6皿目 土族のラント
ヤコブ = ブリオートは感心していた。
ただ一人の教え子、ラントの賢さに。
「『カルヴァスバルカンの法則』を理解したか。……12歳にして」
「?」
自分の為したことの意味の大きさを理解せず、にこにことラントは笑っている。
はあ、とため息をついてヤコブは眉間を揉んだ。
「……本当に、もったいない。国の宝になるものを」
にこにことラントは笑っている。
ヤコブ = ブリオートは長年教師を務めていた。
たくさんの教え子を送り出し自らも定年を迎え、やれやれでは集めに集めた本でも読んで残りの人生を過ごそうと思っていたところ、領主から『国境の治安監視人を務めてほしい』との命が下った。
ヤコブが趣味で少数民族の言語を含む数か国語を使えることを、現在領主の下で事務官をしているかつての教え子が進言してのことらしい。おそらく人柄についても大いに盛られて耳に入ったのだろうとヤコブは確信している。
治安監視とは言うが、武力は用いない。端っこまで目の届かない役人に代わり、命を受けた一般人がそれぞれここからここまでと受け持って、文字通り監視し、何かあれば領主に報告するのが仕事である。
有事を見落としたからと言って特にお咎めがあるわけではない。ただ任命されているだいたいがヤコブのような責任感のある暇なじじい達だから細かくネチネチと、薄給にもかかわらず割とよく、ねちっこく目を光らせている。
妻はすでに他界し、娘は嫁に行って3人の子の母だ。一人で引きこもってボケるのもあれだしまあいいかと引き受けたヤコブを、悩ませる者どもがいた。
遊牧民の土族である。
彼らはどこの国にも属していない。隣国との境界線を、あっちに行ったり、こっちに来たり。
国境を壁で覆っているわけではないので、そのときどきの事情で好き勝手に移動して暮らしている。
暮らしているだけならまあいいだろうが、彼らは馬と、たくさんのパルパロを飼っている。
パルパロはヤギに似た動物で、その毛を服にしたり、乳を飲んだりと彼らにとっては財産のような動物らしいのだが。
こいつらがとにかく、水を飲む。草を食う。
土族はその名の通り土を操る天才で、近くの川から水を引っ張ってきて移動式の家の近くに池を作ってしまう。
岩や傾斜もものともしないその技には正直毎回感心しているが、国民ではない彼らに国のものの形を変えられるのは困る。
監視人でなければ見逃しただろう。このへんの草なんかただの雑草、川から水が減るほど灌漑しているわけでもない。目くじらを立てるほどのことでもなく、その質素な、自然とともに生きる姿に、いっそ感心したかもしれない。
だが今ヤコブはアステールの国境監視人だ。立場がある以上一言言わないわけにはいかない。
『土族のトゥルバ=テッラ! いつも言っとるだろう! 頼むからうちの国に新しい池を作らんでくれ! 地図が変わるだろう!』
『パルパロを殺す気か。いつも言ってるだろう。疾く、去れ』
『頼むからあっちの国でやってくれ。私はこんなことで我が国の君たちへの印象を悪くはしたくないんだ』
『もともと地に線などない。後から来て勝手に引いたものを声高に主張するな愚かな男よ』
『トゥルバ=テッラ!』
『疾く、去れ』
こうなのである。
浅黒い肌、男でも長く伸ばし結い上げた黒い髪、たくましい体の不思議な入れ墨。
入れ墨は成人の象徴らしく、子供たちはつるりとしたそのままの肌をしている。
欲のない綺麗な瞳が、闖入者であるヤコブをつぶらに見つめている。
その中にラントはいた。
一人だけ肌の白い、髪の黒くない子供だった。
トゥルバ=テッラが息子だというから、もしかしたら母親はこの国の女性なのかもしれないとヤコブは思った。
そのラントが時折、ヤコブの家に遊びに来るようになった。
馬に乗ると彼らは実に早い。
幼少のころから叩き込まれたのだろうその速さで、国境のどこに家を構えていようとも、彼は飛ぶようにヤコブの家を訪れた。
「先生、解けたよ!」
「どれ。見てやろう」
ヤコブはラントの持ってきた紙を広げる。
言葉も、文字も、ラントはこの一年ですっかり覚えてしまった。
国の名前も、世界の歴史も、これくらいの歳では及びもつかないはずの高度な計算も
いつもニコニコと笑いながら、軽やかにその頭におさめてしまった。
この子は天才だ、とヤコブは思う。
今まで送り出してきた教え子たちの中でも群を抜いて、ラントは賢かった。
地平線の先を見つめる深茶色の瞳は、まだ人智の及ばぬ先の知識さえ、見出すのではないかと思われた。
この賢さを、どうにかしてアステールのため役立ててはくれないだろうかと、芯まで教育者であるヤコブは願った。
だがしかしその願いは、彼に自然とともに生き自然とともにある生活を捨てさせる。
親を、兄弟を捨てさせる。
思い悩み、思い悩み
ついにヤコブはラント自身に、意思を問うた。
遊牧の生活を捨て、アステールの国民となり学校でより高度な教育を、受ける気はないか、と。
もしもラントがそれを希望するならばヤコブの養子としてこの国の籍を作る。学費は自分が負担する、と。
行くならばセントノリス、アーバード、チリスのいずれかだとヤコブは考えている。いずれも平民が行けるなかで偏差値の高い、専門的な教育を受けられる全寮制の学園だ。ラントならばどこでも受かる。
ラントにそれを伝えた。
ラントは考えた。
考え、考え、泣き出した。
勉強が好きだ。もっともっと学びたい。たくさんのことを知りたい。学校というものにも行ってみたい。同世代の子供に交わって、たくさん話をしたい。
でも
家族を、生活を捨てるのが辛い、と
ヤコブと同じところで彼も思い悩み、涙をこぼした。
子供に言うべきではなかったとヤコブは反省した。
これは自分のわがままだ。ラントのものではない。自分のわがままは、自分の口から必要な相手に言わねばならぬ。
そしてラントに馬に乗せてもらい、ラントの父トゥルバ=テッラのもとを訪れた。
『トゥルバ=テッラ、話がある!』
『池なら埋めんぞ』
『お前の息子のことだ。私はラントに高等教育を受けさせたい。私に彼の籍を引き取らせてくれんか。学校に行かせたいんだ』
『土族から何かを奪うことはできん。ラントは俺の息子だ。息子に刻む入れ墨の形は父が考える。何故よその者が口を挟む』
『頼む。この通りだ! この子の頭脳は国の宝だ!』
『断る! ラントは我々の宝だ当たり前のことを言わせるな! 疾く去れ!』
言い争う父と先生を、オロオロとラントは見た。
可哀想にどちらにもつけず泣いている。
『頼む。頼むトゥルバ=テッラ!』
『くどい!』
ヤコブが地に頭を擦り付けたところで
ボン
何かが現れた。
「え? 誰?」
「おでん屋だよ」
ヤコブを見下ろす仁王立ちの老婆がしゃべった。
ヒソヒソヒソヒソ、とヤコブはトゥルバとラントに建国神話を小さな声で説明した。
あれは神様のお使いで、過度に敬う必要はないが失礼のないように。決して気づいていると気づかれないように。名前を呼ばないようにというところだけとにかく強調した。
ウンウン素直に頷いてるから大丈夫とは思うものの、やはり心配だった。
特にトゥルバが。
フーリィ相手に『疾く去れ』をかまされるわけにはいかない。
「なんにする」
『この丸いのはなんだ』
「卵だよ」
『食べたい』
「はいよ」
土族の言葉が通じている! とヤコブは目を見張った。
流石フーリィ。全知全能である。
『パルパロの肉はないのだろうか』
「ねえよ。肉は牛筋とソーセージだな」
『ではそれを頼む』
「はいよ」
トゥルバの前に皿が置かれた。
ヤコブは唾を飲み込んだ。
ほかほかと湯気を出すそれはとてもとてもうまそうである。
『僕も同じのください』
「はいよ」
ラントも言い、同じものが置かれる。
こんなに種類があるのに食べたいものが一致するとは、やはり親子なのだなあとヤコブはほろりとした。
「私は……柔らかいものをお願いしたい」
「はいよ」
丸い白い野菜と、丸い茶色いものと、白い三角のもの。
「大根、がんもどき、はんぺん」
「ダイコン、ガンモドキ、ハンペェン」
ヤコブは正確に繰り返した。
トゥルバとラントが同じ仕草で祈りをささげている。
またほろりときた。
「酒は。冷たいのと熱いのがあるよ」
「ありがたい。冷たいのをもらおう」
『冷たいのをくれ』
トゥルバとかぶった。
見事に形の揃った、精密な文様の刻まれた透明な硝子杯を二つ並べ、大きな茶色い壜をフーリィは傾けた。
とっとっとっとっと……なんとも気持ちのいい音が響く
「はいよ」
置かれた透明な酒を目の高さに掲げてまじまじと見た。
本当になんという透明度であることか。一つの濁りも見当たらない。
ふちまでなみなみと注がれたそれが零れそうになったので、ヤコブはおっとっとと口で迎えに行った。
横のトゥルバは上手に杯を持ち上げかっこよく口に運んでいる。
『「うまい!」』
トゥルバとかぶった。
なんという濃厚さ。
そのふくらみ。
すうっと鼻から息を出し、吸った。
ああ、これは回るやつだ、とヤコブは気が付いた。
慌ててヤコブはフォークを取りガンモドキなるよくわからない茶色い丸いものを刺した。
「あッふぅっ!」
噛んだとたんに口の中いっぱいに広がった熱い汁にヤコブは悶えた。
熱い。
うまい。
熱い。
滋味深い白いふわふわしたもののなかに、細かく刻まれた様々な具材が混ぜ込まれ、色々な味と触感が代わる代わるヤコブを楽しませる。
わざわざ一度油で揚げてあるのだろう。それを汁で煮るとは、なんという発想、なんという贅沢。
口の中に残るものを噛みしめながら酒を運んだ。
水のようなのにとろりと舌にまとわりつく濃厚な味が、鼻に香ってから喉を通っていく。
「あ~……」
ぶるりと背中が震えた。
ヤコブは酒飲みだ。
はっきり言って今最高である。正直死んでもいい。
熱いの冷たいの熱いの冷たいのでいくらでも進む。
皿に乗っている黄色いものを付けたら味が変わることにも気が付いた。なんというさりげない、本人の裁量に任せる最終変化であろう。これもうまい。
ダイコンも最高。ここまでうまい汁を抱きしめた野菜をヤコブは知らない。
ハンペェンはふわふわ。わずかな香りからして魚だろうが、一つの骨も不純物もなく、ふわふわ、しゅわしゅわと口の中を刺激する。
そこにまた酒
『「あ゛~~~~~~」』
またトゥルバとかぶった。
言葉など
国など
文化など種族など関係ない。
うまいものは、ただ、ただうまいのだ。
あれ、なんの話してたんだっけとお代わりした焼き豆腐を食べていたヤコブは思った。
同じことを同時に思い出したらしいトゥルバと目が合った。
「……」
『……』
二人とも硝子杯に残っていた酒をあけた。
「おかみさん、熱いのもいただけますか」
『俺も』
「はいよ」
やがて出てきた細長い陶器を、あちちと持ちながらトゥルバの持つ底に青い丸が書かれた小さな器に差した。
自分の分は自分で差そうと思ったが、トゥルバが差してくれた。
なんでそうしたのか、なんでそうなったのかは、わからない。
でもきっとそうするために、これはこういう形をしているのだろうと思った。
口に運ぶ。
「ああ……」
こうなるのか、と、ヤコブは泣きそうになった。
香りが、味わいが、丸く甘くまろやかに広がっている。
体がふわふわと浮いているような気がした。
じわりと目頭が熱くなった。
うまい。
つくづく、うまい。
『「うまい」』
大人たちは腹の底からしみじみとした。
ずっと考えるように押し黙り、じいっと二人の様子を見ていたラントが、意を決したように言った。
『……父さん』
『うん?』
『心が決まった。やっぱり僕は、学校に行ってみたい。知らなかった新しいものにたくさん出会って、もっと勉強してみたい。どうか許してほしい。先生の養子になっても、僕はずっと父さんの息子だから』
『……』
『……血がつながっていなくても、拾い子でも、僕はずっと父さんの息子だった。入れ墨がなくたって、苗字が変わったって、遠く離れたって、僕はずっと父さんの息子だ。……そうでしょう?』
目に涙を溜めて祈るように己の拾い親を見上げる息子を、トゥルバが力強く抱きしめた。
小さい子供にするように、彼の逞しい手が自分と色の違う髪を撫でる。
『当たり前だ我が息子よ。お前は偉大なる地より賜った、命にも代えがたき我が生涯の宝だ。今までも、これからも、それは永遠に変わることはない。お前の望みならば叶えよう。息子の旅立ちを見送るのが父親の役割だ』
父と子の色の異なる瞳から、同じ透明な色の涙が落ちた。
横で見ていたヤコブは板に伏しておいおいと泣いた。
自らが起こした奇跡にきっと優しく微笑んでいる事だろうと思って見てみたフーリィは、変わらない不機嫌そうな顔で、汁をかき混ぜていた。
ハンペェン……