【1】ハリー=ジョイス
ハリー=ジョイスは困っている。
中央にある、王に仕える文官育成のために開かれた全寮制の中級学校『セントノリス中級学校』について、学校の先生も周りの大人も、誰も詳しくわからないからだ。
ハリーは母子家庭だ。ハリーが小さいころに鉱山で働いていた父親は落盤事故で死んだそうだ。坑夫向けの賄い婦をしていた母と二人でそのまま鉱山の町に暮らしていたが、この田舎町トイスで小さい牧場をやっている祖母が足を悪くしたのをきっかけに、先日この町に引っ越してきた。
田舎ってなんにもなくて、ゆっくりなんだなとそののどかさにハリーは驚いた。
幸い学校にもすぐ馴染め、のどかさにも慣れた。
近頃のハリーは金を貯めたかった。セントノリスに入るには試験を受けるための金がいると聞くからだ。成績がよければ学費が免除になるとも聞いたが、その詳細もよくわからない。調べ方すらわからない。
そういう学校があるということさえ、ハリーはこの町に来て初めて知ったのだ。
今まで中級学校を受けるという同級生が身の周りにいなかった。初級学校を出たら鉱山で働くのが当たり前だと、それを常識のように思っていた。
そもそも、王家の文官に平民がなれることすら知らなかった。
勉強によって狭き門をくぐり、努力すればその職に就けるというならハリーは就きたい。
国のための正義感でもなければ、高い志があるわけでもない。
王家の文官は安全なうえ給料がいいから。小さいころから一人で、苦労して自分を育ててくれた母に楽をさせてやるにはそれが一番まっとうで、安心させられるいい道だと思ったのだ。
幸いハリーは頭がいい方だ。教科書の内容は一読みすればだいたい頭に入る。
なのでその受験とやらのために必要なあれこれや奨学金のことを聞こうと思ったのに、先生たちは首をひねるばかり。そして最後には必ずこう言うのだ。
『アントン = セレンソンに聞いてみたらいい』
白い息を吐いて牛乳配達をしながら、はあ、とハリーはひときわ大きいため息をついた。
アントン = セレンソンはこの町に中央から長期派遣されている役人の一人息子だ。
いつもきれいな服を着て、さらさらの黒髪を整えて周囲に『神童』と呼ばれる、いつもじっと静かに一人で本を読んでいる少年。
線が細くやや背が低く、どちらかというと女の子のような顔をした少年であるにも関わらず、どこか洗練された、あまりにも静かで大人っぽいその姿に、誰も気安く声をかけられない。
何か神聖なもののように皆から遠巻きにされている彼は、この町で十何年だか何十年だかぶりに、今年唯一その学校を受験するのだという。
「おれ嫌われてるんだよなあ」
ため息をつきながら牛乳のビンをお客さんちのポストに入れようとして思い直し、ああ、最近ポポばあは肩が痛いんだったと、低い位置にある箱の上に置き直した。
日が当たらないように、落ちてた木の板で太陽の方角を覆う。
扉を開ければそこにあるな、とわかる位置まで箱を引きずった。
ハリーは誰かと話すとき、今この場に必要な言葉は何か、何を言ったら相手が喜ぶか、なんとなくわかる。
言いすぎないでしっかりよく聞く。きっと喜ぶところを嘘なく褒める。それだけで相手は自分を好きになるし、好かれればハリーだって嬉しい。
ただアントンだけはダメだった。初めて会話をしたときに彼の読んでいる本を覗き込みその一文を読み語り合おうとした瞬間、凍りついたその顔に、彼との間に大きな壁がズンと立ちはだかったのを感じた。
何が悪かったのだろう、とハリーは考える。
あまりにも無遠慮過ぎたのだろうか。
あまりにも性急すぎたのだろうか。
初めて見る人種のようなこいつと仲良くなれたらなんだか楽しそうだな、と思って珍しく焦って、距離を詰めすぎたのだろうか。
最後の一本を立派な家のポストに入れようとして、がちゃ、と家の扉があいたのでそちらを見た。
「あ」
「あ」
学校にいるときよりもどこか柔らかい雰囲気のアントンだった。
じっとその目がハリーを見上げた。
「……仕事?」
「うん、これが最後の一本。……お前んちも牛乳飲むんだな」
「そりゃあ飲むよ」
アントンが白い息を吐きながら笑った。ハリーは驚いた。
初めて彼が年相応の少年に見えた。
ハリーはアントンに牛乳を手渡す。
あれ、壁がないぞ、とハリーは思った。
いつも感じた分厚い壁が、今日のアントンからは綺麗に消えている。
「ありがとう。こんな早くに、偉いんだねハリーは」
「うちが貧乏なだけだよ。……あのさアントン、俺、聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「セントノリス中級学校について……聞きたいことが、わからないことが、たくさんあって」
「……もう今日は仕事終わったんだよね?」
「うん」
「じゃあ入ってくれ。僕の部屋に紙の資料があるから、必要なところを写していくといいよ。よければ朝食も食べて行っておくれ」
アントンが笑った。
一階の彼の部屋に、ハリーを招き入れる。
「この部屋に家族以外の誰かが入るのは初めてだ。……人間ではね」
謎かけをするように、彼は微笑んだ。
食べ終えた皿を運び出し、机の上に資料を広げる。
ちなみに豪華な朝食はめちゃめちゃ美味しかった。使われている素材の量はハリーの家なら2日分の夕飯だった。
「学費免除は上位5位以内で受かって、一学年三期以上10位以内キープが条件か……きっびしいなあ」
「教科書を一読みで覚える男が謙遜はやめてくれ。万が一無理でも学費は町から利子なしで借りることもできるよ。卒業して、大人になったら分割で返せばいい」
「へえ」
ハリーは目を見開いてアントンを見た。
「物知りだな」
「町の方はたまたま。こっちは穴が開くほど読んだからね。これは僕の夢だ」
彼はそっとセントノリスの学校紹介を撫でた。
その指先が、大切だ、宝物だと言っている。
表面のインクが擦り切れていて、アントンの夢の長さをハリーは悟る。
「……なんか、ごめんな」
「うん?」
「後から、なんか、俺みたいのが急に、なんか、こう」
まだ試験を受けたわけでも受かったわけでもないのにそんなことを言う自分が恥ずかしくて、ハリーは赤くなった。
アントンが笑った。
「いいんだ。学校の門は常に才ある者を迎えるために開かれてる。試験は夢の長さではなく点の高いものが受かるようにできてるんだ。それに僕の夢はもっと先にある」
「先?」
じっと見つめられてハリーは焦った。
つうかこいつ、思ってた以上に顔綺麗だなと思った。
「今までは父みたいになりたいと思ってた。でもあのあとよく考えて、やっぱりそれは違うなと思った。僕は、中央で、限りなく陛下の近くでお役に立ちたい。ただの子供がと笑われるかもしれないけど、ここ最近要職への平民の登用がぐんと増えてるんだ。今のアステールはすごいよハリー。戦争のないここ20年で、少しずつ少しずつ、地道に多くの改革を実行してる。人材を、産業を、育てようとしているのがよく分かる。現女王のこの方針のご治世がどこまで続くかはわからないけれど、僕はそういう、編むように改革を重ねる革新的な王家のお役に立ちたい。アステールはきっと変わるよ。ただでさえ大国なのに、きっとこれからどんどん良くなる。そのわくわくする実りの瞬間に僕は立ち会いたいんだ。まだ凡人の自分に何ができるかはわからない。それを学びに僕はセントノリスに入る。ハリーは僕が絶対にできない、人との交渉とか、懐柔をやってくれ。君は実に魅力的で、誰よりも頭が回り、人にとても好かれるから」
「……おれ?」
「うん。今まで愚かな態度をとってすまなかった。君があまりにも才気溢れる人だから、矮小な僕は君に嫉妬したんだ。今までの態度の全てを謝罪する。もし許してくれるならばどうかともに王の駒になってくれハリー=ジョイス。君ならできる。一緒に行こうセントノリス。入試の傾向と対策は任せてくれ。僕は伊達に何年も机にかじりついて勉強していない!」
「……はは」
思わず笑った。
取り澄ましたような、神童と呼ばれた少年は、こんなにも熱く、馬鹿みたいにハリーを褒め称えて田舎町の少年としては壮大すぎる夢を語る
頬っぺたを真っ赤にして夢と希望に目を輝かせる同級生をハリーは見た。
国のための正義感でもなければ、高い志があるわけでもない。
王家の文官は安全なうえ給料がいいから。
そんな志望動機より
これから変わっていく国を内から見て支えたい。
こっちのほうがはるかにかっこいいじゃないか。
かあっと胸の奥に熱が宿った。
寒さにかじかんでいたはずの指が熱くなりぎゅっと握った。
夢を、見ていいのか自分でも。
貧乏で、こんな田舎町で、ぺったんこのぼろ靴で牛乳を運んでいる小器用なだけの自分でも
大局から国全体を見渡すような、そんな夢を
「……やる」
「よかった。朝以外にも仕事はあるかい? 明日から学校のあとうちで勉強しないか」
「仕事は朝だけだ。いいのか」
「うん。過去問を紙に書いておくよ。僕は4教科の過去問20年分はそらで書ける」
「お前こっわ」
「君は僕に面接の練習とダメ出しをしてくれ。できれば君が僕ならなんて言うか教えてほしい。僕には対人の訓練が必要なんだ」
「それだけでいいなら、いいよ」
「ありがとう。君は受かるよ。努力して僕も絶対に受かるから、これから一緒にがんばろうハリー=ジョイス」
アントンが右手を差し出したのでハリーは握った。
ハリーより小さな手に思ったより力強く握り返された。
男らしく夢に燃えるアントンの左頬を朝焼けが赤く照らす。
なんだかこいつとは長い付き合いになりそうだな
それできっとこの先この場面をおれは何度も思い出すんだろうな、と
右手を強く握られながらなんとなくそう、ハリーは思った。