20皿目 白歌の民1
この世には白い歌があるのだという。
聞こえないはずなのにその音を感じる、体を震わせる響きを感じる不思議な歌が。
それを歌う人々はみな美しく麗しく、その姿を見、その音なき音を聞いたものは皆天にも登る心持ちとなり、そして死ぬという。
聞いた者の魂を抜く美しき白歌。それを歌う不思議な呪われた美しき民が大陸にはひっそりと暮らしている。
「うっ……く……」
白歌の民ロラン=エルミスは涙していた。
祝福の声を失った、厭わしい己の喉を押さえながら。
ロランは白歌の民として生まれた。
大陸の一部にありながら、守るようにそそり立つ白の山々に隔離されたような場所にその町と神殿はある。
町の後ろには透明な大きな湖、世界の始まりのときからそこにあったと言われる名のない大樹。そこに寄り添うように、白い石造りの丸い神殿が建つ。朝と晩にはいつも町をすっぽりと霧が覆う。
白歌の民は皆魔力を持って生まれる。癒やしに特化した白い光を放つ魔法を、この町に住む人々は皆当たり前のように使える。
特徴的な白い肌。極めて白に近い金色の髪。氷のような澄んだ水色の目を皆が持っている。全員が祈りを捧げる僧侶であり、全員が歌い手である。
この地の守り手として国に保護されながら白歌の民は日々祈り、歌い、それぞれの仕事をしながらひっそりと暮らしている。
「う……」
コンコンとノックの音がした。
「……はい」
「ロラン俺だ。開けていいか」
「……ああ」
かちゃりと扉が開く。
友人フレデリクが険しい顔でそこに立っていた。
じっとロランの顔を見る。
「引継式には出られそうにないな」
「……」
「先生から渡してもらう。ロラン。ソリストのパンダンティフを渡してくれ」
「……」
首から下げた宝石のついた金の首飾りを、ロランは外し、震える手で持ちじっと見つめる。
一年間だった。たったの一年間、これはロランの胸に誇りとともに輝いていた。
涙が一つ、そこに落ちた。
「……次のソリストは誰に?」
友を見上げてロランは尋ねた。
「……2つ下のオリヴィエ」
「ああ、彼の高音は伸びがあって綺麗だからね」
「……」
泣きながら微笑むロランを、フレデリクは怒ったような困ったような、なんとも言えない顔で見下ろしている。
「わかっていたことだフレデリク。わかっていたよ。……ノエル先輩は立派だったな。僕はこれを先輩の手から受け取ったんだ。彼は笑って、僕に頑張れと言った。……僕はその嬉しさに舞い上がって、力いっぱい笑って、頑張りますと言って彼の手からこれを受け取った。彼の目の前で、誇らし気に自分の胸に下げた」
涙で濡れた首飾りをローブで拭いて、フレデリクに差し出す。
「どうしてあんなに愚かで盲目でいられたんだろう。今やるべきことがわかっているのに僕はどうして先輩のように立派な行いができないんだろう」
フレデリクの手に渡った首飾りを、眩しく見つめながらロランは涙を流す。
「……もう僕は歌うことがきっと苦しいよフレデリク」
「……休んでろ」
「……」
扉が締まり、ロランはまた椅子に腰掛け、涙した。
白歌の民は歌う。子供から、老人まで。歌とともに生まれ歌とともに生き、やがて歳を取り歌に送られて死んでいく。
ロランは15歳になったばかりだ。町の子たちは6歳から15歳まで、皆が1つしかない町の学校に通う。
そこには勉強と友情と、恋愛と、そしてやっぱり歌がある。
このなかでおおよそ7〜15歳の男子によって結成される少年合唱団は、町の人々に大変に人気がある。歌い手しかいないこの町の中で彼らの技術が特別優れているとは言えない。だがしかしそれはいつの時代でも人気がある。何故ならそれはその時期の少年だけに天がお許しになる、限られた時間だけの特別な歌だからだ。
ロランは同世代の少年たちの中で、最も高く澄んだ音が出た。
わずかなきしみもなく、苦しみもなく、息をするように自然に、透明なその音は胸の中から生まれた。
弦を鳴らすように重なって響く人々の声の波の中に宝石を散りばめるようにロランは歌った。跳ねる雨だれのように。切り裂く風のように。星の瞬きのように。朝露の光のように彼は歌った。
刃物のふちを歩くような緊張のなか、音がぴたりと合ったときの高揚感。体がビリビリと震えるような感動をロランは知ってしまった。
だがもうロランからあの声は出ない。成長とともに奪われるものであることを知りながら、どこか自分には訪れないのではないかと思っていたロランに、皆に当たり前に訪れる声変わりという現実は突然に、当たり前に訪れた。
これからロランは当たり前の低音に転向して歌い続けることになる。
もう、ロランの少年のとき、一番星のときは終わったのだ。
「……歌いたくない」
ロランは泣く。
「……歌なんて嫌いだ」
白い部屋の中、ロランはかすれた声で言って一人泣く。
「はいはいちょっとどいとくれどいとくれ! 産婆だよ! 産婆が通るよ!」
白の町を産婆ドリアーヌが走る。
「走るな婆さん死んじまうぞ!」
「あたしが走んなきゃ子供が死ぬんだよ!」
「違いない。乗っていきな。どこの家だ」
「北三番地の27。いい男になったねエドモン。逆さまにして必死にお尻を叩いたかいがあった」
「それを言われると弱いんだ」
エドモンに抱えられてドリアーヌが野菜の乗った台車に乗り込む。山盛りのトマトときゅうりの間に横に婆さんが一人。
エドモンが誕生の喜びの歌を歌う。
ドリアーヌがそこに声を重ねる。
いつだって我々は歌う。
ガラガラとトマトときゅうりと産婆が進んでいく。
「……20人……?」
「はあ」
町長コンスタンタン=オルオールはひっくり返った声を上げた。
普段は低い、誰よりも深みのあるいい歌声を響かせるコンスタンタンがだ。
白歌の民は王家によって保護されている。理由はわからない。おそらく保護している王家もわかっていない。白歌の歴史はすべて破壊されたからだ。
古くからあるものにはたいていそれの由来を伝える石碑が残っている。壊れていたり、古くなって読み取れないものもあるが、大抵は残っている。
だが白歌の民に関してだけそれがない。まるで誰かに意図的に、徹底的に破壊されたかのように、一欠片も残っていないのだ。やっぱり理由はわからない。ただ王家に口伝で、『白歌を絶やすな』と伝わっているだけだという。
流れ者だった、という説もある。あるとき地平線の彼方から歌いながら現れた白の衣装の一団がこの地を気に入り留まったのだと。それも昔々の童話のようなものにその一節があるだけで、それが本当に白歌の民を著しているのかもわからない。
ルーツがわからない、というのは不安なものだ。温和な気質の争いを好まない人種なので、今のところはまあなんとかこのように閉鎖的に、細々と平和に生きている。
前王の時代、一時保護が……はっきり言ってしまえば資金の援助がなくなった時期があった。
当時の町長は困ったことだろう。念の為長年こつこつ溜め込んでいた資産を食いつぶしながら、あとちょっとで破綻するというギリギリのところで現王の治世へと切り替わった。保護も復活し、なんとか事なきを得たそうだ。白歌の民は祈ることと、歌うこと。それ以外あまり得意でない。残念なことだが。
外から来る人間はいない。白歌の民は呪われていると世界は思っている。
そんななか先代の王の治世で、白歌を好んだ酔狂な武将がいたという。
金を積んで民を自分の領地に呼び寄せ、部下たちの前で白歌を歌わせた。
白歌は男女混合の歌である。女の高い声、低い声、男の高い声、低い声。正しく重なったときそれは白歌になる。
音が消えるのだ。ふっと。皆全力で歌い上げ空気は確かにビリビリと揺れているのに、なんの音もしない。
それでもそれを聞くものの背筋は震え、肌は粟立つ。歌であって歌ではない何かが人々を体の芯から震わせる。
敵国に攻め入る前の景気づけにと上機嫌でそれを聞いたかの武将とその家臣たちは、そのまま向かった戦争で死んだ。
そのとき死んだのはその日白歌を耳にした者たちばかりだったという。人々は改めて白歌とその歌い手を恐れた。新たな伝説は噂話として国中に広がり、再び白歌の民は忌み嫌われるものとして閉じこもるよりほかがなかった。
呪われた白歌の民。美しき容姿と歌声、魔力を持つ者たちは、外界から恐れられ、外界を恐れこの町で閉鎖的に、今日も歌いながら生きている。
はずなのに
「20人……」
「ええ20人」
今年この町から出ることを希望する者の数である。
毎年1人か2人、ポロポロと申し出はあるにはあるのだが、20人
「……止めますか?」
「……我々はこの自然の要塞で外界から民を守っているだけだ。縛っているわけではない。町を出たがっているのは、若者たちなのだろう?」
「はい」
「……血気盛んで夢に満ちた若者たちに、外の世界をほとんど知らない我々が何を言っても無駄だ。行かせてやろう。書類を準備する」
目元を揉みながら、ふうとコンスタンタンは溜息をついた。
「せめて明日の星祭りでともに歌ってから、彼らを見送ろう。外に出れば数々の困難に出会うだろう若者たちの未来に、それでも幸せがあるように祈ろう」
「……はい」
「きっと来年はもっと増えような。白歌もここまでか。我々とはいったい、なんであったのだろうな。我々がこの地で祈り、歌ったことで、世界になんの影響があったのだろう。そこに意味は、あったのだろうか」
「……」
それは誰にもわからない。
コンスタンタンが窓を開ける。天に向かって嘆きの歌を歌う。
副町長が横に並び、同じ歌の別のパートを歌う。
二人とも頬に涙を流しながら、情緒たっぷりにビブラートを効かせて歌いきった。
星祭り当日。
元少年合唱団ソリストのロラン=エルミスは二人の男に挟まれて星祭りの会場にいた。
一人は友人フレデリク。これはまあわかる。反対側には1つ年上のノエル。一年前に会ったときよりも彼は遥かに大人っぽく、男らしくなっていた。
フレデリクがノエルを引き連れ誘いにきたときは、一体何の嫌がらせかと思った。だがしかし先輩までいるのに、嫌ですと断るわけにもいかない。しぶしぶ、のろのろとロランは二人にくっついて歩き今中央の広場にいる。
「もう始まってますね」
「まだ夕方なのに、皆気が早い」
「待ちきれなかったんでしょう。年に一度ですからね」
「明るいうちから酒が飲めるのも今日だけだし。ちなみに僕は16なので、もう飲める。今日は飲もうっと」
「うらやましいです」
のんきな会話を二人でしている。
あのあと食事も喉を通らなくて、ロランはフラフラしている。
「……すいません。どこかに腰を下ろしてもいいですか」
「ああ、じゃあ広間のどこか……あのテーブルに座っていてくれ。適当に何か買ってくるよ。何が食べたい?」
「……あまり食欲がありません。お気遣いなくお願いします」
「じゃあ適当に。座っていてくれ」
「……」
柔らかに微笑んでノエルは消えた。
小さな町の、まだ早い時間だ。肩が当たるほどの混雑ではない。
丸いテーブルに腰かけたが、フレデリクは何もしゃべらない。
「……なんのつもりだフレデリク。僕は怒っている」
「偶然会ったから誘っただけだ。俺も何か買ってこよう」
「逃げるなフレデリク!」
「逃げているのはお前だロラン」
フレデリクの、ロランと同じ水色の目が静かにロランを見据えている。
「……何……?」
「お前に歌が捨てられるはずがない。今何をすべきかわかっておきながら、いつまでそうしてるつもりだ。泣こうが、喚こうが、もう前と同じ声は出ない。今のお前の声でまた積み上げるしかないんだ」
「……歌いたくない」
「嘘だ」
「歌いたくないんだフレデリク。今の、自分の声が嫌いなんだ。僕はもう歌を捨てたい」
「嘘だ。お前に歌は捨てられない」
「決めつけないでくれ! 僕の本心だ!……来年になったら僕はこの町を出る。16になれば親の署名が無くたって届を出せるから」
フレデリクが呆然と目を見開いた。
食べ物の乗ったトレイを持ったノエルもその後ろに立つ。
「どうせ奪うならはじめから与えなければいいのに。僕はもう、こんな残酷なことをなさる神に、心から祈れない。僕はこの町を出る! 歌なんか二度と歌わない!」
ロランの瞳から涙が落ちた。
「安産で良かった」
「何よりだねえ」
「朝からなんも食べてない。家で食べるよ。これおくれ」
「はいよ」
一仕事終えた産婆ドリアーヌが屋台で肉の挟まったあたたかいパンを買っている。
「スピーチはどれくらいだ?」
「前回長すぎて不評でしたから。私の方で削りました。脱線しないでくださいね。独唱も」
「気が付いたらやっているんだ」
「そこを何とか我慢してください」
町長コンスタンタンと副町長が壇の確認をしようとしている。
ポン
突然煙を上げて、広場の中央にある舞台の上に何かが現れた。
「え?」
「何々?」
夕暮れ。
もうもうと湯気を上げる何かと、老婆が立っている。
彼女は周囲を見渡し、一言言った。
「多いわ!」
広場中の人々が彼女を見ている。




