21皿目 配達人オットー=バッハマン1
オットー=バッハマンは寡黙な配達人である。
配達人。庶民の手紙から各機関からの通知、果ては緊急の王令まで。あらゆる知らせを運ぶ公職だ。それは国中に血管のように張り巡らされ、毎日毎日血液のようにそこを流れている。
オットーは10代からこの仕事をしている。エリアごとに受け持ちの者たちがいて、転移紋を通して、あるいは他の配達人からリレー方式に受け取ったものを最終の受け取り手に運ぶ。
最近は昔に比べてだいぶ楽になった。転移紋を使用できる機会がぐんと増えたからだ。
転移紋はかつて10年もしないうちにすべて壊れるのではないだろうかと囁かれていた。発動すべきところでしなかったり、乗せたものの一部しか転移しなかったり。使えば使うほど摩耗すると思われたので、少し前まで転移紋を通せるのはごく一部の、緊急で重要なもののみになってきていた。
それが最近になって変わった。管理し手入れをできるようになったそうで、その使用範囲が徐々に徐々に広がりつつあり、今や転移紋を通した手紙を運ぶときにかつてあった、絶対に失敗できない恐ろしいものを背負っているという特別な緊張感も薄れつつある。
以前見た転移紋の管理者の一団はなんだか不思議な者たちだった。
何か見えないものを見ている。
空気を形として見ている。
凡人のオットーには理解できないなにかを彼らは日々感じ、慈しむような目でそれを手当しているのだろう。
オットーにはそんなもの見えないので、だから今日もただ馬に跨り当たり前に地を走るしかない。
運ぶべきものを運ぶべき相手にただ運ぶ。落石もある。魔物も出る。切れかけた吊橋も、どんなに急いでいても通るべきでない危険な道も。
己の中にあるこれまで書き込んできた真っ黒な地図を頼りに配達人はただ走る。
ただ、ただ、届けるために。雨の日も風の日も雪の日も。星祭のときは降り落ちる無数の星の中をただ走る。我々は配達人だからだ。
国という大きなものに端々まで血を巡らせるため、配達人は走る。
赤い制服は我らの誇りだ。どこにいてもそれとわかる配達人の深き赤。
我々は日々戦っている。ただ走っているだけだろうと言われればそこまでだろうが、それこそが我々の戦いである。
運ぶ。ただ運ぶ。正確に、素早く、届けるべきものを届ける相手に。
アステールの配達人は寡黙である。一人でずっと走っているから、きっと話し方を忘れてしまうのであろう。
『上に上がるつもりはないか、オットー』
口が上手く社交的なかつての同僚からそう言われた。
いつの間にか立派な髭を蓄えた彼は、妙に焦った様子だった。
『俺がそういうのに向かないのは知っているだろうゲルルフ。断る』
『役員が一人退任の予定だ。もともとの後釜候補者が不始末を起こしてな。代わりが欲しい。20年間一度も事故を起こしてない伝説の配達人。新人皆が憧れる渋い男前に、ひとつ旗印を掲げてほしいんだ。現場主義の象徴になってくれ』
『正直なのはいいことだなゲルルフ。断る。現場を知らない口ばかりの奴らに挟まれて狭い会議室でああでもないこうでもないと議論を交わすなんて考えただけでも頭が痛くなる』
『そこをなんとか……制度自体を変えなきゃ死人は減らないと、前に言っていただろう? そういうのが苦手なのは知ってる。でもそこをどうか一つ曲げて、変える側に回ってくれないか? 若手の、これからのために』
『……断る』
そうしてオットーは会議室を出た。外の空気が吸いたかった。
変えなくてはならない。それはわかっている。
だが自分にそれができるのかわからない。やったことがないからだ。
オットーは今までただ道を走ってきた。
道を作れ。そう言われてもどうしたらいいのかわからない。ただ、こうであってほしいという道の形だけは、ずっと頭の中にある。
白い息を吐いてオットーは待機所に帰還した。昨日から降り始めた雪が世界を白く染め変えている。
「戻りました」
「ああバッハマンさん。寒かったでしょう。おかえりなさい」
受付の若い男が答えた。寒そうに手をストーブで炙っている。
「赤はあるか?」
「いいえ。さっきまでありましたがはけましたので」
「……」
オットーは若い男をじっと見つめた。
『赤』は重要緊急案件のことだ。赤い細長い紙が巻かれるのでそう呼ばれる。
「どこ宛のだ。誰が行った」
「新人のデニスですよ。宛先はスーテランの北32−5」
「……」
頭の中が赤くなるのがわかった。
「……何故俺を待たなかった」
「……赤でしたので」
「だからこそだ。ただでさえ難所なのに。雪の日に、新人が、あそこまで一人で行けると誰が判断した」
「判断も何も……赤は問答無用で最優先する制度になっております」
「……」
『制度自体を変えないと死人は減らない』
オットーが言い、ゲルルフが言い、それを成すことをオットーがまた拒んだ。
「……ほかに赤はないんだな」
「はい」
「デニスはいつ出た」
「6の鐘が鳴ったあとくらいです」
「追いつけるな。今日の便はもう来ないだろう。追う」
言うなり踵を返し、馬に飛び乗る。
皮膚を切り裂かれるような冷たい風。馬の体だけが温かい。
白、白、どこも白だ。降り積もる、綿のような雪。
ここ数年この場所にこれだけの雪が降ったことなどなかったかもしれない。
オットーは頭の中の地図の雪のページをめくる。
危険な場所が赤くちかちかと光っている。
そのひとつにたどり着いた。
馬の蹄の跡が新しい雪に埋もれかけている。
「……迂回せずこの道を行ったのか」
確かにそこは最短距離だ。だが山を少しだけ削ったような細い道で、こんな日に通るべき場所ではない。ベテランなら当然に迂回していくはずの道だった。
赤は緊急令だったそうだ。新人はとにかく早く届けねばと焦ったのだろう。
「馬鹿野郎……」
ギリリと歯を噛み締めた。デニスは何度か新人教育で指導した若者だ。明るくて朗らかなところはいいが、少し楽天的すぎる考えなしの危うさがあった。
蹄の跡を追ってオットーは慎重に進む。
少し行くと雪の乱れた箇所で足跡が途絶えた。
崖下を覗き込む。木の根本に見慣れた赤が見える。
「待っていろよ」
馬を木につなぎ、鞄から縄を出してこれまた木につなぐ。
ずるずると崖を下り、赤い制服をつかんだ。ずっしりと重い。
「ここに引っかかってよかったな。お前は普段の行いが良さそうだ」
むんと力を入れ肩に担ぐ。オットーは力持ちである。
そのまま縄を辿って馬のもとに戻る。馬に彼を乗せ、手綱を慎重に引いて近くにある洞窟に潜り込んだ。
真っ白な顔のデニスを敷いた布の上に寝かせ吹き溜まった枯れ葉で覆う。わきに石を積みその中に火を起こす。ぱちぱちとはぜ、火が赤く踊った。立てた木の間に棒を通し、小鍋を下げて湯を沸かす。
そこまでしてからデニスの冷たい水に濡れた制服を脱がすため留め具に手を伸ばすと、彼は眉を寄せた。
「う……」
わずかに呻く。
震える指が胸元を探ろうとしている。
そこに何があるのか、オットーにはもうわかっている。
配達途中で死にかけている配達人が心配することなど、一つだけだ。
ほとんど意識などないだろうに必死で動こうとするその手にオットーは手を重ねそっと抑えた。
「大丈夫だ。あとで俺がちゃんと届けてやる」
「……」
安心したように彼の顔がかすかに微笑んだ。
まだ10代なのだ。体格は立派だが、まだ頬に少年の気配が残っている。
瑞々しく若々しいそこに浮かぶのが死相であることをオットーは知っている。
オットーの頬を涙が伝う。
もう無理だと、経験が言っていた。
ボン
洞窟の中に何かが現れた。
「……」
「……」
何も言わない者同士が向き合った。




