22皿目 ぽかぽかした元魔術師
今日も今日とて春子はお狐さんを睨んでいる。
相変わらず前掛けは色褪せ、さらに最近はなんだかその石の表面まで乾いたような、ざらざらとすり減ったような。妙にみすぼらしい様子である。
「フン」
音を出して鼻息を吐き、がんもどきを置く。
パン
パン
「えっ……」
妻が夫の茶碗に茶を注いでいる最中の夫婦らしい男と女が、呆然と春子を見つめた。
「いきなしどっちらさんじゃあ!」
後ろで座っていた爺さんが叫ぶ。
「……おでん屋だよ」
パンツ一丁で頭にズボンを被った爺さんに張り合う気力もなく春子は呟いた。
「すごいうまい、すごいうまい」
爺さんが大根を食べている。
「うまい、うまい」
爺さんがちくわを食べている。
「うまい、うまい」
爺さんが焼き豆腐を食べている。
それを左右で挟み、夫婦がハラハラと見守っている。
「あんたらも食いな。冷めるよ」
「喉に詰まらないかと思って……」
「歯が丈夫そうだし大丈夫だろ。詰まったら詰まったで寿命だと思いな。大往生だ」
「ええまあ……」
「まあめでたいものだから大丈夫だろう。せっかくだから私たちもいただこう」
「そうね」
夫婦が揃って胸の前で手を動かした。いただきますみたいなものだろう。
「!」
たまごを食べた夫婦が目を見開いた。
50か60代だろう。長年連れ添うと食べる順や反応まで似るらしい。
「こんなたまご初めて……」
「ああ。全然くさみがない。そうするとこんな味になるのかあ」
「うまい、うまい」
「黄身がスープに溶けて……全体がまろやかになって美味しいわ」
「このダイコンってのもまた……固めたスープを食べてるみたいでまあ……うまい」
「うまい、うまい」
「コンブっていうのも美味しい。はじっこはぴろんとして。真ん中は固くって。真ん中はもとの味が濃いわ。これは海のものね。美味しくて、栄養のある味がする」
「うまい、うまい」
「酒はどうする。熱いの、ちょっとぬるいの、冷たいのがあるよ」
夫婦は目を見合わせた。ふふっと笑う。
「そうねえ」
「まあ、せっかくだから。こんなときくらいは」
「うまい」
「熱いのは零したら危ないから、冷たいのにしましょうか」
「そうだね。冷たいのお願いします」
「はいよ。じいさんは」
「熱いの」
「ぶち壊しじゃねぇかよ」
「せめてぬるいのにしませんかお義父さん。わたしたちもそれにしますから」
「いいよ」
「じゃあすいません、ぬるいの3人前で」
「はいよ」
とっとっとっとっと……いつもの音を立てて一升壜が逆立ちする。
とぷんと沈めている間に爺さんの皿が空いた。
はんぺん、がんもどき、好きそうだったからもう一回大根。
夫婦の皿も空いたので、じゃがいも、こんにゃく、牛筋。
そうしている間に酒も温まったので、猪口を三つ。
「はいおまち」
とんとんとん、と並べる。
奥さんが銚子を持ち男たちの猪口に注いだ。手酌しようとした奥さんから夫が取り上げ、注ぐ。
「……はぁ……」
三人揃って目を閉じた。
「「「すごいうまい」」」
揃った。
奥さんが牛筋をぱくり。汁を飲み、酒を飲む。
その一連の動きに、おっと奥さん飲める女だねと春子は察した。
対照的に夫はすでに頬が赤い。おそらく一合で気持ちよくなってしまうだろう。
爺さんもである。乾いた土のような頬が赤い。
とろとろとろと彼らは食べた。夕飯の準備がいらなくて嬉しいわあと奥さんが上機嫌である。
「ぽかぽかする」
爺さんがぽつんと言った。
「ええお義父さん。ぽかぽかしますわね」
「違う。あのときわしがポカポカしたんじゃ」
「え?」
ふやけ切っていた爺さんの顔がいきなりきりりと凛々しくなった。
「あのとき確かにわしは戦場に向かって最大の回復魔法を放った。それなのに体がポカポカした、わしが。私があのとき回復した。戦場に回復魔法を放った魔術師の私が! なぜこんなことを忘れていたのだ今鮮明に思い出したわ!」
「お義父さん……」
「親父……」
「白歌を聞いた者は跳ね返す! 術者に魔法を跳ね返す! だから白歌を聞いたラバール将軍と部下たちだけが死んだのだ一度も支援魔法が通らなかったから! 私にそのまま跳ね返したから! 白歌は跳ね返す! 白歌は跳ね返す! 何をしとるエンリク今すぐ陛下に上申せよ! 白歌は魔法を術者に跳ね返す! これは大切なことだ何故忘れておったのだろう今の今まで!」
「落ち着けよ親父。なんだよそのクラルなんちゃらって……だいたい魔法を跳ね返したところでもったいないだけじゃないかなんの意味があるんだ。……ますますボケがきたのかな……昔は立派な、偉大な回復魔術師だったのに……」
夫がしゅんと鼻を鳴らした。
いきなりバンと奥さんが板をはたいた。
「……え?」
「お義父さんを一番信じなくてはならないのはあなたよ、エンリク」
「アマンダ……」
「この真剣なまなざしを御覧なさい。お義父さんは今正気よ。実の息子がそんなこともわからないの?」
「……」
「わからないわよねえ。仕事仕事って家を空けっぱなしで、子育てもお義父さんのお世話も全部わたしに任せて。疲れた疲れたばかりでわたしの愚痴すら聞かないで。お義父さんのお顔の変化なんてわからないわよねえ『あの立派だった親父が』って涙ぐんでりゃいいと思ってるんですものでもわたしにはわかります。お義父さんのお世話を何年もやってますからねわたしには涙ぐんでいる暇などありませんでしたからね。これは正真正銘、あなたのご存じのほうのお義父さんよ。お義父さんの言うとおりになさい」
「でも……こんなわけのわからない話」
「わたしたちにはわからないだけで何か重要なことかもしれないじゃないの。『クラルコンヒルは魔法を術者にそのまま跳ね返す』。お義父さんの言ったことをお義父さんの名前付きで上申すれば、あとは上の頭のいい人たちが勝手に考えてくれるわ。やりなさい」
「ボケた老人の言葉を真に受けてって笑われたら……」
「笑われなさいよ。……いちいち、うじうじうじうじうるせぇなてめえはこれまでずっとそればっかだなあ!」
奥さんが夫の胸元をねじりあげた。
「ダリオが生まれたときのこと覚えてるかしら覚えてるよな覚えてねぇとは言わせねぇぞ! 『陣痛だと思うから産婆さん呼んできて』って腹抑えて唸ってるあたしにてめえなんつった『まだ夜中だよ。周りの迷惑になるからもう少し我慢できない?』できるかボケが! ふざけんな馬ああああああ鹿! あのときお隣さんが気づいて走ってくれなかったらあたしもダリオも今頃天の国だ! いつもいつも周りが世間がっててめぇが一番に守んなきゃいけねぇのは周りかよ世間様か!? たまには家族を一番に守ってみろよ家族のために動いて恥かいてみろ家族のために笑われてみろいっぺんくらい男見せろやエンリク! ゴラァ!!」
「冷めるよ」
「あらごめんなさい」
夫の胸元から手を離し、上品に奥さんが笑ってフォークを持つ。
「昔やんちゃしてたかい」
「ええ、冒険者だったから。もう何十年も前だけど」
「へえ」
「うまい、うまい」
「あら、戻っちゃったわね。いいときとわるいときがあるのよねお義父さん。今日はいいことが思い出せてよかったわね。じゃああなたは今から上申してきて。わたしとお義父さんはもう少しいただくわ」
「……はい」
「その丸いのをください。あと熱いの」
「はいよ」
「うまい、うまい」
「ああ、美味しい。久々に腹の底から声出してすっきりしたわ」
「何よりだねえ」
「すごいうまい、すごいうまい」
まだまだ奥さんの顔色は変わらない。
爺さんのフォークも止まらない。
今日の客は長っ尻になりそうだねと思いながら春子は汁を混ぜた。




