【10】セントノリスの軍人志望生アデル
アデル=ツー=ヴィートはセントノリスに入学し、時々驚きを発見をしている。
アデルはヴィート家の三男である。
大陸の東の方にある、海にも国境にも接していない、平和でこれといって特徴のない領地だ。強いて言えば果物がよくとれる。
長兄は銀髪の柔らかい物腰の優しい兄で、父の下で次期跡取りとして立派に勤めている。同じく銀髪の気質の穏やかな次兄は貴族学校を来年卒業予定で、卒業後は聖職者を目指すという。
そして黒髪のアデルの三兄弟。母はいまだに『息子は可愛い。でも一人くらい女の子が欲しかった』と嘆く。
比較的小柄な人が多い家族の中、アデルは何故か大きく、いかつく育ちつつある。曾祖父によく似ているそうだがアデルは曾祖父を見たことがない。
もっと幼いころは家族の皆と違う自分の顔を不思議に思い、鏡の中の目付きの悪い目を一生懸命指で下げた。だがそんなことでそれは優しくはならず、『何か怒ってる?』とよく聞かれる。アデルは怒っていない。
アデルは歴史が好きだ。全部好きだが特に過去勇敢に戦った戦場の英雄たちが好きだ。自分自身も軍人になるという夢がある。歴史書という歴史書、過去の英雄に関するあらゆる書に目を通したアデルは、活躍した英雄たちの名と出陣した戦場から好きな食べ物までそらで言える。言う相手もいないので言わないが。
剣も習った。普段は領主の子供だからと遠巻きにされがちなのに、練習場では周囲との距離が近くなるのが楽しかった。そこでは平民とも交わり、屋敷の中だけでは知らないような知識と楽しさを得た。
軍人になる夢は家族に反対された。皆穏やかで、争いごとを好まない、平和な人たちなのだ。
軍の幹部候補生が通う軍官学校の受験資格は15歳以上。まだそこまで3年ある。学校に行かずとも現場の下っ端として入り働き選抜試験に受かりながら上を目指す方法もなくはないが、こちらは上がれる可能性が低いし危険性が高い。
すぐにでも軍に入りたかったアデルは後者を希望したが、家族は認めなかった。まずはヴィートの家に生まれた者の責務として一定以上の偏差値の中級学校に受かること。そうしたうえでどうしても気が変わらないのであれば15歳になったら軍官学校を受験すればいい、と。
子供の夢だ。3年の間に気が変わることを祈っているのだろう。あいにくアデルにそんなつもりはない。今からせっせと受験勉強を進めるつもりだ。早く15歳になりたい。
なのでアデルはセントノリスでの生活に正直興味がない。友人もいらないし、面倒そうな成績争いに参加するつもりもない。ただただ何事もなく早く終わってくれればいいと思っていた。それなのに。
おかしなやつに目を付けられた。
いや、あれはアデルも悪かった。32位で受かったら部屋が4人部屋で、貧乏ゆすりをするやつ、でかいいびきをかくやつ、歯ぎしりをするやつと同室だった。
アデルだって地方とは言え貴族だ。当然それまでずっと一人部屋だった。長い移動のあとなのに人のたてる音に気が休まらず寝不足で、入学式は半分寝ているようにぼんやりしていた。
歩きながらあくびをしてよろめいたら誰かの肩に体がぶつかった。
相手は飛んだ。驚くほど吹っ飛んだ。人間が、肩がぶつかったくらいであんなに飛ぶはずない。彼がたまたま何か用があって後ろに飛んだのだろうと思ったので歩き続けた。しばらく行ってから後ろがざわついているので振り向いた。彼は倒れ友人らしきものに助け起こされていた。アデルは驚いた。いやまさか、だって自分はなんともないのに。そこですぐに戻り謝ればよかったのだろうが、驚きと混乱のあまり逃げるようにアデルはそこを去った。
彼が学年3位の平民、アントン=セレンソンだと知ったのは後からだ。首位の平民と楽し気に笑っているのを思わず見ていたら目が合い、すさまじく楽しそうな顔でにやっと笑われた。
何故か背筋がぞっとした。
『お初にお目にかかります、アデル=ツー=ヴィート様』
声をかけられたのは翌日だった。目を上げれば、アントン=セレンソンだった。積極的に友達作りもしていないので選択制教科で一人で座っている席の隣に、彼は当たり前のように座った。
『アントン=セレンソンと申します高貴なお方。でもここは身分の垣根なきセントノリスの門の中。君と僕とは同級生。だから親しみを込めてアデルと呼んでいいかなアデル。入試の社会の成績1位なんだってね満点で。尊敬する。今後ともよろしく』
『……』
にっこりと笑った。自分よりも小さくてひょろひょろのこの男をなぜか恐ろしいと思った。
アントン=セレンソンと隣になるのは週に3回ある歴史の選択授業だった。
今日こそは早めに行けば誰か先に隣に座るだろうと座っていても誰もアデルの横に座らない。アデルは怒っていないのに。
セントノリスの生活なんてどうでもいいとはいえ、さすがのアデルもこうなると悲しくなってくる。
と、誰か座ったのでアデルはぱっと顔を明るくしてそちらを見た。
そしてがっくりと肩を落とした。見慣れた顔がそこにあった。
「……セレンソン……」
「やあアデル。今日もよろしく」
机に教科書とノートを広げながら、アデルを見てにっこりとうれしそうに彼は笑う。
なんだろう。彼はいつもアデルをものすごく楽しそうに見る。
最初のとき以来は挨拶以外特に話しかけてくるでもないので、特にアデルも何もしゃべってこなかった。何度も何度も横に座って授業を受けている。
もう、謝ってしまおうとアデルは思った。そうしたら彼ももうここには座らないだろう。
静かに、静かに。何事もなくアデルはセントノリスの3年をやり過ごすのだ。
「君に謝罪する。アントン=セレンソン」
「なんのことだろう。僕は君にそんなものは求めていない」
「……じゃあ何故君はいつも俺の隣に座る」
「初めて見たときから、僕は君のノートの熱烈なファンだからだ」
「ファン……?」
尋ねれば彼は顔をアデルに向けた。
「失礼。触れて開いても?」
「……ああ」
彼の指がアデルのノートに伸び、ページをめくる。
「ああこれこれ。戦いの箇所に書き込まれる実際に使われた戦法の図と当時の地形、将軍名、将軍が参戦した別の戦争の名前、なんと将軍の好物までもが書かれる魔法のノート。どうして僕がそんな素敵なものを見逃すと思うんだ」
「……???」
「『目玉焼き(固焼き)』なんてそんなはずがないと思ってギギーレ将軍の伝記を読んだら本当にそう書いてあったときの僕の感動を伝えたい。地理も、戦術も、すべてが正しかった。このノートは本当に歴史の宝物をぎゅっと凝縮した魔法のノートだ。それが目の前で出来上がるさまを見られる幸せ、いったいどう言ったら君に伝わるのだろうか」
うっとりと白い指にアデルのノートの表面を撫でられ、アデルは戸惑う。
うまく言葉が出てこない。アデルは結構口が重い。歴史に関すること以外は。
「……歴史、好きなのかセレンソン」
目を輝かせてノートのページをめくるセレンソンを前に、アデルは聞いた。
セレンソンが微笑む。
「うん。今にまで脈々と連なる人の偉大さと愚かさの記録だもの。きっと闇に葬られたりもみ消されたものもあるだろうけど、逆にそれを見つけようと裏返して読むのも大好きだ。どんなに偉大なものもいつかは滅びるという痛烈な皮肉のきいた分厚い人間の教科書。現在に残る不思議な無駄やムラの原因の記録集。実に大好きだよ。でもどうやらこれまで僕は神の視点で歴史を見てた。だから君の、上から見下ろすのではなくその場所に立って水平に、遠くまで見るような視点が新しくて、すごく面白い。ここに座ると、君のノートから吹いたその時代の風に髪を揺らされているような気さえする。君のおかげで僕はますます歴史が楽しくて好きになった。心から感謝しているよ」
「そうか……」
嘘を言っているようには見えない。
とりあえず彼はあれを恨んでネチネチ言いたくてここに座っていたのではないようだ。
彼はじっとアデルのノートを見ている。
そして顔を上げた。目が輝いていて頬が赤い。平民の彼は貴族のように取り澄ますこともない。
「アデル。話せて嬉しい。先約がなくて嫌でなければ、今日授業のあと一緒に食堂に行かないか。僕は君が語る歴史の話を聞きたい」
アデルは昼も一人で食べている。周りもいつも空いている。別に怒っていないのに。
こうやって同級生と話すのもひさびさだ。しかもセレンソンは歴史の話を所望だという。
頬を染めたままアデルを見上げ、セレンソンはアデルの答えを待っている。
自分はどうしてこんな小さくて無邪気な少年をこわいなどと思ったのだろう。
少し楽しくなって、アデルはふっと笑った。
「受けようセレンソン」
「ありがとう。アデルは肉が好きそうだね」
「なんでも食べる」
「僕は野菜と魚が好きだ」
「渋い」
「あ、ノートはこう置いてくれ。僕に見やすいから」
「俺が書きにくい」
「それは困る。じゃあいいよ。僕が伸びれば済むことだ」
「……食堂でゆっくり読めばいい。なんなら解説だってする」
ぱっとセレンソンの顔が輝く。
悪い気はしない。アデルは微笑む。
彼も微笑み、自分の左肩をアデルに差し出した。
「ありがとう。お礼には、そうだな肩でも貸そうかアデル」
「やっぱり根に持ってたかセレンソン」
じっと見た。
思った以上に彼は細いのだ。もっと肉を食うべきだと思う。ひょっとしたら貧しくて食べれなかったのだろうかかわいそうに。
確かにそれではふんばりもきくまい。貴族の自分が、剣で鍛えた大きい体でかわいそうな平民の彼に当たれば吹っ飛ぶのは当然のことだった。
軍人ともなれば彼もまた守るべき国民だ。傷つけたことを恥に思うべきである。助け起こさなかったことも、今まで謝らなかったことも。
「言い訳になるがあれは事故だセレンソン。眠くてふらついてたら君に当たった。その場で助け起こし謝罪しなかったことを今謝罪する。事故とは言え俺のような大きなものが、小さい君に、実に申し訳なかった」
「君の謝罪を受け入れる。でも小さいは余計だアデル=ツー=ヴィート」
じっと彼はアデルを見上げた。
そして何故か残念そうにため息をつく。
「僕としてはもっと陰湿で嫌な男でも良かったんだけど、思ったよりまともで優しくて拍子抜けだ。こんなのただの静かないい男じゃないか。でもノートがとても素敵だから、いいよ」
「何を期待されていて何に認められたのかわからない。始まるぞセレンソン」
先生が入室する。授業が始まる。
手元を思い切りのぞき込まれていることを知りながら、アデルは情報を紙の上に広げ続ける。
なんだかいつもより自分の文字の勢いがいいような気がした。
横の男がそれをじっと、穴が空くほど見ながら自分の手を動かしている。




