうだね」
客は白い息を吐きながらおでんを食べる。
「明日から、俺も爺さん一年生か」
「張り切って黄色い帽子でも被んな」
「いきなり惚けたと思われる」
「違いねえ」
ふっふと笑って酒を飲む。
客は愚痴を吐き、弱音を吐き、酒を飲む。
おでんを食って汁を飲み、酒を飲む。
「終わりは始まり、か」
呟いて客は帰っていった。
常連客たちが今日ものれんを捲る。
春子はただ来た客におでんを食べさせる。
春子はいつだってただの、おでん屋である。
翌日
春子は今日も仕事の前にあの道を通る。
あの日砕けた石はいつの間にかきれいに片づけられて、ぽっかりと空いた石の台座だけがそこにある。
春子はあの日のあとも、主のいないこの場所にがんもどきを置き続けている。
なんとなくである。
祠の前に立った春子は目を見開いた。
ピカピカの、新しいお狐さんが置いてある。
前よりも一回り小さい。前掛けまで新品で、赤が目に鮮やかだ。
同じお狐さんではないことがわかる。顔が違う。
ふふっといたずらっぽく笑ったその顔が、自分は若くて元気いっぱいだと主張している。
とても嫌な予感がした。
春子は新しいお狐さんを睨みつけながらがんもどきを置いた。
パン、パンと柏手を二つ。
目を開けると、白い石造りの建物の中だった。
ムラッと腹の底から怒りが沸き上がった。
天井に向かって吠える。
「若手に引き継いでんじゃねえぞ!」
「……どちら様ですか?」
出てきた男を春子は睨みつける。
「……おでん屋だよ」
舌打ちしてごきりと奥歯を噛み締めた。
なんだろう。実に、腹立たしかった。




