【18】セントノリスの生活委員
セントノリス中級学校2年生ロニー=ハンマーは考える。
あと1年、早く生まれていたらきっと楽しかっただろうなあ、と。
とんとん、とノックすると『どうぞ』と声が返る。
失礼しますと扉を開けたその先で、じっと先輩がペンを片手に手元の紙を覗き込んでいる。
いちばんいい場所にある生徒会室とは比べ物にならない、校舎の隅っこの小さい暗い部屋。
それでも綺麗に整頓された部屋の中に一人。
長めの黒髪が、俯いた顔の白い耳にかかっている。
「セレンソン先輩。2年の資料、全部まとめてきました」
彼はロニーの手にある紙を受け取り、じっくりと読み、やがて顔を上げてロニーを見て柔らかく笑った。
「ありがとうロニー。君はいつも本当に丁寧だね。副委員長が君で、僕はすごく運がいい」
「まだまだっす」
「謙遜しないでいいよ。ここなんて確認だけでもすごく時間がかかっただろう。前の資料と数がぴったり合ってる。他だって細かいところまで遡って確認してある。こういう丁寧な仕事は尊敬するし、見習いたいと思う」
「……ありがとうございます」
じゃんけんで負けて生活委員になったとき、正直貧乏くじを引いたなと思った。
生活委員。挨拶やら掃除やら、規則やら。生徒会が決めた方針を運用し結果を報告する、現場の地味な雑務係だ。学園のおかん係と言ってもいい。
だがしかしロニーは週一回の放課後のこの時間が嫌いじゃない。
アントン=セレンソンは不思議な先輩である。
平均点が例年の1割増という優秀な学年のなか、かのハリー=ジョイス、ラント=ブリオートともに1号室をキープし続ける秀才なのに、彼に気取ったところ、人を見下すようなところはまるでない。
必要ならば自分よりも順位の下の人間、なんなら年下の自分のようなものにも平気で彼は教えを乞う。聞けば彼は誰よりも朝早く目覚め勉強しているという。
彼は人の美点を誰よりも素早く見つけ、当たり前のように心から、嬉しそうに褒める。
貴族であるフェリクス=フォン=アッケルマン先輩、アデル=ツー=ヴィート先輩とも仲がいい。彼は見かけるたびに違う人々と、垣根なく話し笑いあっている。何かが起きるときは決してその場の中心人物ではないのに、彼はなぜかいつもそこにいる。
不思議な人だなとロニーは思う。近くにいると気がついたときにはいつの間にか彼に引っ張りあげられていて、自分は前よりも高い場所に立っている。それなのに彼は動かずに、嬉しそうに笑ってこっちを見ているのだ。
体育会系のロニーが、数字に敏感なことを見抜いたのはこの先輩だ。どんなことでも小さな数が合わないとムズムズするほうなのだが、『そんな細かいことを』と笑われるのが嫌でこれまであまり口に出してこなかった。
『君には当然かもしれないけどそれは誰にでもある感覚じゃない。それは君の優れた、強いところだよ』と彼が褒めるから、だったらいっそ極めてみようと思った。そしたら何故か今までだって手を抜いていなかったはずの成績まで上がってしまった。
手元の紙とロニーの出したものを見比べて手を動かしている横顔を見た。
「……先輩は上級学校までいくんですよね」
「うん。もうあと三年しかない。もっともっと頑張らないと」
セントノリス中級学校を出た生徒の進路は様々だ。
だいたいの者はそのままセントノリス上級学校に進む。
中級学校で十分、というものはそれぞれ就職したり、家に戻って家の仕事を引き継いだりもする。
より何かに特化した、別の上級学校を外部受験するものもいる。
ロニーはこのままセントノリスに通うつもりだ。そしていずれは王家に仕える文官を目指す。上級学校三年生のときに一斉の試験があり、毎年一定の数の者が文官に採用されている。各地方の役人は地方ごとに受験日が違うので自分で応募してそれぞれ受ける。
1号室ともなるとその試験を受けずとも直接お声がかかることがあるというが、本当のところはどうなのだろう。
「……やっぱり5号室くらいまではみんな学内の進学ですよね」
「一人、2号室の頑固者がずっと悩んでる。僕としてはいっしょに進学したいけどこれは彼の大切な夢だから、口を挟まない。本当なら一日中片耳に張り付いて説得したいところだ。僕の忍耐力に彼は感謝したほうがいい」
「へえ……」
「君がくれた分で全部揃った。提出してくる。今日はもういいよ。ありがとう」
微笑んで言われた。
「……お疲れ様でした」
「うん。またね。週末はビスバールの大会だろう。頑張ってくれ我らがエース」
先輩が立ち上がって開けた扉の先に、誰か立っている。
ふわふわの髪、琥珀色の目の背の高い乗馬服姿の男だ。優しく笑っている。
「ラント」
先輩が彼に歩み寄る。
先日の期末試験で1位だった馬術部のエース、文武両道のラント=ブリオート先輩。整った顔を、彼はいつ見ても柔らかく緩めている。
「今日は部員以外も乗っていいって。誘いに来た」
「ありがとう。……全然上達しなくてごめん。最近は僕が乗ると馬まで溜息をつくんだ」
「あれはただの鼻息だよ。大丈夫、だんだん上手になってきてる。今日はフェリクスも来てるよ」
「じゃあ今日はフェリクスにお願いして教えてもらおう。ごめん君は上手すぎて、申し訳ないけど凡人にはときどき理解できないことがあるんだ」
「そう? ハリーのときは大丈夫そうだった」
「凡人にはと言っただろうラント。あの男と比べないでくれ。比べられる僕があまりにも気の毒じゃないか」
「そうかなぁ」
扉の影からもう一人、誰かが現れた。
「そこまで言うならば教えてやらないこともないぞアントン」
貴族のフェリクス=フォン=デ=アッケルマン先輩だ。この人も背が高い。
クラシカルな乗馬服が、神経質そうだが品のある顔にしっくりと馴染み実に似合っている。
セレンソン先輩と幾度も3位争いをしている成績上級者である。
セレンソン先輩がアッケルマン先輩を見上げて言った。
「来てるってここにかフェリクス。今日はよろしく。僕は君が貴族として初めて馬を贈られた6歳だった頃よりもひどいから覚悟してくれ。君の乗馬服かっこいいね、すごく襟が高くて」
「そんなことがあるのか。伝統的な服装だ。どうしてもと言うなら貸してやらないこともない」
「サイズが合わない」
「そうか。失礼」
「笑うな成長期。僕はこれを提出して、一度部屋に帰って着替えてから行くから、先に行ってて。二人とも誘いに来てくれてありがとう」
「わかった」
「では先に行っている」
話しながら先輩方が去っていく。
すごいなあ、とロニーは思う。
ロニーの学年の1号室、2号室には入室すると成績が下がるというジンクスがある。
同室は互いに白刃で斬り合うような、1点2点の差を争う者同士なのだ。試験前など息もつけないようなすさまじい空気になるのだという。
だがライバル同士であるはずの彼らの互いを見る目には尊敬があり、軽口を叩いていても言葉のなかに相手への労りがあった。
大切にし合う友人同士であることが伝わってきた。
彼らはただ立っていただけ、ただ話していただけなのに。
「……かっけー……」
ロニーは思わず呟いた。
一つしか違わないはずの彼らが、とてつもなく大人に思えてならなかった。
あと1年、早く生まれていたらきっと楽しかっただろうなあとロニーは思う。
あの世代に、彼らと同級生として立てたなら、それはどんなに面白かったことだろう。
様々な才能を持った人たちがひしめく奇跡の学年だ。後輩として誇らしい反面、なんとも言えない悔しさを毎日感じている。
今だって彼らの星のような輝きに、羨ましいなあ、妬ましいなあという気持ちが芽生えている。
『手の中にあるものとこれから手に入れるものの数を数えて進もうよロニー=ハンマー。君なら一つも見逃さないだろう?』
「……」
いつだったか先輩に言われた言葉が甦りロニーは1人頷いた。
並んで歩めずとも、後ろから、その光景を見ていられる。
後輩として彼らを、面白く見ながらついていこう。




