24皿目 祝宴1
『今日から卒業まで、もう王宮に来なくていい』
トマス公がアントンを氷の目で見据えてそう言った。
あの戦争からひと月。『熱雷』の妙薬『天神の涙』は順調に作られ運ばれ、国民の手に届いた。
薬を持つ配達人たちが薬を求める人の手によって襲撃されることを恐れていたが、それに関しては一件の報告も入らなかった。
それどころか人々の手は団結して道々の大きな岩をどかし、壊れかけた橋を直した。魔術師、冒険者たちが各地に散り、魔物の脅威から配達人たちを守った。その力なき人々は彼らのために食事を作り、休めるあたたかな場所を作り、手に手に星祭りのランプを持って配達人の行く道を照らしたという。
その報告を受けて泣くアントンを、トマス公は静かに笑って見ていた。
これから彼が治め導くアステールの国民たちは国の危機の日、皆それぞれに誇り高く、正しく、実に美しかった。
きっとどこかで大きな狐が金色の瞳で、その光を見ていたことと思う。
薬が予防したのか、あの黒い羽虫が死に絶えたのか、どちらかは不明だがもう新規の感染者の報告はない。薬学研究所への緊急指令は解除され、世界にはようやく日常に戻りつつある。
トマスの戴冠はそれぞれの後処理が終わり一区切りがついてからの牡羊月に伸ばされた。あと二月くらい先だ。それはアントンがセントノリスを卒業し、補佐官候補ではなく正式な補佐官となる予定の月だった。
『…………』
『そんな顔をするなセレンソン。まるで私が君をいじめているようではないか。……クビではない。アントン=セレンソンをセントノリスに返そうと思う。私は君の忠誠に甘えすぎていた』
『……』
『このあとの君の人生は全て私に捧げてもらう。だから私が戴冠し君が正式に補佐官となるまでの間、君はセントノリスに戻りなさい。今回のことで君は私の傍らにある男として十分顔を売った。ゴタゴタうるさい面倒な老人たちもすでにしっかり君にたらしこまれている。君は実によくやった。これはその褒美だ』
『……お寂しくはありませんか』
『寂しいさ。だが君の友人たちも寂しがっているはずだ。あと2月は彼らに譲ろう。君に与えられる最後の自由な時間だと思いなさい。正式に補佐官となったらどうなるか、覚悟はできているなアントン=セレンソン』
『はい』
アントンは笑った。トマスも笑った。
『しばらく君の絶妙な温度の茶が飲めないのは悲しいが、学生期間は二度と取り戻せない時間だ。奪っておいて言うのもなんだが、全力で楽しんできなさい』
『はい』
『今度オルゾ半島で今回の功労者たちと気軽なパーティーを行う。招待状を出すので補佐官ではなく私の客として遊びに来るがいい。一人じゃつまらないだろうから友人を数名連れてきなさい。セントノリスの制服で来るのだよ。君は客なのだから当日私の世話をしないように』
『はい』
『今を楽しめセレンソン』
『はい、トマス公』
そういうわけで本日はセントノリスの制服を纏いここにいる。1号室、2号室のいつものメンバーと一緒に。
「あったかいなオルゾ半島」
「あれが転移紋か。中央から直通なんて便利だな」
「上着脱いでもいいかな。夏服で来ればよかった」
「平気だろ。会場が外だし。正装してない人もいるみたいだし」
「王の主催するパーティーが無礼講なんて初めて聞いた。まあ平民も多いようだから、王の寛大な配慮だろう。言葉通り受け止めすぎないようにな、皆」
「はーい」
わいわいがやがや会場に向かって歩いている。
上着を脱ぎネクタイを緩めているアントンを、フェリクスが見ている。
「なんだい?」
「いや。誰にタイを渡すか決めているのかアントン」
「うん。僕の後輩であり師匠であるロニー=ハンマーに。彼が欲しがればだけど」
「欲しがるどころじゃないだろう。感極まって、きっと泣く」
「決勝で逆転負けしても最後まで乱れなかったエースが?」
「ああ。きっとだ」
式のあと1号室から5号室までの卒業生から、自分が後を託したいと思う在校生にネクタイを渡す。セントノリスの伝統だ。その日胸元が開いている者がその年の成績上級者、学年の皆とは違う色のネクタイを締めている在校生が彼らに見込まれあとを託された者ということになる。
「フェリクスは?」
「馬術部の後輩だろう。欲しがればだが」
「欲しいに決まってるさ。天下のフェリクス=フォン=デ=アッケルマン先輩のネクタイだぞ。一生の宝物だ。僕なら箱に入れて鍵をかけてその鍵をずっと首に下げておく」
「言いすぎだ」
フェリクスが笑う。
彼はすっかり背が伸びて、大人の顔立ちになった。
初めて会った日の、あの険も、隈も、神経質そうな痙攣も今の彼には存在しない。
彼はいつでも礼儀正しい。努力家で、正直で、真面目で公正だ。
貴族にもかかわらず相手の身分を見て相手を見下すことなく、それどころかその繊細さをもってよく人を気遣い接するから、彼は貴族と平民の橋渡し的な役割になっている。卒業したら彼も王家の文官。まだ部署は発表されていないが、彼ならどこでもやっていけるだろうとアントンは思う。少々苦労性なので、それだけが心配だ。
高貴で優し気な顔が、わずかに汗を浮かべて風景を眺めている。
「フェリクスは上、脱がないの?」
「王族のおわすところで正装は崩さない。誇り高きアッケルマンの男だからな」
「アデルは脱いでるよ」
「そうか」
「そうかだってよアデル」
「俺は暑ければ脱ぐ」
「シンプルだなあ」
袖をまくったアデルの腕がアントンの倍くらい太い。
軍部文官を目指すと決めたのに、アデルは軍官学校用にしていたトレーニングをやめなかった。
もう習慣になってしまっているとのことでそれを毎日続け、持って生まれたものもあるだろうが1~2号室では一番たくましい体をしている。
元々大きかった背がぐんぐん伸びて、これまた1~2号室の中ではラントと並んで一番だ。
目つきは相変わらずこわい。でも彼が怒っていないこと、読書中に鳥が肩にとまっても払わないような穏やかな性格であることを、もう学年の皆が知っている。
「軍部にも寮があるんだよね?」
「ああ。独身の男なら強制的に入寮だ」
「僕らはそこまでじゃないけどみんな寮希望だ。安くて近くて慣れてるもの。……楽しいし」
「ああ。……楽しいしな」
二人とも少しだけ黙った。
「忙しいとは思うけど、休みが合ったら遊びに来て。僕は料理もできるようになるつもりだから。みんなに採点してもらうんだ」
「わかった」
「肉が好きかいアデル」
「俺はなんでも食べる。相変わらず野菜と魚が好きなのかアントン」
「そうだよ」
「相変わらず渋いな。だから小さいんだ」
「もっと伸びる予定だったんだ。でも言っておくけど君たちが揃いも揃ってすごく大きいだけで、僕は平均だ」
「平均?」
「……に、あと少しでなる予定」
「そうか」
アデルは優しいのでそれ以上突っ込まない。
微笑みながら日の光に満ちた道を歩む背の高い友人たちを見て、アントンはじわじわと泣きそうになった。
セントノリスが終わる。
夢の先に進めることは嬉しい。でも、別れが辛い。
同じ制服を着てこの友人たちといっしょに歩ける時間は、あとほんのわずかだ。
「何泣いてんだアントン。なんか泣くことあったか? 馬鹿じゃねえの」
「サロの声さえ愛しい……」
「なんだよ」
「好きだよサロ。こんなに大きくなって。こんなにかっこよくなって。あんまり腹黒くはなれなかったけど君はいつでも周りをよく見られるね。人の弱いところがすぐにわかるね。そこをちゃんとよけるように、人に気を遣える男になったね。よしよし、よしよしとっても素敵だよサロいいこいいこ」
「やめろ!」
「ああ愛おしい。ちょっとだけ肩を組んでも?」
「嫌に決まってるだろ気持ち悪りぃ! バーカバーカ」
「あっ……」
「……」
「……」
「……」
「どうぞ」
サロが走り去り、ラントが言ってくれたのでアントンはラントの肩に腕をかけた。身長差があるので、辛いのは傾いているラントの方だろう。
ラントがアントンの涙を見て優しく笑う。
「寂しいねアントン。大丈夫、みんな同じ気持ちだ。残りの日を、できるだけ笑ってみんなで過ごそう」
「うん。ラントはいつも大きくて、広くて、本当にあたたかい」
「土族の男はそうなんだ」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
「そうなんだね」
どんなくだらないことでもいい。中身なんかなくていい。ただ彼らと話していたい。
「ハリー」
「あ?」
「こっちが空いてるよ」
「空いてちゃ悪いのか」
ハリーがかっこよく笑いながら腕を上げ、アントンの肩にかける。
これからも同じ場所で働いていく2人の友に挟まれてアントンは笑う。
「これじゃあ僕が持ち上がる!」
「上げてみるかラント」
「せーの!」
「わー」
アントンがちょっと浮いている。フェリクスとアデルは笑って見ている。サロがちょっと混ざりたそうな顔をしている。
「あれ? ハリーの左が空いてるぞ? ラントの右もだ。おかしいなあ」
「……」
「……」
「空いてちゃ悪いのか?」
やれやれ、と言わんばかりに友人たちが歩み寄る。
「ギャー暑苦しい!」
「また僕が浮く!」
「浮いてろ浮いてろそのまま連れてってやる」
「重い! アデルの腕が固くて重い!」
馬鹿馬鹿しい。やっていることに特に意味はない。
でもここに今こうしていることに意味はある。きっと。
パーティー会場が見えてきた。




