【23】女王の一日1
「美しい……」
陛下がドレスをつくづくと眺めながらおっしゃるのをジョーゼフ=アダムスは後ろから見ている。
「本当に、なんと素晴らしい……あと一日早く検閲を終えておりましたら。誠に申し訳ございません」
「よい。これも何かの定めであろう」
本日は女王からトマス公に王位を引き継ぐ、トマス公の戴冠式である。
女王は黒に親しい深い紺の衣装を身につけておられる。
自身がもう光ではない、光を失い静かに星を包む宵闇であること。
トマス公こそが今後国民を導く新たな光であることを示すための色である。
つくづくとジョーゼフは、本日陛下のもとに到着した服飾協会からの献上品のドレスを見る。
極上の柔らかな黄みがかった光沢ある白地。贅沢な金の糸で縫い込まれた精緻な刺繍はまるで星そのもの。
少しの乱れもない緩やかなライン。惜しみなく飾られたしかし少しの品も欠いていないまさに王道以外の何者でもない、この世で女王陛下のみが身にまとうことを許される、王者のドレスだ。
トマス公に王位を渡すことを進言したのが自分であるだけに、ジョーゼフは口惜しくてならない。
先王が顧みず荒れ果てた土地を、ならし、水をやり、種を植え
その芽生えを待っている最中に、それを次へと引き渡さなければならない。
緻密で、悪く言えば目立たぬその数々の改革を喝采されることもなく、この慈悲深く賢いお方は大きなエメラルドの玉のついた杓を手渡し、金色のローブを脱ぎ王冠を脱いで授け、本日宵闇に姿を変えその椅子を立たねばならない。
「泣くなジョーゼフ」
「……申し訳ございません」
「泣くなというのに」
ふっと陛下がお笑いになった。
コンコン、とノックの音が響いた。
「トマス=フォン=ザントライユ様の御成りです」
「入れ」
かちゃりと扉が開き、男が入室する。
あまりの眩さに思わずジョーゼフは目を細めた。
あの日から5年、正しくはそこに数月加えて百年の節目の年号が変わったこの日の戴冠となられた、本日からの王トマス=フォン=ザントライユ。
なめらかで白い、金の飾りが揺れる衣装を身にまとい、王家の血の特徴である意思の強そうな眉、大きな深い二重の氷のような瞳、高い鼻と神経質そうな唇を輝かせてそこに立つ。
後ろには少年と言っても差し支えない、線の細い黒髪の男が付き従っている。
トマス公直々にセントノリスから引き抜いてきたというアントン=セレンソンなるこの若き補佐候補は、白い顔を頬だけ赤らめ緊張している様子を見せながらもぴんと背を伸ばし、賢そうな黒い瞳で室内の様子を観察している。
「似合うぞトマス」
「おやめください。身の丈に合わぬ重たい服に戦々恐々としております」
「ならば一日でも早く己をその服に合わせよトマス。そういうものだ」
「そういうものでございますか」
「そういうものだ」
ふっと陛下とトマス公はお笑いになられた。
ジョーゼフはセレンソンに歩み寄る。
「万事つつがないか。セレンソン補佐官」
「まだ候補でございますジョーゼフ補佐官。はい。問題ございません」
「そうか」
若き補佐官候補をじっと見る。
『未来』という言葉にふさわしい、瑞々しい青年だった。
広場には国民が隙間なく押し寄せ、世紀の瞬間をこの目に収めようと今か今かと待っている。
「では」
陛下が重々しく言った。
全員で頷き足を進めようとしたところに、慌ただしい足音が響いた。
「女王陛下!」
「先触れもないとは無礼だぞ!」
「急報でございます!『地獄の門』より黄の煙が上がりましてございます!」
「!」
地獄の門を知らぬアントン=セレンソン以外のすべてのものの顔が白くなった。
「門は開いたのか!」
「今はまだ……」
バンとまた扉が開いた。
「続報! 駆けつけたものがたどり着いた先で、門番グラハム=バーンが胸を抑え倒れていたとのこと!」
「ッ……扉はどうなった! グラハム=バーンは無事か! ええい面倒だ連絡機をここに持て!」
『連絡機』は発明家トトハルト=ジェイソンが編み出した画期的な発明品である。
耳に当てるものと口に当てるもの2つが1つの組、さらにそれが対になって、別れた場所で互いの声を瞬時にもう一方に運ぶことができる。最初こそ馬鹿でかく運ぶこともできない据え付けのものだったが、徐々に小さく改良され、今や持ち運ぶこともできる。その後同発明家が開発した『拡声器』なるものを用いれば声を大きく響かせることも可能になったので、本日の戴冠式もまたそれらを用い国の全てにその声を響かせる予定であった。トトハルト=ジェイソンはその後も声にまつわる発明品を数多開発している歴史に残るべき大発明家である。
「は!」
敬礼し、去ったものが戻ってくる。
手に連絡機を持っている。
「王エリーザベドである。状況を申せ!」
従者が耳に当てるべき場所に拡声器を取り付ける。相手の声が部屋に響くようになった。
『はっ。軍部所属黒山監視係のクレイマンと申します。先駆けの者からの連絡が途絶えましたので只今門に向かっております。何やら大きな音と揺れが……あっ』
ぶつ、ぶつと音が切れた。
がたがた、ざざざ、と余計な音が入る。
息を呑んでその音を聞いている。
「ジョーゼフ補佐官」
「うむ、君には説明せねばならぬだろう」
ジョーゼフはセレンソンに『地獄の門』を説明した。恥とも言える、何十年もただ一人の男に責任を押し付けている現状のことも。この男には王家の恥を含むすべてを知っていてもらわなければならない。
全てを聞き終え正しく理解したのだろう。セレンソンは赤い唇を食いしばり一筋涙を流した。
「……申し訳ございません」
「よい。そうか。門番を想って泣ける男であったかセレンソン」
その間も音声は乱れに乱れていた。
時々爆発音や複数の人の声が交じる。
永遠とも思える時間が流れた。
はあ、はあという息遣いが響く。
『こちら黒山監視係のクレイマン! 今先駆けの者を背負い門を離れております! 状況を申し上げる! 門は開いた! 門は一度開いた! 恐ろしい怨嗟と苦しみと嘲笑の声とともに! 中より無数の羽虫が黒煙のようにもうもうと溢れ、やがて見たこともないような巨大な魔物……魔物と言っていいのかわからない! あんなものなんと言ったらいいのかわからない! 腐りきった人間の顔を前後左右に6つ並べた肉塊がごとき腐臭のするモノが扉より這い出しました。そして大きな足……人の三倍もある扉をつま先だけで塞ぐような大きな足……ああ、あれが足だったのかもわからない。踏み潰された人間の体を重ねたようなものの塊がその形をとっているだけの、何かが、姿をのぞかせ、門の枠そのものがぎいいぎいいと音を立てながら弾けんとしたまさにそのとき、グラハム=バーンが立ち上がり、ひ、一言」
息が切れたのだろう、声が一度切れた。
「『わしが見ている。わしがお前らをいつまでも見ている! あるべき場所に戻れ! 罪を償い今度こそ愛されるモノに生まれ直せ! それまでこのグラハム=バーンがずっと、お前らをここで見ている!』と腹の底から叫びました」
涙声だった。はあ、はあと息が響く。
『その声に怯んだように大きな足は門に戻り、やがてぎいと音を立て門は重く重く動きながら閉じました』
「グラハム=バーンはどうなった!」
『彫刻になりました』
「……なんと?」
『仁王立ちのまま、あの地獄の門と同じ材質で作られた黒の彫刻のようになりました。彼は今も門を見ています。あの姿のままずっと! ずっと! グラハム=バーンはその命の最期に、彼が当然に行くべき美しき天上を捨て永遠の地獄の門番となることを選びました! 災厄から国をお守りするため、黒の彫刻になって! クレイマンめ頭がおかしくなったかとお思いならお笑いください! だが私は見た! あの男の美しく気高い魂を見た! あんな立派な男はいない! グラハム=バーンはあの恐ろしきなにかを、今でも抑えている! いつまでも抑え続ける! 彼は門番を選んだのだ永遠の! 笑うなら笑え! クレイマンは確かに、この世で最も尊い男の姿をこの目で見た! その崇高なる、もはや人ならざる声を聞いた!』
「……」
連絡機の向こう側からは男泣きに泣く男の声が響いている。
『何故一言、言ってやれなかったのだろう『そなたに罪はない』と。許してくれグラハム=バーン……そなたがいなくなり、その係が己に回ってくるのが恐ろしくてついに一度も言えなんだ……そなたに罪はないぞグラハム=バーン。そなたに罪はない! そなたに罪はない! そなたには何一つの罪もない! それでもその道を選ぶのかグラハム=バーン! あれらから国を守るために! お前のための、お前だからこそ行くべき天上の国を捨ててまで! お前には罪など一つもなかったのに!』
誰も、何も言わなかった。




