4皿目 女王補佐官ジョーゼフ=アダムス
女王補佐官ジョーゼフ = アダムスは苦悩していた。
「あなた、お薬ですよ」
「うむ」
妻ジョアンナに差し出された粉薬を水で一気に流し込む。
ここのところずっと胃がシクシク痛み、食が進まない。
そんな夫を妻は心配そうに見上げている。
「……今宵フィリッチ公派の方と会合があるとか」
「ああ、一対一で。女王は今ご心労で、討論できるような状態ではない。私が代行する」
今宵火花を散らすだろう相手があのパウロであることを、ジョーゼフは妻に言わなかった。
かつて二人はまだ若き日に肩を並べて笑い合った、親友同士であった。
女王陛下は御年52歳。争いを好まず周辺の国々と協調関係を結ぼうとする穏やかな統治に、軍部の不満は年々高まっていった。
『これだから女は』と反発され、子がないことを『女のくせに』と蔑まれ、気高く純粋だった女王の心は、年を追うごとに蝕まれていった。
王配である夫が若い女性の上で腹上死したことも、女王のお心に大きな衝撃を与えたことだろう。
『わたくしの人生は、いったい何であった。教えてくれジョーゼフ』
背を凛と伸ばしたまま、静かに涙に濡れる女王を慰める言葉を吐きながら、もう限界だ、とジョーゼフは感じていた。
後継者を決めるべきだ。
女王ではなく一人の女性に戻って、残りの人生を穏やかにお過ごしいただきたい。
もう長年戦い続けたこの女性に、大国アステールの王冠は重過ぎる。
時折見せる暗い瞳が、そのまま何か闇に沈んでいきそうな不安とともに、長年お仕えした美しいお方の残りの人生の幸せを、願わずにはいられなかった。
「後継者はトマス公にすべきだ。あのお方なら必ず女王の意思を継ぎ、この大国を穏やかにお治めくださることと信じる。フィリッチ公は短慮なうえ戦を好みすぎる。あまりにも危うい」
襟を正しながら言う夫を、妻は頼もし気に、だが心配そうに見つめた。
「大きな戦争なく20年。これを30年、40年にしてくださる方に王冠を継がせる。国の民のために」
「……行ってらっしゃいまし」
多くの言葉を挟まずにそっと夫の手を握る優しいこの人を、ジョーゼフは青年だったあの日から今日まで、ずっと愛している。
「行ってくる」
靴音を響かせジョーゼフは家を出た。
「なぜわからない! フィリッチ公の愛馬が観賞用に見えるのか!? どう見ても訓練された軍馬であろう!」
「失礼なことを言うなジョーゼフ! かのお方は明るく朗らかでお優しい。剣術に優れるのは才能があるから、軍事に詳しいのは地頭がよろしいからだ。そもそも力も知識もない女のような男に、この大国アステールをお渡しできるものか!」
「遠回しに陛下を侮辱するなパウロ! かの方は力も、知識もお持ちだ。だからこそ使わないのだその恐ろしさを真にご理解しておられるから! 剣を抜くことだけが戦いではない!」
「腰抜け腰抜けと蔑まれ、諸外国からは舐められておるのだぞ! 先のカサハラ・ザビアの戦いを、指をくわえて見ていたあの弱腰の判断。介入し全力で畳みかければかの地は我々の領地になっていたことだろうに! 世界会議で我々がどれほど笑われたのか知らぬのだジョーゼフ!」
「あえてその道を行ったのだ! 力で押せば必ず力で返される。国土を広げようと腕を伸ばせば必ずや脇を突かれる! 我が国はもう充分に広い。刃を向けず、内政を保って。生産力を上げ国民の生活を潤さんと欲するお考えの深さを何故理解できないのだ!」
「それを腰抜けと言っておるのだ! 改革なくして国は富まん!」
「我が国に必要なのは刃を外に向ける改革ではない! 堅固な壁で国民を守り、慈しみ育てる改革だ!」
話は平行線のまま何も進まず、会議のテーブルに横たわっていた。
キリリと胃が痛んだ。
ジョーゼフは頭を抱える。
パウロとは昔親友と言っていいほどの仲だった。
ジョークが好きで、新しいことが好きで、いつも人を笑わせる柔軟で明るい男だったのに。
目の前にいる男は、ジョーゼフの言葉にはすべて反発しようという強い意志を宿してこちらを睨みつけているようだった。
どうしたら
どうしたらわかってもらえるのだ。
頭を抱えるジョーゼフとパウロの脇に、突然何かが現れた。
「誰だ」
「おでん屋だよ!」
老婆が叫んだ。
とく、とく、とくとあたたかい陶磁器から丸い小さな椀に透明な酒を注ぐ。
ふわりと香った甘やかな香り、口に入れた瞬間のふくよかな滋養が、背筋を震わせる。
「……ふう」
「おかみさん、その袋みたいのはなんだね」
「もち巾着だよ。食うなら温めるよ」
「いただこう」
「あいよ」
「私も」
「あいよ」
何故かパウロと横並びに腰かけて、ジョーゼフは『オデン』を食べている。
ほかほかとした湯気が顔に当たる。
皆同じ味付けなはずなのに一つ一つ食感が異なり、それぞれの素材の味とともに、じゅわりとあふれ出す汁が、口の中いっぱいに広がる。
ちょんと黄色いものにつければわずかに辛みを増し、さらに酒に合うのが何とも憎い。
飲み込んだ汁が荒れた腹を内から温める。
まさか自分たちのところにフーリィが現れるとは思わなかった。
自分とこの男は祝杯を受けるほどの何かを為したのだろうか。
ただ、ただ毎日必死に働いて、気が付けばこんな立場、こんな歳になって。
気持ちはまだ、あの学園にいた若き日と、なんら変わりがないというのに。
じわりと目頭が熱くなった.
いったいどうして我々は、肩を並べて笑っていたはずの我々は、こんなにも違う立場になってしまったのだろうか。
「うっ」
横から響いた声に顔を向ければ、パウロが鼻を赤くして目頭を押さえている。
「……」
どうした、と問おうかと思ったがやめた。
自分だって同じような心持だったからだ。
何故泣けるのだろう。
なぜこんなに胸が切ないのだろう。
ほかほかとした湯気と柔らかな香りが運ぶ、フーリィの魔法なのかもしれない。
「……ジョーゼフ、おれはお前を真面目で清潔な、正義感溢れる男だと思っていた」
「光栄だ」
「あの日まではだ! お前がジョアンナへの俺の手紙を破り捨てたあの日まで!」
「何の話をしている?」
「渡してくれと頼んだだろう! 3年生のとき、星祭りの前々日、ジョアンナに!」
「渡した。確かに渡したぞパウロ」
「じゃあなぜ彼女は現れなかった! おれはあの日一日、ずっと広場で待っていた。日が傾き、夜になるまで、馬鹿みたいに! 星祭りに彼女と行きたくて! 彼女に交際を申し込みたくて待っていた!」
「……」
ジョーゼフは考えた。
3年生のとき、星祭りのとき
「パウロ」
「なんだ」
「獅子月の15日は彼女の祖父の命日だ」
「……」
「……行けなかったんだ彼女は。お爺さんが倒れたから。最後の星祭りにも出られなくて残念だったと、そう言っていた。彼女のことだからお前にだってきっと後から事情を説明したんじゃないか」
「……されてない。残りの期間、おれが徹底的に彼女を避けたから」
俯き、彼は顔を覆った。
「……お前が破り捨てたんだと思おうとした。手紙を読んだ彼女が来なかったんだなんて思いたくなかった。……最悪、二人しておれの手紙を読んで笑っているんじゃないかと、勝手にお前たちを憎んで避けて」
「パウロ……」
「……そうか。お前は卑怯じゃなかった。彼女も笑ってなんかなかった。ただおれが馬鹿だっただけか」
「……」
「……そもそもな卑怯なのは、おれの方なんだよジョーゼフ。おれはずっと彼女を見ていたから、彼女が誰を見ているか知っていた。いつもおれの横にいる背の高い色男を、彼女はずっと目で追っていた。だからお前に手紙を頼んだんだ。お前が他の男の手紙を持ってきたら、彼女はお前を諦めるんじゃないかって、そう思って。……どうだ、卑怯だろう。親友のふりをして、おれはお前を蹴落とそうとしたんだ。お前がずっと誰を見ているかも知っていたから」
「……」
パウロは笑いながら泣いている。
泣くと鼻が赤くなるのは変わらないのだなとジョーゼフは思った。
ジョークが好きで、新しいことが好きで、いつも人を笑わせる柔軟で明るい男だった。
その友が人を笑わせながら心の内で泣いていることを、あの若き日、ジョーゼフは見抜けなかった。
ぽん、とジョーゼフは親友の、丸くなった背を叩いた。
「若かったんだよ。パウロ。青春だったんだ。青春っていうのは恥ずかしい馬鹿をやるのが仕事だろう。若い時にちゃんと馬鹿をやったから、今、俺たちはこんなに酒が染みるんだ」
「……ありがとう。……お前はいつも正しいな」
パウロの空いた椀にジョーゼフは酒を注いだ。
「おまちどうさん」
ほかほかの袋状のものが、二人の前に置かれる。
ジョーゼフはそれをじっと見た。
汁に、皿についた黄色いものをすべて溶かす。
「何やってんだジョーゼフ、それ辛いんだぞ」
「……フィリッチ公を推すというのはこういうことだパウロ」
「……」
「さまざまな種類の個性が反映されながら味わい豊かに調和していこうとしているものを、暴力的なまでの強さで飲み込み、壊し、台無しにする。そういうことだパウロ。お前だって娘が、孫がこの国にいるだろう。彼らの生活を考えろ。……強いものは時期と程度を間違ってはならぬのだ。軍部にも立場があるだろうから戦うなとは言わぬ。今は国防に活かせ。どうか程度を考えてくれと言っておるのだ」
「……ジョーゼフ……」
パウロがじっと考え、自分の皿の黄色いものをジョーゼフと同じように全部溶いた。
老婆が二人を睨む。
それで残したらただじゃおかねえぞという声が聞こえた気がした。
パウロと目を合わせて頷いてガッと口に運び、汁を飲み込んだ。
「ちゃんと噛めよ。じじいはよくそれで死ぬからな」
もっちりするものを味わうこともできずに飲み込みながら、二人は涙を流した。
涙は黄色いののせい
涙は黄色いののせいと
自らに言い聞かせながらだくだくと泣いた。
横では親友も同じように泣いていた。
まったくこの黄色いのは辛いなあ、辛いなあパウロ、と
ジョーゼフは泣きながら笑った。