5皿目 神童アントン = セレンソン
じっと春子は今日もお狐さんを睨みつける。
あいかわらずがんもどきを置いている。
油揚げに変えればあるいはとも思わないでもなかったが、残念ながら春子は生粋の負けず嫌いなのである。
ぱん、ぱんと手を打ち合わせた。
目を開けた。
暗い暗い部屋の一室だった。
「誰ですか」
声変わり前の少年の声が響いた。
「おでん屋だよ」
彼が掲げた燭台の光に浮かびながら言って
ちいっと春子は舌を打った。
小学校高学年くらいの少年は、アントン = セレンソンと名乗った。
馬鹿丁寧に礼をして、大人のような態度で椅子に腰かけている。
頼りない細っこい体、産毛の残る白い頬。
切りそろえられた黒い髪に、漆をはいたような飴玉みたいな目。
長いまつげが不安そうに揺れておでんを見ている。
「……夜じゃないか。夜更かしだね。子供は早く寝ろ」
「試験の勉強をしておりました。中級学校の試験が近いので」
「へえ」
たまご、はんぺん、昆布を皿に乗せてやる。
ついでにいなりずしも別の皿に乗せた。子供は甘いものが好きだ。
ぱくぱくと綺麗な動きでアントン少年はそれを食べた。
「美味しいです。知らないものばかりですが、皆」
「そうかい」
静かな夜だった。
「……美味しい」
「そうかい」
くつくつと
おでんが煮える音だけが部屋に響く。
腹が満ちたのだろう。幼い顔が、酒も飲んでいないのに赤らんでいる。
「……皆美味しくて、あたたかい」
ぽろりとその目から涙が落ちた。
続けて大きな粒が、いくつもいくつもぽたぽたと木の板に丸を作る。
「……僕は神童と呼ばれております」
「へえ」
「誰よりも計算が早く、覚えが早いと。でもそれは僕が神童だからではない。ただ誰よりも長い時間勉強しているからです。父のような立派な男になるべく、また周囲の期待に応えるために。神童だったらこんな時間まで、せっせと勉強するはずがありません。一目見てひらめく。一瞬で理解する。僕が一月かけて覚えたことを、一文を読んだだけで理解する。……ハリー=ジョイスのようなものこそ神童なのだと、気づきました。何故、どうしてあの男は僕の前に現れたのでしょう。こんな大切な時期に、何故僕の前に、鮮やかに」
「さあね」
眉を寄せぽろぽろと泣きながら、彼は昆布を口に運んだ。
一口がやたらと小さい少年である。
「美味しいな……これは野菜ですか」
「昆布だよ。海藻」
「コンブ。黒くて地味だけれど、滋養のある味わいです。とても美味しいです」
結び目を興味深そうに見てから口に入れた。
もぐもぐと噛んで、ごくんと飲み込む。
その間も落ちる涙が皿の汁の表面を揺らしている。
「……僕は彼を見るのがつらい。僕が捨てているすべてのものを何も捨てずに、軽やかに体を動かし、誰とでも打ち解けて笑い合い、そのくせ僕が必死で守っているただひとつの場所を簡単に奪おうとしてくる彼が恐ろしい。……あの明るい声が聞こえるだけで、憎くて、苦しくて、最近は本を読んでいてもちっとも頭に入ってこない。……僕は、彼と違う。僕にはこれしかない。僕には勉強しか取り柄がないのに。ただそこにいるだけで、太陽のような眩しい光で彼は僕を脅かす。このまま勉強までできなくなってしまったら、僕はもうこの世から消えるしかないんじゃないかと思っていました。でも」
アントン少年が手元の皿を見た。
ぼろぼろと大粒の涙がとどまることなく流れる。
ひっくと彼は一度だけ嗚咽した。
「あなた様は今宵凡人のところに来て下すった。天は地に這いつくばるものに愛をくださった。感謝申し上げます。僕はまたがんばれる。誰に言われてやっていることじゃない。僕がやりたくてやっていることなんだ。それを忘れるところでした」
「何の話だい」
「いえ、申し上げるべきでないことを申し上げました。失礼いたしました」
彼は涙をぬぐった。
最後の昆布を汁とともに噛み締める。
「本当に美味しいですね。奥の方から深い味があって」
「出汁も昆布で取ってる。だし昆布は出汁を取ったら捨てちまうけどね。見えないところでもいい仕事をする奴らだ。出汁がなきゃおでんなんて食えたもんじゃねえ」
「……そうなのですね。見られなくっても役に立ってるなんて、えらいなあ」
目を閉じ、ごくんと少年が全てを飲み込んだ。
濡れた目尻にじわりとまた涙が浮かび、頬を落ちていく。
「……そうか。きっとそうなんだ。それならば僕はそういうものであろう。自分にできることを少しずつでも積み重ねて、目立たなくてもいい仕事をする大人になろう。表舞台はハリーのようなものに任せて、僕は裏で役に立てればいい。彼と僕ではきっと、与えられた役割が違うのでしょう」
「あんたも捨てたもんじゃないよ。可愛い顔をしてるじゃないか」
「……そうですか?」
アントン少年はきょとんとした。
「ああ。大人になったら女に追い回されるよ。覚悟しときな」
「まさか。全然もてませんよ」
「ガキの頃と大人になってからじゃ、光の当たる角度が変わるのさ。まあ見てろ」
「……楽しみです」
頬を染め子供の顔で微笑んで、彼は皿を置いた。
目元をぬぐい、春子に礼をする。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかった。僕は勉強に戻ります」
「ああ。ちゃんと寝ろよ。ガキなんだから」
「はい」
彼が席を立ったので春子はおでんに蓋をした。
顔を上げればお狐さんの前にいた。
「……ガキはやめなよ。柄にもなく優しくしちまったじゃないか」
ピンとお狐さんをはじく真似をした。
それでもやっぱり何も言わないので、春子は屋台を引っ張ってやっぱり仕事に向かった。