【30】女王の一日8
化粧係が陛下の化粧を直している。
陛下はこれから中央の広間に出て、国民に呼びかける。
全国に声は届けられ、多くの国民がその声を耳にすることになるだろう。
「トマス公もお出になられるのですか」
補佐官候補セレンソンは主トマスに歩み寄り見上げた。
「補佐官としてだ。警備はついているが、最も近しい場所で陛下の御身をお守りする」
「僕が立ちます」
「こんな細い腕で何ができるセレンソン。私もただ立っているだけだ実際は。偉大なる王の隣にいた男として今のうちに顔を売っておかなければならない」
「今までそのようなことは」
「状況が変わったのだ。君にもわかっているはずだ。我々は大変なものを引き継がなくてはならなくなった。我々が何を成したとしても人々はことあるごとに言うことだろう。『女王陛下がいればこんなことにはならなかったのに』と」
トマスの氷の目を、セレンソンはじっと見上げた。
トマスが皮肉っぽく唇を上げている。
このお方は不安になると皮肉を言うと、若き補佐官はもう気づいている。
「……つくづく、あの日あれを食していてよかった。それがなければこのようなものを引き継ぐ勇気など出るはずがない。直前で臆病風に吹かれ、今頃しっぽを巻いて逃げ出していたことだろう。君にも食べさせてあげたかった」
「……コンブを?」
「コンブ?」
主従は互いの顔を見つめている。
主の瞳を見て柔らかくセレンソンは微笑んだ。確信を持って。
「ぬるり、つるりとした、黒色の滋味深き海藻の名でございます。真ん中にてきゅっと結ばれた、大変にあたたかな」
トマスの氷の目が、一瞬瞬いてからセレンソンを凝視した。
己の若き補佐官を、今初めて見るように彼は見つめている。
「……たまごをいつ割った」
「最初でございます」
「濁らなかったか」
「黄身がスープに広がりましたが、それもまたまろやかで美味しゅうございました」
やはりセレンソンは微笑んだ。
一瞬次期王トマスが泣きそうな顔をしたのは、錯覚であったのだろうか。
「……手を掲げよセレンソン」
「は」
トマスが力いっぱいセレンソンの手に手のひらを当て、それからバンと肩を叩き、歯を見せて微笑んだ。
「次は我らだぞセレンソン」
「はい。我が君」
セレンソンがトマスを見ている。
美しき星を見るように。そこに眩き光があると信じて疑わぬ真っ直ぐな黒き目で。
「……行って参る」
「ご武運を」
女王と次期王が、国民の前に姿を見せた。
国民は舞台に上がった女王の姿を見て、息を呑んだ。
光の角度でわずかに色が変わり、星のようなきらめきを発する豪奢で上品な王者のドレス。
それに少しも押されることのない、堂々たる威厳。
しんしんと積み重ねられたときに研ぎ澄まされて輝く、美しき女王の立ち姿であった。
「王エリーザベドである」
女王は言った。
誰一人口を聞かず、息を呑んでその声に聞き入っている。
「今宵、地獄の門が開き、中より疫病『熱雷』と、未知の魔物が這い出した」
ざわめきが起きる。『地獄の門』はわからずとも、『熱雷』を覚えている国民はまだまだいるのだ。悲鳴が上がる。
「静まれ」
女王がそっと言う。
一つの乱れもない落ち着きあるその姿に、しん、と沈黙が訪れた。
「今まさに薬学研究所で、国中の薬屋で、『熱雷』の治療薬『天神の涙』を全力で作成している。震源地に近いところから順に、国民すべてにそれが届くよう全力で努力する。どうかすでに発症しているものにすみやかにそれが届くよう、奪い合わず、落ち着いて自分の順を待ってほしい。フーリィの声を知る誇り高き我が国の民は、倒れた者たちの口に届くべき薬を奪い取るような卑劣な魂を持ってはいないとわたくしは信じる。そなたらもどうかわたくしを信じてくれ。転移紋を用い、各地の配達人と協力し、国の隅々まで必ずやこれを届けると約束する」
何か神聖な、しんとした静けさが満ちている。
「魔物は冒険者及び魔術師により討伐されたことが先程報告された。『門』は今、この世で最も気高く尊い魂を持った一人の男によって守られている。全ては検証を行ってからとなろうが、きっとその門はもう二度と開くことはないだろうと、わたくしは確信している」
女王は国民の顔をゆったりと見渡した。
「また隣国ロクレツァが我が国に向けて、宣戦布告なき攻撃をした。魔法を、人に向けた。ためらいもなく」
ひいっと悲鳴が響いた。ざわざわとまた人々は揺れる。
「静まれ」
王はまた言った。ゆったりと。
「……静まれ」
ゆったりと。
息を飲み人々はその尊いお方を見上げ次の声を待つ。
「道を外れた賤しき魔法は我が国の誇り高き民が退けた。そして我が国の勇敢なる軍人たちが、今も東の地で雄々しく戦っている。我々は外法には屈さぬ。外法に外法を返さぬ。古来より伝わりし正しき技と力をもってこれを打ち負かす。信じて待ってほしい。必ずや勝利の知らせを届けよう」
王は言い切った。
「わたくしは信じる。国民皆が今日という日の自身の行いを10年後、20年後に思い出し、自身を誇れる行動をとると信じる。我が国の国民一人一人の胸に美しき星の光があることを信じる。どうか怯え震える弱きもの、小さきものをその光で明るく照らしてほしい。フーリィはきっとその誇り高く心優しき者の背を、美しき黄金の瞳で見つめていることであろう。今日という日を普段通りに過ごし、信じて待て。わたくしは必ずや、勝利の声をここに届けると約束する」
落ち着きある威厳に満ちた重い声を。アントン=セレンソンは涙を浮かべながらも必死に目を見開いて聞いていた。
陛下とジョーゼフ=アダムス補佐官の会話を、あのときトマスとセレンソンは聞いていた。
志半ばで、蒔いた数々の種の発芽を待たずしてその玉座を静かに降りようとされておいでだったお方。
誰からも褒められず、ただ、ただ耐え続け、荒れ果てた地で重たいクワを持って静かに均し続けたお方。
今宵その種が静かに芽を出し、その方の治世を包み込んで守ろうとしている。
「女王陛下!」
誰かが走り込んできた。
「貴方様は……」
黒髪の美しき戦術家、ミネルヴァ=ブランジェがそこにいた。
「……陛下は……」
「今国民に向け、演説の最中です。どうかお下がりください」
「……トマス公は」
「同じく国民の前に立たれ、陛下の御身をお守りです」
「……」
ミネルヴァ=ブランジェの顔が絶望に染まった。
血が出そうなほど強く、彼女は唇を噛みしめる。
「……今呼び戻すわけには、いかないわね」
「……大切なことを国民に伝えている最中でございます」
「そうね。でも『今』でなくてはいけないの」
彼女は震え、涙を一筋落とした。
そして懐から最新式の連絡機の片割れを取り出し、それを耳と口に当てた。
「……」
長いまつげが織り合わさって、濡れた。




